忌避 ②
今朝は薄日が射していたはずなのだが、渡り廊下の窓は一面曇っていて外の様子を窺い知ることはできない。このガラスの様子から察するに、午前のうちに天気予報通りの雨が降り出したのだろう。思えば少し湿度も上昇したのか、僕の前髪もいつもよりふわふわと自由度が増している気がする。
ニ限のドイツ語Ⅰの授業の後、僕と悟は2号棟の学食に向かう。この二ヶ月で中央棟のカフェテリアや5号棟の学食にも行ってみたのだが、規模が大きすぎて今ひとつしっくりとくるものがない。僕達は暗黙的に2号棟の学食をホームと決めて、どちらかが居ない時でもこの場所に足を向けた。入口からぐるりと見渡せるこの適度なサイズ感が、僕に安心感を与えてくれる。昔から見えない部分があると僕は途端に不安になる性質だ。つまり学食に限って言えば、過ぎたるは及ばざるが如し、なのだ。
二ヶ月しか経ってはいないのだが、この大学の忙しい風景に僕等も大分馴染んできた。
いつも通り、僕は定食の食券を買うためにIDカードが入ったカードケースを“A定食”のボタンを押したあとすぐ横の黒いリーダーにかざす。学生証も兼ねたこのIDカードには予め現金をチャージしておくことが可能で学内の学食や売店のキャッシュレス化に一役買っていた。
「あれ、今思い出したんだけど、明日ナギの誕生日じゃない?」
悟も同じようにいつもの“カレー”ボタンを押しながら、期待に満ちたワンオクターブ高い声できいてくる。
「え、そうだけど………俺、日にちまで言ってたっけ?」
僕は首を捻りながら出てきた食券を掴む。頭の隅の方でこの二ヶ月間をものの一瞬で反芻してみるが、やはり彼に話した覚えはなく、もう一度首を捻る。
「うん、確かにナギは言ってない。でも俺は知ってる。さて、なぜでしょう?」
悟は何かしらの動作をしながら話す時、いつも話すことに重きを置きすぎて行動が徐々に遅れる。今だって食券を取り上げるのが数秒遅れたことを僕は目の端で捉える。
「……………………わからん」
悟の癖を再認識して一人納得し頷きながら答えたので、気のない返事になってしまった。彼はそんなことで不機嫌にはならないようだが、ただ僕の早すぎる降参では正解を伝える気にはならないのか、乾いた声で「ははは」と笑うと白いトレイを持ってカレーの受取口に向かった。
僕等はそれぞれトレイに目当てのメニューをのせて窓際の席で自然と待ち合わせとする。ああ、やはり窓の向こう側に大きな雨粒がいくつも不思議と等間隔でしがみついている様子が見える。スリムタイプの折り畳み傘をリュックのサイドポケットに確認しながら、僕は席に着いた。
「俺の誕生日が5月31日じゃん?それで、その日『俺、今日で19だから』って言ったの覚えてる?」
「うん、覚えてる」
今日のA定食は豚カツだ。皿を受け取った後に僕はソースではなく醤油をかけたが、それがちょうど良い塩梅に染み込んでいて何とも美味しそうだ。
「そん時、ナギが『俺の誕生日はまだ先だからなぁ』って言ったんだよ」
「……………言ったかもね」
箸で豚カツを一切れ持ち上げて会話の間に急いで口に入れると、やはり予想通りソースよりも辛さの効いた味わいで、腹のあたりから徐々に満足感がせり上がってくる。
「つまり、もし誕生日が6月のはじめの方だったら“もうすぐ”とか言うと思うんだよ。なのにナギは“まだ先”って言ったから、俺は6月の後半だと推理したわけ」
ほら、今も悟は話すことに夢中でスプーンを振ってただ空中を掬っているだけだ。
「でもさ、それじゃ大体の時期しかわからないじゃん。日にちはどうやって知ったんだよ」
話の流れに多少焦れた僕が先を促すと、悟はようやくカレーをひと掬いしてスプーンの中に器用に小さなカレーライスを作り口へ運んだ。
僕も言葉を繋げることはせず、豚カツを更に一切れ味わった。途中で味噌汁のお椀にも手を伸ばす。
「………まあ、これ以上は秘密かなぁ」
未だ外の見えない窓の向こうに何かを見つけたのか、悟は前面の大きなガラスの一点を見つめてそう呟く。
「……………………どうせ、勘だろ」
急に店仕舞いをする悟に向かって悔し紛れに僕も呟いた。
返事はこないと思って放った言葉だというのに
「勘じゃないよ、考察だよ」
と、よく通る悟の声が間髪入れずに飛んできて僕は驚いて味噌汁を吹き出しそうになる。急いでペーパーナプキンを二枚とって口元を拭う。気管に入らなくて良かった。
一方悟は未だ何かを見つめたままだ。横からでは完全に表情を窺い知ることは出来ない。
悟の更に10メートル程先に三好が見えた。あの日から度々この学食で見かけていた。あの広い背中にもう「3」は見えない。先月までは学生達によく声を掛けられては困惑した表情でぎこちなく対応をする姿をちょくちょく見かけていたが、そんな彼の存在の物珍しさもようやく一周して落ち着いたのか、ここ半月程は静かに過ごせているようだ。
「そういえば、サークルの話だけどさ」
悟が話題を変えてこちらに向き合った時、立ち上がり返却口へ向かっていた三好と目が合った。悟には依然素っ気ない態度をとる彼だが、何度か顔を合わせるうちに僕に対しては多少心を許し始めたようにも見える。今日も僕が軽く微笑むと、彼も頭をカクカクと動かして会釈してくれる。
今は、こんな距離感でいい。
「ああ、うん、それで………?」
手前の悟に向き直ると、悟は不満そうに口唇を尖らす。
「おーい、また三好かよ。いいよな、ナギは。あいつ、俺なんかには未だにシカトだよ」
そう言いながらも麦茶を飲み干して話す声色は思いの外明るい。もしかしたら悟は人との距離を詰める過程を楽しむタイプなのかもしれない。それならば、手強そうな三好は格好の標的に違いなかった。
「……………サークルねぇ……」
僕も麦茶が入っていたカップを右手首を使ってくるくると回しながら、呟いてみる。悟も僕同様、未だ所属先がない。
「……………じゃあさ、自分達で作ってみるか」
そんな力強い悟の言葉を合図に、急に窓の右側上方から銀の矢のような雨筋が何本も降り注ぎ、一気に雨脚が強くなる。今の時刻、何処にあるのかも知れない太陽が雨粒ひとつひとつに光を与えて宝石のように輝かせる。その粒が煌めく度に僕の鼓動も大きく跳ねた。毎年、雨の季節になるとアンニュイな気分を持て余して、ただ梅雨が明けることだけを待ち望む弱気な僕が、今はこの広い窓に雨粒が打ち付けられる度に上昇する全身の熱に内心驚いていた。
ああ、初めての大学生活に求めていたことは、きっとこんな火照るような高揚感だったのだ。
悟に気付かれないようにそっと左の掌を頬に当てれば、指の形そのままに伝わる冷たさがとても心地良かった。




