忌避 ③
「………そもそも、一年生でもサークルって作れるんかなぁ」
悟が情報を集めようとスマートフォンを取り出して右手で操作し始める。それと同時に左手で僕に対して“好きなとこ座りなよ”と指示を出すように人差し指で飴色のオーバル型のローテーブルの端を軽く叩いた。
僕達は、学食で過ごした昼休みではサークルの選び方について到底答えが出ず、今日はアルバイトのシフトも入っていなかったことから、四限の近代建築史の講義のあと悟の家で仕切り直すことにした。悟と出会って二ヶ月と少し経ったが、僕はこの彼の一人暮らしの部屋に来るのは初めてだった。
「ねぇ、今日、バイト?なければ帰りにウチ来る?場所変えれば良い案思いつくかも。まあ、知らんけど」
とトレイを返却口に返しながら、悟が口角を上げて提案してきたのだ。
僕とて、一人暮らしというものに多少なりとも憧れがあるものだから
「へぇ、やっと招待してくれるんだ。ちょっと気になってたんだよね。一人暮らしの部屋ってどんな感じなのか」
と二つ返事で誘いにのった。
悟の部屋は大学の正門から最寄り駅とは反対の方向に10分程歩いたマンションにあった。これだけ近いと朝はゆっくりできそうだな、と呑気に思う。グレーの外観の五階建てで各フロアは六部屋ずつとこじんまりとはしているが、学生専用マンションとのことで悟以外の住人も全て大学生だそうだ。ただ清志館大学が運営している寮とは異なり、大学も学年もバラバラで共通点といえばただ“学生である”という一点のみなので、独特な連帯めいた雰囲気はないという。
今日の本降りの雨に、僕が用意したこの折り畳み傘は少々頼りなかった。左の肩を半分濡らしながら悟に続いてエントランスをくぐり、屋根ができたところで傘を小さく三つ折りにして傘袋に突っ込むとリュックの外ポケットに差し込む。これでは水滴が布製の傘袋から滲み出てリュックも濡れてしまうが致し方ない。
悟の部屋は二階だというのでエレベーターではなくその向こうにある階段へ向かう。途中で高身長の一人の青年とすれ違い、その彼に向かって悟が片手を上げて挨拶をしたのを見る。僕も相手が気付くか気付かないか微妙なラインの会釈をする。知り合いだろうか。こういった所にいちいち彼を羨む気持ちが生まれてしまう。
足早に階段を上り、左に折れて進むと手前から三番目が悟の部屋だという。黒光りする扉のドアノブにじゃらじゃらといくつものキーホルダーをぶら下げた鍵を差し込む彼はすっかり大人の様相だ。
「どうぞー」
と、悟は仰々しくも丁重な仕草で扉を開けて僕を中へ促す。覗くと、小さな玄関スペースに悟のお気に入りのスポーツメーカーのスニーカーが二足並んでいた。青い流線形のラインが彼のターコイズのピアスによく似合う。
僕は身体を捻りながら靴を脱いだが、狭い玄関の三和土に帰宅した悟のスニーカーと僕の27センチのスニーカーを並べれば、もう一足置く程の隙間はなくぎちぎちだった。
彼のスニーカーを踏まないように大股で玄関ラグまで足を伸ばすと、すぐ右側に扉が見える。
「ここがトイレと風呂ね。ユニットバスってやつ」
ご丁寧に白い扉を開けて説明してくれる。中を少し覗けば、わりと綺麗に使っているようで、浴槽とトイレの間を仕切っている半開きのカーテンの向こうの壁に見える造り付けの小さな棚にはシャンプーやボディソープが綺麗に同じ角度で並べられていた。
「で、ここに洗濯機があって、あれがミニキッチンね」
ひとつひとつ不動産屋のように案内してくれるところを見ると、僕が興味津々だということはとっくに彼にばれているらしい。それならば気になったことは正直に訊いてみよう、と僕も素直に口を開く。
「ねぇ、冷蔵庫はどこにあるの?」
廊下の両側を首をまわしながら探し、やはり見当たらないことを確認する。すると、途端に彼はいたずらっ子の表情を浮かべて、わざわざ「えへん」と漫画みたいな言葉を前置きしてから
「じゃじゃーん、実はここでした!」
と台所の下の扉を開いた。そこにはワンドアの白い小さな箱がぴっちりと一切の余白も許さずに収まっている。成程、こんなところのスペースを使うなんて、なかなか機能的で良いアイディアだと僕は感心して何度も頷いた。
廊下という程でもない廊下を進み居室スペースに突き当たる。8畳ぐらいだろうか。前方に窓、右壁側に勉強机(だと思うのだが、週刊の漫画雑誌や脱ぎっぱなしのパーカが山となっていてパソコンや本を広げるスペースは見当たらない)、左には黒いシングルベッドが壁に沿うように置かれている。右の机の上は完全に物置と化しているのに、何故かベッドはホテルのように整えられていて、そのチグハグさが山下悟という人となりの、まだまだ知り得ない複雑さを表しているようにも思え、僕は少し混乱した。何となくだが、この短期間で彼を“理解してきたような気がした”のだが、そんなことは所詮氷山の一角を認識していただけにすぎず、実は見えない層がまだまだ深く存在しているに違いない。誰だってそうだ、僕とて悟に見せている一面はそのTPOに適合した自分像を取捨選択して提示しているにすぎない。当たり前といえば当たり前のことを、今、当たり前に再認識して少しだけ寂しくなる。
中央にオーバルのローテーブルがあり、カバー付きのタブレットが放られていた。そのカバーが何故かピンクの大ぶりな花がらで、僕はますます悟のことが分からなくなる。
「……………えっと、サークルや同好会、研究会、部活など、大学内の活動単位は様々です………で、その構成人数によって登録できる種類が異なることもあります………ふんふん」
悟がスマートフォンでまとめサイトでも見つけたのか、自己完結的な頷きを含めながら読み上げてくれる。
僕といえば、腰をおろしたフローリングの絶妙な冷たさが何とも心地良く、リュックを傍らに置くと両手も床に付けてしばしオアシスの快楽を味わう。
六月の雨の日はさほど暑さは感じない筈なのだが、湿度が上がるにつれて身体から熱が放出されなくなるのか、体温以上の熱が籠っている気がする。それは代替する何かに昇華しなければ脳を焼いてしまいそうな危険な熱も含まれていて、だから僕達はその“何か”を探している。
「………大学の認可が下りると、活動費の補助や大学内の施設を使用できるメリットがあります………ふんふん」
相変わらずページを読み上げる悟が健気で、僕も相槌を打った。
「じゃあさ、デメリットとかはあったりするの?」
言いながらリュックを引き寄せてシルバーの水筒を取り出し、ワンタッチボタンを押すと蓋がぱかりと開く。中のお茶を二口飲むと、斜め右に座る悟が何かに気付いたように顔を上げた。あまりに勢いよく頭を動かしたので、僕は(首、痛めそうだな)と危惧したのだが、当の本人は何ら気にしていないようで意味もなく左右をきょろきょろと見回すと、僕のところで顔を止めてすまなそうな顔をする。
「ごめん!ウチに招待したの俺なのに、お茶出すの忘れてた!」
音を立ててスマホをテーブルに置くとすっと立ち上がる。
「あ、別に気にしないでよ」
と背中に向かってかけた僕の声は宇宙に吸い込まれるように無視される。
キッチンの小さな冷蔵庫の前に背中を丸めてしゃがみ込む悟がとても可愛らしいのだが、今それを言ったところでスルーされることは目に見えていたので言葉をきゅっと飲み込んだ。
その代わりに本屋の保留音でよく耳にする機会が増えたカノンを鼻歌で歌いながら、この低い位置から部屋をもう一度ぐるりと見回す。
(あ、ロフトがあるんだ。とっくに物置だけど)
机同様に、いくつか見覚えのある服が大きな山を作っていて、既にその山は崩落したのか、きっとそこにあったであろう一枚の白いTシャツがだらりとだらしなくロフトへと続く梯子に引っかかっていた。
(乾いた服はたたまずに重ねておくタイプかな)
今度は軽く腕を組んで依然カノンを口ずさみながらTシャツを見上げていると
「明日誕生日のナギには特別にコーラを提供しよう!」
と悟がレインボーラインが特徴的なデザインのジェッツコーラを二本掲げて、僕の横に立っていた。
「コーラ、ジェッツしかないけどいい?今日蒸し暑いしちょうど良いよね」
どん、音を立ててテーブルに置く。
「まあ、お茶がきれてたんだけど、ね」
そう笑いながら、キャップに力を入れるとブシュっと景気の良い音がして、ジェッツコーラ特有のスパイシーな香りがする。
(ああ、いけない)
頭を大きな鈍器で殴られたような衝撃が脳天を突き抜けた。
僕といえば、鼻腔にコーラの存在を感じながら首の骨が折れてしまったようにただ俯くしかなかった。
パッケージを直視できない。
組んだ腕の先に続いている筈の掌の感覚を感じない。かと思ったら、すぐに十本の指先に刺すような痛みが走って思わず強く握る。
握ることで爪が手の平を痛めつけて一瞬視界を失うような激痛が走る。
額に汗が浮いたのが分かった。
じわじわだった汗が集合体となり滴になる。無難に整えている僕の太くも細くもない眉でかろうじて堰き止められてはいるが、じきにテーブルを凝視して瞬きすらできないこの眼球を濡らすだろう。
ついさっきまで雨が降っていることも忘れていたのに、今は窓の外の雨音がやけにうるさくも感じた。
力を込めて、汗で滲みた眼をようやく閉じると、瞼を透過する程の強い光を感じる。驚き急いで再び眼窩に力を入れて眼を開くと、網戸の全ての穴を通って鋭い光がぱっと3回明滅して小さな部屋を通り過ぎる。刹那分遅れてそれを捕らえようとするように暴れる龍の咆哮が聞こえた。
「すげー、雷」
悟が立ち上がってカーテンを最大に開いて外の様子を窺い見る。
僕も叫びの正体を見極めようと、まるでのぼせてしまったように重く鈍い頭をゆっくりと息を細く吐きながら持ち上げる。
開いたカーテンが風もないのにふわりと膨らむ。
その先では悟のシャープな横顔を映した窓ガラスが怯えるように震えていて、僕も知らず奥歯を噛み締めた。




