第4話(前編)
――隊長の言うとおり、今すぐ話してこいよ。今なら事務室や待機室より、食堂の方が人は少ないと思うぜ。
隊長室を出てすぐに、リースはフレイザーにそう言った。そして、挨拶代わりに手のひらをひらひらと振って、エーファとフレイザーを残してどこかへと立ち去った。
場所を移すか、とフレイザーに声をかけられたエーファはこくりと頷き、フレイザーの背中を見ながら食堂へ向かう。しかし、その視線はだんだんと俯いてしまった。頭の中ではまるでスパゲティのように思考という名の配線がからまっていて、胸の中では悪天候の日の空模様のように感情という名の風が吹き荒れていた。
(わからない……私、何に対してこんなに混乱しているの)
エーファは自分で自分に問いかけてみる。
父親であるベルツ大佐が突然やって来たことに対してだろうか。ベルツ大佐から第九宇宙団へ戻るように強制されたことにか。勝手に婚姻の予定を決められたことにか。
(それとも――)
――フレイザーがこの飛行隊を離れる予定であるということに対してだろうか。
父親の突然の登場には動揺したし、連れ戻されそうになって身がすくんだ。しかしそれ以上に、やがてフレイザーがいなくなるのだという未来の方が、エーファは怖いと思った。
「すまん。話すつもりではいたんだ」
リースの言ったとおり、夕方少し前の時間帯の食堂は無人に近かった。
少し奥まった場所にあるテーブルの椅子に腰を下ろすなり、フレイザーは謝る。しかし、対面に座ったエーファはなんと返事をしたらよいのかわからず黙り込んだ。
「教育隊へは、出向という形で行く予定だ。人事異動ではない。籍は飛行隊に残したまま、期間限定で行くんだ。研修と言った方が近いかもしれないな」
それはどうしてですか。あなたは優秀なパイロットなのに、なぜ教育隊になんて行くんですか。今回は期間限定でも、いつかは完全に飛行隊を離れてしまうのですか。
尋ねたい。けれど、部下にすぎない自分が不躾にそんなことを尋ねるべきではない、とエーファの中で誰かが冷たく制止する。ベルツ大佐にずっと抑え込まれてきた時間は、疑問を投げかけるという単純なコミュニケーションさえもエーファから奪ったのだ。
(あ、そっか……私、ずっと……ベルツ大佐に抑圧されていたんだわ)
フレイザーの今後の話をしているはずなのに、ふとエーファは、「ベルツ家」で育った自分の境遇を第三者視点で俯瞰するように理解できた。
――君は自由なんだ。父君の意に沿うべき、なんて義務は、君にはないんだよ。たとえ血のつながった親子であってもね。
先ほどケビンからそう声をかけられた時は、彼がなぜそんなことを言うのか、そもそも何を言っているのか、すんなりと呑み込めなかった。だが、自分の置かれていた立場が「父親に抑圧されて自由を制限されたもの」であったと自覚するやいなや、狭かった視界が開けるように、様々なことに合点がいった。
きっと自分は、父親の道具にすぎなかった。あまりにも道具扱いされてきたものだから、自分には人間らしさというものがことごとく欠けていたのだろう。それが、この第八宇宙団に来てから変わった。父親の影響下を離れたこともあるだろうが、エーファの「個」を蔑ろにしない同僚や上官がいるこの環境が、エーファに人間らしさを教えてくれたのだ。
「パイロットは……お辞めになるのですか」
だからきっと、尋ねてもいいはずだ。「部下が上官に逆らうな」と言って押さえつけてくる人間は、ここにはいない。フレイザーは上官ではあるが、エーファが質問をしたところで決して怒りなどはしない。同じ人間として対等に接してくれるはずだ。
「いや、辞めはしない。だが教育隊への出向は、少し早いがセカンドキャリアを考えてのことだ」
予想通り、フレイザーはベルツ大佐のように怒鳴ることなどなく、淡々と答えてくれた。彼の説明を理解するのにエーファは時間がかかりそうだったが、フレイザー自身もなんと言うべきか考えながら話すので、二人の会話はゆっくりと進んだ。
「シャーラヌス軍学校を卒業し、軍人生活を始めてそろそろ十年になる。パイロットには知識も技量も必要だが、身体の強靭さも必要だ。飛ぶことによる身体への負担は、意外と自覚している以上にあるからな」
「宇宙戦闘機なら、重力の影響はほぼありません。高G負荷による肉体への負担は、地上戦闘機のそれに比べて少ないはずです」
「まあ、教科書的に考えるならそうだろうな。でも、長く軍人として生きるつもりなら、己の身体を労わって損はない。重力負荷がなくとも、宇宙線を浴び続けることによる負荷はある。それに、致命傷を負ったりして操縦不能になった場合、パイロットとしての能しかないのでは未来がないだろう」
「だからパイロットではない別の職能を身に付けてセカンドキャリアを築けるように……ということですか。でも、それがどうして教育隊に? ベリンガム大尉なら作戦立案など、むしろ指揮官としての能力を組織から求められているのでは」
「それは……」
フレイザーはしばし間を置いた。考えているというよりも、ためらっているようだ。しかし深い呼吸を幾度か繰り返してから、観念するように続きを述べた。
「リースと比べるのは不本意だが、あいつと違って俺はお人好しではない。お前も知っているだろうが、基本的に口は悪いし短気だ。それでもな、人に教えるのは嫌いじゃないんだ」
「人に教える……パイロットの次のキャリアとして、教官をお考え……ということですか」
エーファが念押しのように確認すると、フレイザーは柄にもないと自分で思っているらしく、気恥ずかしいような気まずいような表情で「まあ……そう、だな」と歯切れの悪い返事をした。
「パイロットは、いわば消耗品だ。大規模な戦闘が起こればごっそりと人員が減ることも珍しくない。それなのに、一人前のパイロットが育つのには時間がかかる。それらを考慮して無人機の配備も進んではいるが、銀河全体で見れば有人機の数の方が圧倒的に多い。となれば、教官という人材も必要なんだ」
少し早口で語るフレイザーは、エーファの目を見て話すのが恥ずかしいらしく、誰もいない食堂内を見ている。
――貴様、ただの大尉のくせにわたしを愚弄する気か。
――ええ、そうです。下官にとって反面教師にしか見えない大佐など、愚か以外の何ものでもないでしょう。
エーファは、長年自分を支配し続けてきた圧倒的な存在に対して堂々と対面する先ほどのフレイザーの姿を思い出した。
エーファの古巣である第九宇宙団では、ベルツ大佐に真っ向から意見をする軍人はいなかった。少なくともエーファの知る範囲内――それはつまり、ベルツ大佐の権力の及ぶ範囲内ということだが――では、ベルツ大佐への意見など、ましてや揶揄など、到底できるものではなかった。
(ベリンガム大尉はベルツ大佐のことを知らないから反抗できたの?)
いや、そうではない。あの場にいた、ベルツ大佐を知らない第八宇宙団の隊員たちは、エーファ同様に委縮して何も言えずにいた。初対面の人間さえも、あの体格と迫力で威嚇し制圧する。ベルツ大佐とはそういう人間だ。
それでも、あの場で唯一フレイザーだけがベルツ大佐に臆さずにいられたのは、彼自身が強いからにほかならない。幼稚な言い方をすれば、負けん気が強い。フレイザーはそういう性格だ。己を強く保てるだけの、屈強な心があるのだ。そんなフレイザーなら、どんなに口が悪かろうと、根気よく未熟な者たちに教える教官という職種は向いているのかもしれない。
(ベリンガム大尉……)
エーファにとってフレイザーは、上官として非常に頼れる存在だ。確かに気は短いし言葉遣いも悪い方だが、ここに来てからエーファは、彼に対して何ひとつ、委縮したこともなければ困ったこともない。部下として彼を支えることを嬉しく思ったし、休暇日に彼と過ごせた時間も嬉しかった。
フレイザー・ベリンガムという存在はほかの隊員とは違う、自分にとって何か特別な意味を持った存在になっていた。その彼が未来を見据えて進もうとするのなら、補佐官らしく、その道を支えたいとエーファは思った。
「出向はいつからのご予定ですか。それまでに戦闘データの精査を終わらせた方がいいですよね。あの……まだ終わりは遠いのですが」
フレイザーに対して何か特別な意味を見出していることを、エーファは自覚した。けれど、意思や行動、感情さえも長年押さえつけられてきたエーファは、自分の心の中に生まれつつある気持ちの名前についてはまだ自覚できなかった。
「早ければ来週だ。教育隊側と、何よりこちらの飛行隊の人員調整次第ではあるがな。データの精査だが、急ぐことはない。現在までに完了した分については、すでに技術班に渡したのだろう? それなら、残りは無理のない範囲で進めてくれればいい。それに今後はお前自身も飛ぶだろうしな。いつまでも内勤ばかりさせてはおけん。お前がパイロットとして復帰する際には別の人材にデータ管理一式の業務を専担でやらせるように、隊長にはお願いをしている」
いつの間にかエーファの進退――事務作業を退いてパイロットに復帰すること――の準備も進んでいたらしい。エーファは、ほぼ相談なくフレイザーが事を進めていたことを少しばかり寂しく思ったが、それは表に出さないように胸中にしまい込んだ。
「わかりました。引き継ぎの準備もしておきます」
「ああ。頼むぞ、ベルツ少尉」
ようやくエーファの方を向いて、フレイザーは頷いた。
◆◇◆◇◆
フレイザーの教育隊への出向は、少し遅くなってそれから二週間後という日にちで
決定した。教育隊は、飛行隊と同じく惑星の各地および宇宙にいくつかの基地や拠点を持っているが、フレイザーが行くのは宇宙基地とのことだった。
これは異動ではない。定められた期間が過ぎれば、フレイザーは戻ってくる。だが、その先はどうなるかわからない。何事もなくパイロットとしての日々に戻るかもしれないし、今度は期間限定ではなく本格的に教育隊に籍を移すことになるかもしれない。エーファはリースからそう聞いていたが、特に何も答えなかった。
そうして、エーファもフレイザーも淡々と引継ぎを終え、フレイザーは教育隊への出発を明日に控えて基地を後にした。
明日は最も早い連絡便で宇宙基地へ行くので、今夜は早めに寝た方がいい。夜遊びをしている余裕はない。しかし賃貸の自分の部屋に帰ったフレイザーは、なぜか妙に落ち着かない気分に襲われ、気晴らしのつもりで少しのドライブをすることにした。
向かった先は一番近くの懸垂式モノレールの駅周辺で、時間帯的に学校や仕事から帰宅する人々が止まることのない波を作っていた。目的地はないので、フレイザーは降車することなく、頻繁に赤信号で止まる駅前の道路を、なんとはなしに運転し続ける。すると、ふと目に入ったものが気になり、車を止めてある店へと向かった。
「いらっしゃいませ。気になるものがあればお声掛けください」
緑色のエプロンを付けた愛想のいい女性店員が、フレイザーに声をかける。その声を無視して、フレイザーは店先の一部をじっと見つめた。