邂逅 ⑥
時々マイクがハウリングしてしまう所為で、今日のオリエンテーションはしばしば中断していた。だからといって、浮足立った新入生に苛立つ者はいない。履修説明の担当者ものんびりとした仕草で音量や口元とマイクとの距離を確認しながら、既に説明済みの箇所を行ったり来たりしている。大教室の空気は、ここに集まる新入生がそれぞれ外の軽くて暖かい気体を十分に纏ってきたかのように、温度差なく甘ったるい。まるで日向のベランダに干された布団のようだ。僕もこの春を謳歌するようにひとつ気怠く欠伸をした。
大教室は階段式の教室で、一番後ろの高い位置から上下に可動する黒板を若干見下ろすことになるこの景色は高校までにはなかったものだ。春の陽光が左側の横に長い窓からすっと差し込み、外の風が木々の枝や葉を揺らすたびにこの教室もきらきらと瞬く。
未だ収まらない微かなハウリングをBGMにしながら、僕は左手でシラバスを繰りつつ、右の人差し指と中指でペンケースの中の蛍光ペンを探した。
(当たり前だけど、いろんな専門コースがあるんだな。履修登録間違えたら取り返しがつかなそうだ……)
ボールペンやシャーペンとは違うマットな質感のキャップの感触に行きあたり、縁に爪をかけて取り出す。と同時に跳ねた軸が指の腹にバウンドするようにぶつかると、そのまま軽やかに宙を舞い、階段教室の白い机を滑るように走った。
(あ、やばい、落ちる)
と急いで右腕を伸ばすが、到底間に合わずに僕の手のひらは呆気なく宙を掴むだけだ。天を仰ぎながら目を閉じ、細く溜め息をついたあと腰を浮かそうと太腿に力を込めたところで右肩を何かでつつかれた。
反射的にびくりと肩が跳ね、急いでその刺激の正体を探ると、ひとつ分の椅子を空けて僕の右側に座っている男子学生が身体を半分捻りながらフレッシュイエローのペンを差し出してくる。
「………あ、ありがとう。拾ってもらっちゃって………」
壇上のガイダンスを邪魔しないよう小声でお礼を言いながら頭を軽く下げる。
彼ははにかみながら無言のどういたしましてを目線だけで伝えてくると再び前方に向き直った。
少しの気まずさも伴って、左横の椅子に置いたリュックからペットボトルの水を取り出すと一口だけ口をつけて平静を装う。そのまま音をたてないよう注意を払いながらキャップを閉めると、拾ってもらった蛍光ペンで“建築学科”と書かれたページの見出しを大きく丸で囲った。どうやら外では風が強まってきたようで、黄みがかった光が黒ぐろとしたゴシック体の印字を眩く揺らす。
理工学部の建築学科を選んだのはインテリアデザイナーの母の影響だろうか。父も大手ゼネコン勤務だが営業職のため建築との関係は多少薄い。
そんなことを自問したところで、実は未だ僕自身もよく分かっていないのだ。もともと建築に興味があってこの大学を選んだ訳ではなく、先に“安定した将来のために大学生になりたい”から“就職に有利な清志館に入る”へと続き、“清志館で合格の可能性が高い学部”を考え倦ねた結果、“高校で理系だったのならば理工学部だろう”と安直に選び、“両親の仕事ぶりからイメージしやすいのは建築”と、大樹の大小の枝葉をいくつも経るようにチャート化した結果、今日ここにいるという次第だ。
そもそもスタート地点自体を間違えている可能性もある。本当にこの先の人生を見越して大学に入学したいのだろうか、実際には前世でも経験していない未来の視界が朧気過ぎていて何処か恐怖を感じているのではないのか。もしかしたら五里霧中の社会への準備期間を延ばすためのモラトリアムを自分で設けているだけなのかもしれなかった。
再び右の肩をつつかれて我に返る。微睡みかけていた視界が一瞬でクリアになって春の眩しさが直接脳に届いた。再び刺激の元を辿れば、ペンを拾ってくれた先程の彼が分厚いシラバスを開いて左手でこちらへと滑らせてくる。
何の意味があるのか分からず、その専門科目一覧のページを眺めていると、左端に何やら落書きを見つけた。それはどうやら似顔絵らしく四角い顔に少し薄い前髪が跳ねている姿の男性で、ご丁寧に吹き出しが添えられ「言うならばぁー」と書き入れられている。
それを見た瞬間、堪らず噴き出してしまった僕は首を縮めながら右隣の彼にちらりと視線を送った。彼は、壇上で抑揚なく一昔前のロボットのように説明する担当講師をそのシャープな顎で指し示すといたずらっぽく目尻に皺を作る。
その時、タイミングよく似顔絵の主から「言うならば〜」と嗄れた声が洩れたものだから、僕と彼は必死に声を殺して肩を震わせた。ペンを力強く握って笑いを堪える。しかし再びハウリングしたマイクの今日一番の大きな音が僕達に更なる追い打ちをかけて僕は涙が滲むほどに、ただ笑った。




