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第4話(後編)

――アイリス。


 小さなプラカードに値段と共に書き込まれた、その植物の名前。

 ピンと背筋を張った軍人を思わせる直立で太い茎に、白い花びら。色がついているので花びらだとフレイザーは思うが、隣に並ぶアネモネやガーベラに比べると、なんとも花っぽくない。不器用なために、花らしく花びらを広げることができなかった――そんな風にフレイザーには見えた。


「これを」

「はい、アイリスですね」

「一本だけ、というのは何かおかしいだろうか」


 女性店員に声をかけたフレイザーは、まるで独り言のように呟いた。花を買う男性客の扱いには慣れているようで、女性店員は助言と確認をすべく、フレイザーに尋ねる。


「贈り物ですか? 就職や退職などの節目なら、花束にする方がいいかもしれませんね。そこまで仰々しい理由での贈り物でないのなら、一本でも大丈夫ですよ。装飾のリボンで少し華やかさを出せますから。ここにある白いアイリスなら、花言葉は〝純粋〟や〝思いやり〟、〝あなたを大切にします〟なんて意味もあるので、プロポーズに使われることもあります」

「いや……そういうのではない」


 誰がプロポーズに使うなどと言った! とフレイザーは一瞬、大声で反論したい気持ちになった。しかし民間の女性店員に対して、いつもリースに怒鳴り散らしているような態度をとるわけにもいかず、ごにょごにょと言葉を濁して否定する。直立の茎に、花には見えない不器用さ。それはまるでエーファのようだと、ふと思っただけなのだ。


「隣にある青いアイリスなら〝強い希望〟や〝信念〟という花言葉ですから、励ます気持ちを伝えられるかもしれません。花言葉なんてたくさんあるし、そもそも調べて知ろうとする人の方が少ないんですけどね」


 花屋として元も子もないことを言っている自覚があるのか、女性店員は苦笑した。しかし青いアイリスの花言葉は、ますますフレイザーにエーファを思わせた。これまでの彼女の人生は父親に抑圧されてきたものだったが、この先はどうか、己の信念を見つけて生きていってほしいと。


「では青い方を一本頼む。その……そんなに派手にしなくていい」

「畏まりました。少々お待ちください」


 女性店員はにっこりほほ笑むと花筒から一本のアイリスを取り出して、店の奥へと入っていく。そして手早く包んで、レジで会計をすませたフレイザーにそれを手渡した。


「ありがとうございました。またどうぞ」


 女性店員に見送られて、フレイザーは自分の車に戻る。ビニルで覆われて三角のシルエットを成し、蝶結びにされた白いリボンでラッピングされた一本のアイリスを助手席に横たわらせてから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 花なんか渡してどうしたいのか、と自問する。けれど、この花の姿があまりにも彼女みたいだったから、どうしても渡したいとの思いが勝ってしまった。


(これを渡したら、どんな顔をするだろうか)


 まるで人形のように無感情で無表情だった初対面の日のエーファ。けれども第八宇宙団で過ごすうちに、その表情はだいぶ多様な色を持つようになった。そして先日のベルツ大佐の突然の訪問以降は、またずいぶんと自然に笑えるようになっていた。命令や業務以外の会話を自発的にすることのなかったエーファだが、待機室や食堂で、自分から同僚たちに話しかける姿を見かけたこともある。フレイザー同様にエーファを気にかけているリースが、持ち前の人懐っこさでエーファと周囲を結び付けるようにこっそりとフォローしていることも功を奏しているのだろうが、それにしてもずいぶんとかわいく笑うようになったものだ。

 その笑顔をもっと見たい。花でも渡せば、喜んでくれるのではないだろうか。

 柄にもなくそんなあからさまな下心を持って彼女に会いに行こうとする自分を、リースにだけは知られたくない。さいわい、女子寮にまっすぐに行けば、リースと鉢合わせすることはないだろう。


(定時で上がれと言っているから、とっくに帰寮しているはず……だよな)


 フレイザーはダッシュボードに埋め込まれているデジタル時計をちらりと見る。エーファの終業時間は過ぎ、一切寄り道をしていなければすでに帰寮している頃合いだ。守衛に声をかけて呼び出してもらえば、花を渡す時間ぐらいはあるはずだ。

 なるべく助手席の花が揺れないように、フレイザーは丁寧な運転でエーファがいるはずの女子寮を目指した。



     ◆◇◆◇◆



(三ヶ月……体育基礎教練期間程度よね)


 定時で仕事を切り上げて寮の自室に戻ってきたエーファは、ピリッと張ったベッドのシーツの上に仰向けになり、上官であるフレイザーとの別れの場面を思い返していた。

 彼は明日から三ヶ月ほど、教育隊に出向する。赴任先は宇宙基地なので、地上基地勤務のエーファはしばらく彼と会えない。ライネヴェジン軍事アカデミー時代における地獄の体育基礎教練期間が三ヶ月だったので、あの時の身体的つらさを思い出せばフレイザーと会えないことなど、つらくもなんともないはずだ。


(でも、胸が痛い)


 それなのに、気持ちが落ち着かない。心にはぽっかりと穴が空いたようで、フレイザー以外のことを考えることで埋めたり紛らわしたりできないかと思うのだが、すべての思考はするりとその穴に落ちていって、満たされる気配がない。そもそも、自分の心に空いたその穴の正体もそれを満たす方法も、自分はろくに知らないのだろう。


(ベリンガム大尉……)


 どうしてこんなにも、つい思い出して考えてしまうのだろう。ただの上官にしては、彼のことばかり考えている気がする。誰一人知人のいない第八宇宙団に異動してきてからずっと、上官と補佐官として関わってきたからだろうか。だが、基地内で一緒に過ごしてきた時間の長さなら、リースも同じくらいのはずだ。最近はリース以外の隊員たちともコミュニケーションがとれているので、関わりがあるという点ではみな共通している。それなのにフレイザーだけを、ほかの隊員たちとは何かが違うと明確に感じている。何か特別な意味のある存在であると。でも、その理由がわからない。


――リーン、リーン。


 その時、出入口横の壁に埋め込まれた端末のモニタが淡く光り、静かな呼び出し音を奏でた。エーファはベッドから起き上がり、端末に近付いて応答する。


「はい」

『守衛室です。フレイザー・ベリンガム大尉がお見えです。正門までお越しください』

「ベリンガム大尉が?」


 彼は挨拶を終えて、明日に備えて少し早く先に終業したはずだ。今さら女子寮に――いや、部下であるエーファに用があるはずがない。

 フレイザーの訪問を訝しがりながらも、しかしエーファはどこか心躍るような感覚を抱いた。制服のままだったが、それで問題ないだろうか。就業時間外なのに制服を着ているなんて、と怒られるだろうか。いや、そんなことはいいから早く行かねば。


(大尉……っ)


 いつの間にか胸の中に空いていた穴。自分では埋め方も満たし方もわからないが、その穴はいま確実に、ふさがりつつある気がする。なぜ? ああ、そうか。フレイザーに会えるからだ。彼に会いたくて、この穴はずっと彼を求めていたのだ。


「ベリンガム大尉、あの、お待たせ、しましたっ」


 走ってきたために肩で息をしながら、エーファは女子寮の正門横、歩道に立っていたフレイザーに声をかけた。すっかり陽は沈んで、女子寮の敷地内にある街灯しか光源がないが、それでもフレイザーの少し長めの銀髪はキラキラと輝いて見えた。


「走ったのか。急がなくてよかったんだぞ」

「いえ……」


 エーファは深呼吸をして息を整えてから、フレイザーを見上げた。


「あの、何か引継ぎに問題がありましたでしょうか」


 仕事上の不備があった。それしか、いまこの時間帯に彼が自分を訪ねる理由が思いつかなかった。


「いや、業務的な問題はない」

「では、何かほかの問題が?」

「そう……ではない」


 フレイザーは歯切れの悪い返事をする。その態度が不思議で、エーファは思わず首を傾げた。すると次の瞬間、フレイザーは後ろ手に持っていた何かをエーファに差し出した。


「え?」

「アイリスという花だ。お前にやる」

「花……これを、私に?」


 透明なビニルで包まれた一凛の花。茎は太く、先端の花弁は紫と言ってもよい青さ。しかし植物好きでもなんでもないエーファに、一般的に「花」と聞いて想像するバラやヒマワリと違ってそれを「花」と認識するのは少し難しい。色のついた葉っぱと認識した方がしっくりくる気がした。


「ふと見かけて、お前みたいだと思ったからな」

「私みたい、ですか」


 失礼かとは思ったが、フレイザーのその感覚は理解不能だった。手渡されたこのアイリスのどこが、自分みたいなのだろうか。


「まあ、三日ぐらいは枯らさずに水やりくらいしてみろ」

「え……あ、はい」


 それは命令なのかと思ったが、さすがにそんなことを下命はしないだろう。

 両手でアイリスの茎を持ったまま、エーファはぺこりと頭を下げた。


「あり……がとう、ございます」


 これまでの人生で、花をもらったことなどない。しかも、上官であるフレイザーから何かをもらうなど、想像したこともなかった。

 しかし、エーファははっきりとわかった。いま自分が感じている感情。それは嬉しさや喜びというものだ。そしてそれは、花をもらったことだけに対してではない。勤務時間外ではあるが、こうしてフレイザーに会えたからだ。今まで自覚したことがないほどに表情筋が動いているのも、きっと自分は嬉しそうに笑っているからだろう。


「ベリンガム大尉」

「なんだ」


 エーファはフレイザーを呼んだが、なんと続ければよいのか言葉が見つからない。何か話をしたいのに。もっと言葉を交わしていたいと思ったのに。


「あの……」


 夜道へ視線を落としたエーファを、フレイザーは見下ろす。そしていつも通りのぶっきらぼうな口調で言った。


「三ヶ月で戻る。その先どうなるかはわからんが、お前は俺の事務的な補佐官ではなく僚機になれるよう、せいぜい腕を磨いておけ」

「僚機、ですか」

「ああ」


 短く頷くと、フレイザーはエーファに近付く。そして少しだけかがむと、春風がなでるようなふんわりとした感触を、エーファの頬に残した。


「っ……」

「それから、もう少し人間らしくなっておけ。少なくとも、今の口付けの意味がわかるくらいにはな」


 大きく目を見開き、驚きのあまり声の出ないエーファを見下ろして、フレイザーはニヤりと笑ってみせる。それはリースに見せるような親しみのほかに、これまでにない何か特別な意地悪さを感じさせた。

 そうしてフレイザーは「またな」と一言残して女子寮を去った。

 古巣の第九宇宙団での謹慎処分自体が取り消され、まったく問題なくエーファがパイロットに復帰できたのは、この数日後のことだった。

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