14.腐食
「――歩夢、こっち。少しだけ、土の層に異常があった」
リアに呼ばれた歩夢は、足元の畝を避けながら彼女のもとへ向かう。
「ここ……わずかだけど、土の層が不自然にずれてる」
リアは膝をついて土をすくい上げていた。表面の乾いた土を避けると、その下から黒ずんだ層が露出する。
「なんだこれ……腐ってる?」
「本来なら、作物の根が張る層なのに……栄養分が全部抜け落ちて、代わりに不純物だけが残ってるわ。しかも、自然分解の痕跡がない」
リアの指先には、灰色がかった土が粘ついて絡みついている。
「……魔力汚染?」
「いいえ。魔力の痕跡は検出できない。まるで“魔力だけを抜き取られた後”みたい」
エルが傍に来て、薄く展開した探知結界を滑らせる。その指先が、僅かに震えた。
「ほんとに……空っぽ。空気すら魔力を帯びていない」
「こんな“死んだ土”……見たことないです」
ミナが畝の端からそっとのぞき込む。その瞳は、どこか怯えていた。
(何かに“吸われた”……?)
歩夢は拳を握りしめる。嫌な予感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「この畑の被害が、もしここから始まっているとしたら……」
「原因は、森の方角から来たってことになるわね」
エルが静かに言った。
リアも立ち上がり、森の奥へと目を向ける。
「調査範囲を広げましょう。畑の外側、特に森との境界線。何か手がかりがあるかもしれない」
「……ああ、行こう」
歩夢は頷き、仲間たちを引き連れて森の奥――畑と森の狭間へと歩を進めていった。
(何が待ってるにせよ、向き合わなきゃならない)
風が、ぴたりと止んだ。
その沈黙の先で、“侵蝕”は静かに進行していた。
森と畑の境界線は、想像していたよりも曖昧だった。
草の丈が高くなり、木々の枝が覆い被さるあたりから、自然と雰囲気が変わっていく。空気の密度が少しずつ増し、陽光が弱まる。
「……こっちの土も少しずつ色が変わってる。畑の方と同じような黒ずみが出てるわ」
リアが低い声で言った。
足元には、明らかに枯死した植物が点在していた。葉は乾ききって、触れるだけで崩れそうなほど脆くなっている。
「でも、不思議です。全部が枯れてるわけじゃない……本当に“ところどころ”だけ」
ミナが地面の隙間から顔を出すツタを指さす。青々とした葉の隣に、同じ種の枯れた枝が混在している。
「まるで、“選ばれた場所だけが死んでる”みたいね」
エルの呟きが、風に溶けて消えた。
歩夢はあたりを見回しながら、土の気配に集中する。魔力の揺らぎ、空気の重さ――何か、感じ取れないかと。
と、不意に――
「……これ、見てください」
ミナが小さく声を上げた。彼女の指差す先には、一本の木の幹があった。だが、それはただの木ではない。
幹の半分ほどが、まるで溶けたように黒く崩れていた。
「腐ってる……?」
歩夢が近づくと、ふわりと鼻をつくような異臭が立ち込めた。鉄を錆びさせたような、焦げたような――魔物の体液に近い匂い。
「これ……魔物に触れられた跡じゃない?」
リアが警戒するように剣に手を添えながら、崩れた樹皮に触れる。
「腐食性の体液……魔族か、それに近い存在の仕業の可能性があるわ」
「けど、痕跡が少なすぎる。普通、こんなことが起きてたら森の魔力構造に乱れが出るはずなのに……」
エルが森の気を読むように目を細める。しかし、依然として明確な魔力反応は感じ取れなかった。
「じゃあ、“跡”だけ残して、消えたってことか……?」
「可能性としてはね。しかも、痕跡を消すのに長けた種……厄介よ」
歩夢は静かに息を吸った。現状では、相手の正体も目的もまるで分からない。けれど、一つだけ確かなのは――
この現象は、自然のものじゃない。意図をもって行われている。
ふと、奥の茂みの向こうから、小さな足音が聞こえた。
子供のような軽い足取り――そして、息を切らせた声。
「だ、誰かいますかーっ! 村の人ですかっ!?」
慌てた様子で飛び出してきたのは、十歳くらいの少年だった。泥だらけの服に、怯えた目。歩夢たちの姿を見つけて、安堵の息をついた。
「よかった……! あの、畑の奥に……変なの、見たんです……!」
「落ち着いて。何を見たのか、詳しく話してくれる?」
リアが穏やかに膝をつき、視線を合わせる。少年はぶるぶると震えながらも、唇を噛んで頷いた。
「畑の端で虫取りしてたら、森の奥に……人みたいな影がいて。ずっと動かないのに、木の周りが黒くなっていってて……こわくて逃げてきました……」
「影……?」
「うん。だけど近づいたら、すぅって消えて……」
ミナの顔が僅かに強張った。歩夢はその様子を目に留めるが、今は問い詰めずにいた。
「ありがとう。よく知らせてくれたね。あとは私たちに任せて」
少年を安心させるように微笑んだリアは、立ち上がって歩夢を見る。
「気配はない。だけど、“何か”が動いてる。間違いないわ」
「ああ……これは、予兆だ。もっと大きな何かの」
森の中の空気は、先ほどまでよりさらに静まり返っていた。
目に見えぬ何かが、着実に世界を蝕んでいる。