忌避 ①
最近、焚いたフラッシュのような眩い光とともに繰り返し脳裏に現れる景色がある。
なだらかな、それでいてだらだらと続く坂道を自転車で立ちこぎをしながら上る光景だ。視界の先には白い壁に黒い屋根の家。二階の窓にブルーのカーテンの半分だけが見える。長い坂道の途中で“僕”はいつも降参をして自転車を引きながら最後の10メートルを上り切る。逸る気持ちと呼吸を整えながら振り返れば海の彼方の水平線に光の帯が見えた。
これは、住んでいた街だろうか。
前世の記憶のピースはまだ全て揃ってはいない。手許にあるジグソーパズルはモザイクのような背景と表情の分からない前世を生きた僕、いや今の僕とは別人格なのだからここでは青年Aとしておこう。どうやら高校に通っているようだ。自転車のカゴにはいつも学生鞄が投げ入れられている。紺色の肩から提げられるタイプの鞄。ファスナーは閉じられずにいつも開けっ放しで、中に数学IIBの教科書が一度見えた。
一方で、青年Aの容貌も分からなければ、何処に住み、どのような家族に囲まれていたのかは曖昧だ。未だ名前もわからない。
ただ彼の人生の閉じ方は知っている。
交通事故だ。
三月にしては珍しく背中が汗ばむ程の天候の日に行われた高校の卒業式の帰り道だった。
Aは車にはねられて呆気なく死んだ。
「佐治さん、それ終わったら文庫のブックカバー折っておいて」
バイトのシフトリーダーの倉橋さんがレジ点検をしながら僕に指示をだす。両替用の硬貨の棒金を数えながら、右の人差し指でカウンターの下にある折られていないブックカバー用の褐色の用紙を指差した。
「あ、はい。こっちはあと少しで終わるんで、すぐに折ります」
僕といえば付録つきの女性誌に一冊ずつ付録を挟み込み菱形にビニール紐をかける作業を続けていた。あと三冊で終わる。
この書店は駅ビルの中にあるせいか、この本離れの時代にあっても客足は絶えない。通勤客が立ち寄る夕方以降の時間は特に新書や文庫が売れるので、ブックカバーもよく足りなくなるのだ。
僕は最後の一冊を縛り余った紐を短く切り揃えると、既に縛り終えていた雑誌を抱えてカウンターから出る。陳列棚のエンドに平置きに重ねると客と客の隙間を縫ってカウンターに戻った。
「文庫、閉店までに50枚ぐらい折れそう?もちろんレジにお客さん来たらそっち優先で」
戻ると既に3台のレジ点検を終えた倉橋さんが一つに束ねた髪を揺らしながら訊いてくる。
「いけると思います。もちろんレジ優先で」
そうきっぱりと答えてカウンター下から用紙の束を引き出すと、彼女は少し困ったように笑った。
「なんでもかんでも抱えこまなくていいからね。私も無理言ってんなぁって思う時もあるんだから」
僕の取り出した束の三分の二を素早く持ち上げて自分の前に置いた倉橋さんが困り顔はそのままに笑いかけてくる。
「まだここ入って二ヶ月なんだから私と同じ量折るのもキツイっしょ。でもさ、佐治さんの折り方すごい綺麗で丁寧だからお客さんも嬉しいと思うんだよね」
困り顔がなりを潜めると、いつものきりっとした倉橋さんに戻る。くるくると表情の変わる人だ。聞けば、彼女はここからバスで30分程の距離にある総合大学の文学部の四年生だという。既に中堅商社の内定を得ており、今は公務員試験に向けて最後の追い込み時期らしい。
「でも、たまに本屋に来ないと窒息しちゃうのよ。なんせ文学女子だから」
と、僕の指導係にも進んで手を挙げてくれたらしく、シフトも出来るだけ合わせて入れてくれる。男女だけでなく、ベテランにも新人にも分け隔てなく接する姿勢は店長をはじめ社員からの信頼も厚い。
それは僕にとっても例外ではなく、客足は絶えないとはいえ常に混み合う訳ではない書店のレジカウンターの中で、声を抑えながら多少のお喋りをすることができる気軽さも持ち合わせていた。
今日も僕は文庫サイズの目印に従って丁寧に茶紙を折りながら、倉橋さんに質問した。
「まだ部活とかサークルとかに入ってないんですけど、やっぱ入った方が楽しいんですかねぇ」
「え、それって六月の質問じゃなくない?みんなゴールデンウィーク前に大体決めるんじゃないの?」
手早く数枚を重ねて一気に折り目をつけながら、彼女は非難めいた口調で返してくる。だが、折り目をつけたラインを左から右へとなぞる手つきは、飼っている愛猫の背中を撫でるように滑らかだ。そういえばその口調は芝居がかってもいて、その証拠に盗み見た横顔の口角は上がっている。
「…………ですよね。同じ学部の友達とも話してたんですけど、なかなかぴんとくる所がなかったんですよね」
「じゃあ、無理して入んなくてもいいんじゃない?こうやってバイトはしてんだし」
「うーん、まあそうなんですけど、せっかくなら大学に行く動機づけを増やしたいって気持ちがあるのも本当なんです」
正直な気持ちを吐露する。
「ふーん………つまり、就職のためだけに卒業するのは嫌だってことね。ちゃんと大学生したいんだ?」
「そんなとこです。だって、大学生って初めてなんで」
僕は無意識に折ったブックカバーをトントンと揃えて“文庫”と書かれたカウンター下の棚に仕舞う。無意識に動けるなんて、大分慣れてきた証だ。そして、折角だから新書サイズも少し足しておこうと“新書”のシールが貼られた棚を腰を屈めて確認していた時、何か小さな風船が破裂したような大きな笑い声が聞こえた。斜め前の雑誌コーナーで釣り雑誌を選んでいたサラリーマンがちらと視線を寄越す。それを見て「失礼しました」と小声で会釈した倉橋さんが右肘で僕の黒いエプロンの脇腹をつつく。僕の方を向かなくても、左手の指先で目尻を拭った仕草から涙が出ているのだと分かる。どうやら笑いのツボにはまってしまったらしい。
「当たり前じゃん、18歳なんだから初めての大学生に決まってんのに。なんか言い方が独特で面白いんだけど……」
そこまでで言葉を切って、倉橋さんは前から二冊の文庫を持ってこちらに近付いてくる高校生のためにレジで背筋を伸ばす。
僕も先程のサラリーマンが釣り雑誌を選び終えた姿を認めると、彼女の隣で同じように背中を十分に伸ばした。
(ほんとに初めてだから、どうしたらいいのかわかんないんだよな。明日、悟に相談してみるか)
いらっしゃいませ、の言葉と同時に両手で雑誌を受け取る。
カバー折りは慣れたけれど、まだ笑顔はぎこちないに違いない。




