邂逅 ⑩
2号棟の入口で山下君と別れた。
彼は中央棟の向こう側、地図上ではここと反対の位置にある図書館に行ってみるらしい。一昨年リニューアルしたという現代的な設備に加え、その収蔵量も全国有数を誇る知の巨塔だ。学校見学ツアーでも入口部分だけ覗いたが、地上五階、地下二階の館内を廻るだけでも相当な時間を要しそうだ。
僕といえば、午後3時からアルバイトの面接を予定しているため、流石にそろそろここを出ないと間に合わなくなる。
せめて彼と連絡先を交換しようと、メッセージアプリを立ち上げるためにスマホをポケットから取り出すと緑のランプが心音のように点滅している。不在着信の通知だ。
黒い画面に表示された白いゴシック体の数字の羅列には最近見た覚えがある。今日アルバイト面接を受ける予定の自宅の最寄りから二駅離れた駅ビルの本屋の番号だとすぐに思い当たった。
「ちょっと、ごめん」
「ん?うん」
二次元コードを差し出してきた山下君に短く断って彼を背に90度左側に身体を向けると、急いで折り返しの電話を入れる。
ちょうど3コールでつながり
「お電話ありがとうございます。悠誠堂書店です」
快活な声で名乗るのは女性だ。語尾の切り方が潔く何とも小気味良い。どうやら若そうだ。もしかしたら彼女もアルバイトなのかもしれない。
「あ……先程お電話をいただきました佐治と申します。お電話にでられず失礼いたしました。本日3時にアルバイトの面接を予定している者です」
そう言いながら軽く頭を下げる。背後で山下君がふっと笑った気配がした。
「ではお電話した者にかわりますので少々お待ちください」
女性定員は依然としてはきはきと手短に話すと保留音のカノンに切り替えた。
「折り目正しいって感じで初々しいねぇ」
山下君がいたずらっぽく声を潜めて右耳のそばで笑う。
僕は彼を払うように空いた右手をひらひら揺らすと、彼は声を殺して右に左に肩を大きく揺らした。そのまま、
(じゃあね)
と上に横に口を動かすと図書館の方角を指差す。そして長い両手を頭上でぶんぶんと力強く振ると僕に背を向けて歩き出した。
僕もその背中に向かって
(じゃあね)
と彼を真似て口唇を動かす。
その時、左耳で流ていたカノンが途切れた。
結局、今日の面接は採用担当の副店長の都合で明日に延期となった。もちろん僕は了承した。明日からは履修登録期間として各講義のイントロダクションを自由に受けることができる。午後の適当な時間まで興味のある講義をいくつかハシゴしてもいい。この自由なスケジューリングが叶うのが大学生の醍醐味なのだ。
それよりも、今日の午後が急に空いてしまった。山下君の後を追って図書館へ向かうことも考えたが、手を振って別れた手前、少しばつが悪い。
先週公開されたドキュメンタリー映画でも観て帰ろうか、そういえばこの近くの美術館では先週観た大型展覧会の後期の展示替えがあったはずだ。駅までの道すがら、しばしその先の分岐について思いを巡らせるのも悪くはない。
足元に転がる小石を、まるでともに散歩させるように数回蹴って正門へ向かう。
朝、右折した角を今度は左折し桜並木のアーチを見上げる。花びらを散々撒き散らした春の嵐は午後になってすっかりその存在を潜め、微々たる風が時折枝の先の花を揺らすばかりだ。
来た時と真逆の景色はとても新鮮で、知らない並木道を偶然見つけたかのような錯覚を覚えさせる。
(ああ、でもあの大きい黒い節がある桜は朝のままだ。立派だよな)
(この桜の枝は手を振っているみたいだ)
(コンクリートの亀裂に花びらが埋まってきたな)
この画角こそ初見だが、そこかしこに数時間前の記憶が残っていて擦り合わせをしながら眺めるのも楽しく、自然と歩みも遅くなる。
イヤホンから届くスロービートな曲に合わせて右の指先を揺らした。
並木道の半分程まで達したその時、淡い水彩画の中に異質な黒点が見えた。その点は僕の一歩を進めるに比例してじわじわと他の色を侵し始める。
程なくしてその黒い正体が、黒いスカートだと判明る。
ふと足が止まった。
同時に侵食していた闇も止まる。
その位置から黒いオブジェクトが半分程桜の幹から覗く。
黒いスカートの持ち主は黒いブラウスと黒いブーツを持ち得ていた。ブラウスの袖の膨らみが柔らかい稜線を作り太陽の光を縁に宿しながらゆっくりと揺れる。こちらに背を向けて太く濃げた色の幹に身体を預けて何かを見ているのは髪の長い少女だ。
なんだろう。
何を見ているのか、ではなく、僕は黒い彼女そのものに興味を覚える。が、それを表情や動きに出すのは誰にも見られてはいないとはいえ、どこか気恥ずかしく彼女を直視することは憚られた。
僕はリズムをとっていた人差し指で目にかかった前髪の束を横に流しながら音を立てずに深呼吸をし、立ち竦んでいた足を無理やり動かしてどうにか前へ進む。
彼女を極力見ないようにしてその横を通り過ぎようとした。
スニーカーのつま先が時折コンクリートの上の些細な砂粒を抉り蹴散らす。
あと数歩で通り過ぎるという時、とうに過ぎ去った筈のあの強風が戻ってきて僕のまわりに渦を作った。
塵と埃と砂粒と花びらが顔を叩き、咄嗟に目を瞑って逃れようと頭を回すように振る。一陣の風がすっかり油断していた僕を嘲笑うように半径1メートルをかき回して抜けていく。無力な僕はただ身体を強張らせて耐えることしかできない。
漸く頬を掠める感触が去って恐る恐る目を開くと、目の前に黒い彼女がすっと立って僕を見つめていた。彼女の長い漆黒の髪も十分に弄ばれたようで、所々が絡まり跳ねている。きっと僕の髪も同じ状況になっているに違いなく、急いで両手を頭に持っていくと、手漉きを繰り返して落ち着かせた。
「大丈夫でした?」
同じようにつむじ風に巻き込まれた彼女に問いかける。
その僕の言葉で彼女は我に返ったように少しだけ目を見開くと、ふいと身体を翻した。
桜並木の先には重要文化財にも指定されている重厚で瀟洒な校舎。花びらが僕には見えないそよ風を代弁するように絵画のような風景に三拍子を生み出す。ただその中央に位置するミューズの背中はこの世との融和を一切拒否する不協和音を奏でているように思えた。彼女の靴音は四拍子だ。
言葉にし得ない不思議な感覚に脳が麻痺し始める。
陶然と耳を澄ませたくなる不協和音がこの世にあることを、僕はこの日初めて知った。




