忌避 ④
トイレペーパーを少しだけ千切って目許を拭う。頼りない薄い紙に一円玉程度の淡い灰色のしみができた。
『……………………………あぁ、ごめん。俺、炭酸苦手で……水でいいよ。ねぇ、ちょっとトイレ借りていい?』
そう言って足早に悟の前を横切ると、彼の返答を待たずにユニットバスへと続くドアを開けた。
今、僕は浴槽の縁に腰掛けて目を閉じる。そのままゆっくりと息を吸い、胸を軽く越えて上半身の隅々にまで酸素が行き渡る様を想像すると今度は吸った時よりも存分に時間をかけて息を吐く。
(………………生きてる)
心臓の拍動を感じたくて胸に掌をあてる。ついさっき強く手の平を握った所為で、僕の手には生命線を横切るように赤い跡がついていた。内出血もしていそうだ。そういえば少し痛い。それでも僕の心臓はその傷を慰めるように掌を押し返してくる力強さがあった。
あの日、Aは事故にあった。
歩行者の聖域たる横断歩道で自動車に撥ねられた。
短い人生で感じる筈もない衝撃を全身に受け、いとも簡単に宙をひらりと舞った時、
(無重力ってこんな感じだったんだ………)
と思った気もしたが、実際にそう思ったのはコンクリートの地面に全身を叩き付けられた後だったかもしれない。
“痛い”という言葉の真の意味をこの時初めて知った。“痛い”は“熱い”のだ、とも知った。
身体の左側を下にした体勢で無意識に右手が左手を探す。左手は指を守るように握られていて、安心した僕は右手も握る。握った拳を少しずつ胸に近付けると早鐘を打つ鼓動に行き当たる。それはまるで内側から扉を叩き続ける閉じ込められた子どもの叫びのようだ。知っている。この振動を感じている間は生きている。
眼球に何かが纏わりついて視界を奪い始める。それは血液かもしれないし、遠のく意識の靄かもしれなかった。
眼の前の横断歩道の白いラインの上に褐色の液体とぶくぶくと音を立てていそうな気泡が連なって小さな水溜まりを作っていた。どこか甘くも刺激的な香りがする。
人間において最期まで機能する感覚は聴覚だとどこかで耳にしたことがあるな。本当だろうか、嗅覚じゃないのかな。
(今日に限ってわざわざ遠回りしてさ、コーラなんて買うんじゃなかった)
とうに回らなくなった頭に浮かんだことはこの程度の愚痴だった。
粘着く視界で転がるペットボトルの虹色のラベルが辛うじて見える。依然どくどくと気泡を吐きながら、次の瞬間には弾かれるように転がって眼の前で停止する。
ペットボトル越しに見る南中の太陽に虹が架かり、Aは漸く死ぬことを覚悟した。
「ごめん。勝手にトイレ借りた」
扉を出来るだけ音をたてないように閉めて、ローテーブルの脇のリュックの隣へと戻る。悟は既にジェッツコーラを半分以上飲んでいた。その前には恐らく常温近くまでぬるくなった僕用のコーラがある。トイレに入る前と違うところといえば、そのカラフルなペットボトルの横に大きめのグラスがあるところだ。きっと中身は水だろう。
(ほら。大丈夫だ。心の準備さえしておけば不必要に怖れることはない)
「ん?こっちこそ、ごめん。それ、水道水」
ここで悟が放った“ごめん”に内心どきりとするが、すぐにミネラルウォーターがないことに対する“ごめん”だと理解して僕は胸を宥める。
「そんなことないよ。わざわざありがとう」
と、すぐにグラスに口をつけながら相変わらずスマホの画面に釘付けの彼に向かって目礼する。
うん、紛うことなき水道水だ。
そうやって何口か味わうためにグラスの中の液体に意識を飛ばしたからか、思った通りに次第に火照っていた気持ちも落ち着いてくる。
「どう?サークル作れそう?」
自分事でもあるのに疑問形で悟に主導権を渡した。すっかり平静に戻っている。
「うーん、なんか認可されて良いことってたくさんあるんだけどさ、面倒なことも多いっぽい。この人が大変って言ってる」
どうやら今は誰かの体験記を読んでいるようだ。
「大変ってなに?」
僕といえば相槌がわりに尋ねることしかしない。
「やっぱ活動報告をきっちりしなきゃいけないらしいし、あと、なんていうの?経理的な………」
「ああ、経費とかお金の流れも報告しなきゃいけないってこと?」
「そうそう、それ」
意を得たり、と悟が人差し指で僕を指差す。
「そりゃ、そうか。活動費の透明性は重要だよね。大学にしても、メンバーに対しても……」
僕は腕組みをして彼の次の反応を待つ。正直なところ、僕は公式でも非公式でもどちらでも良かった。大変なことや面倒なことが増えたとて、ぐちぐちと文句を言いながら取り組むのも乙だと思っているぐらいだ。
だが、彼は違うらしい。
「うーん、ちょっと、あれだな………団体として活動するのは、とりあえず保留!!」
悟はスマートフォンをきれいにメイキングされたホテルライクのベッドの上に軽く投げて、そのままお手上げのポーズをする。
それでもいいか、と、その姿を微笑ましく見ていると、ふと疑問がまた沸き上がってくる。しかもこれは重大な問いだ。
残りのコーラを飲もうとキャップを捻るが、気の抜けたしゅぅとしか言わなくなったペットボトルを仕方なしに一気に傾ける彼はまだ気付いていなそうだった。
「………ところで、何のサークルつくるの?」
飲み切ったペットボトルから口を離した悟は、初めて聞いた言語を反芻しているかのように動きを止めると、急に右手に力を入れてパキッとボトルの膨らみを潰す。
「………………それな!!」
二人同時に放った言葉が奇跡的にぴったりと誤差なく重なり、僕等は声をあげて笑い合う。悟が笑いながら空のペットボトルをテーブルに立てたのだが、それが僕等の笑いの振動ですぐに倒れて転がり、また顔を見合わせて笑った。
湿った部屋の隅々にまで乾いた声がころころ響いて、すぐにでも梅雨が明けそうな気がした。




