第3話(前編)
「エーファちゃん、最近少し笑うようになったよな」
昼食の乗ったトレイを両手に持って食堂内を歩いていたフレイザーの耳に、ふとそんな会話が聞こえた。フレイザーは湧き起こった苛立ちを瞬時になで付けて、会話の主であるよそのチームの軍人二人の声が聞き取れる位置に、二席ほど席を空けて座る。そして涼しい顔で食事を始めながら、耳はその二人の会話に集中した。
「異動してきた当初は、人工知能の人形かよって感じだったけどな」
「お前、話したことあんの?」
「いや、直接はない。けどさ、待機室で休憩してるのは何度か見たことがあってさ。あっちのチームの奴らと、多少なりとも会話はしてたぜ。たま~にだけど笑うことがあって、それがまあまあかわいいんだよ」
「お? なんだよ、お前ああいう女がタイプなのか」
「タイプっつーか、まあ、第九宇宙団からの異動者なんて珍しいから気になるじゃん」
第八宇宙団飛行隊の中には、複数の「チーム」がある。ある一定の階級以上の者をリーダーとした小グループのことだ。作戦行動命令が発令されていない場合――つまり、平時と呼べる通常業務の間は、このチーム単位で働くことが基本である。
エーファはフレイザーの補佐官という立場なので、当然ながらフレイザーと同じチームだ。しかし、フレイザーとエーファは同じチームでありながらも一緒に仕事をしている言いがたかった。なぜなら、エーファは第九宇宙団での面倒事がまだ完全に解決はしておらず、パイロットでありながらも飛行制限中だからだ。一方のフレイザーはリースなどほかのパイロットと同じくほぼ毎日飛行訓練があり、よくて空、時には宇宙まで飛んでいて地上にはほとんどいない。それに訓練以外の業務もあり、勤務時間中にエーファと話す機会はせいぜい日に二回。彼女に頼んでいる戦闘データの精査の進捗報告を受ける時と、データの分類や保管に関する提言を受ける時くらいだ。
(馬鹿馬鹿しい……なぜこんな奴らに苛立つんだ)
だから、地上にいて彼女と接するチャンスのある彼らが、妙に羨ましい。
そんな風に感じる自分を、フレイザーは胸中で罵った。
◆◇◆◇◆
(ベリンガム大尉もリース大尉も、優秀なパイロットだわ)
今日も戦闘データの精査に取り組んでいたエーファは、コーディングの終わったデータ群を並び替えながら、そこに見える二人の技量を感慨深く思った。
なめらかで無駄のない増速と減速。機体に負担をかけないところが、細やかな気配りのできる二人らしい。敵機との交戦においてはややフレイザーの方が攻撃的で、狙った目標を撃ち落とすまでの執拗さが垣間見える。一方のリースはフレイザーほどしつこくはないようで、敵機を追っている時間はやや少ない。その代わり、フレイザー以上の急旋回をこなしているあたり、おそらく確実に仕留められる獲物を見つけて短時間で撃ち落とすタイプなのだろう。機体を労わっているかと思えば、結局二人ともなかなか強気な操縦をしている。とはいえ、こんな二人を楽に撃ち落とせるパイロットは、そうそういないだろう。
「エーファちゃん、飴をあげよう。ちょっとは休憩したら」
標準事務室内にいた同じチームのランドルフ・フェザー三等星中尉が、紙包みに入った飴を差し出しながらにっこりとエーファに笑いかけた。リースがそう呼ぶせいなのか、チームメンバーは気軽にエーファのことをちゃん付けで呼ぶ。名字と階級という規則通りの呼称でエーファを呼ぶのは、フレイザーだけだった。
「ありがとうございます、フェザー少尉」
「どういたしまして。どう、終わりそう? 俺らが放置し続けたデータは」
「折り返し地点が、昨日よりも近くに見えます」
「つまり、まだ当分終わらなさそうだけど進捗は良好、ってことかな。そりゃよかった。悪いね、ずぼらが多くて」
「いえ……何か事情があったのでしょう」
ランドルフは、リースとはまた違った人当たりの良さがある。例えるなら、毒にも薬にもならない「親戚のおじさん」というような立ち位置で、むやみに踏み込まず、かといって相手を邪険にせず、適切な距離感で接してくれる軍人だった。
リースは軽口がすぎるので同じノリで会話を続けられないが、ランドルフ相手なら、エーファは少しの雑談もできるようになっていた。
「立派な事情じゃないさ。たまたま、解析に手を回す余裕がない時期があってね。気付いたら誰もやらなくなっていたのさ」
エーファに渡したのと同じ飴を舐めているのか、ランドルフの口がもぞりと動く。
「飛べないのは残念だろうけど、エーファちゃんが来てくれて助かったよ。フレイザーの補佐として、彼のこともよろしく頼むよ」
「はい、承知しております」
彼をよろしく頼む――その言い回しは、なんだか不思議だとエーファは思った。
今の自分がこの場所ですべきことは、フレイザー・ベリンガム一等星大尉の補佐。第八宇宙団の飛行隊の所属ではあるが、第八宇宙団という組織ではなく、フレイザー個人のために働いているようなものなのだ。実際に、フレイザーからは折に触れて頼まれる雑務がある。それはフレイザーが上官から命令された仕事の一部だったりしたが、エーファが手伝うことは組織の役に立っているというよりも、フレイザーの役に立っているという感触だった。
ランドルフはフレイザーよりも年上だが、一等星大尉のフレイザーよりも下の階級の三等星中尉だ。つまり、フレイザーは年齢のわりにかなり早いスピードで昇格している。この分だと、おそらく二十代のうちに左官になれるだろう。そうなると、ゆくゆくは将官になる。つまりフレイザーは、守護星軍のかなり上の方の指揮官になれるコースを歩いている。
(だから、個人的な補佐官が必要なのかしら)
飛行訓練に加えてこなす、様々な事務仕事。そのすべてをエーファは見たわけではないが、おそらく彼は作戦立案などの役割を期待されている。一人のパイロットとしては終わらせない、という軍からの期待がある人物なのだ。
そんな人物を補佐するということは、嬉しいことだとエーファは思う。パイロットとして宇宙戦闘機に乗っている時間も好きだが、フレイザーの役に立てるようにと地上で事務仕事をこなす時間も悪くないと、自然に思うようになっていた。
ただ、不可解なこともある。それは、フレイザーとリースと三人で遊園施設を訪れた先日の休暇日前にリースが何気なく言った一言を、ふいに思い出すことだ。
――女を連れ込むのに隊舎じゃ融通がきかねぇしな。
リースの口はよく回るので、彼が言った些末な内容はいちいち憶えてなどいない。けれど、なぜかその台詞だけはエーファの頭から離れず、それどころか時折顔を出しては、エーファの胸を重くするのだった。
(女性を連れてくるの?)
独身なら隊舎に住む者が多い中で、民間の賃貸の部屋に住んでいるフレイザー。その部屋に、リースの言うように女性を連れ込んでいるのだろうか。それはつまり、その女性と親しい間柄にあるということなのだろうか。
(胸が……痛い)
そう考えると、エーファの冷えた胸は硬くなる。それから、じんわりと押しつぶされるような痛みに包まれる。それはライネヴェジン軍事アカデミーに通っていた学生時代に、帰省した実家でその期の成績について父親から評価を受ける時の怖さに似ていた。自分のすべてを否定されて、真っ暗な穴の中に落ちていくような心細さを伴う痛みだ。
(ベルツ大佐は、今頃どうしているかしら)
エーファの実家ベルツ家では、たとえ血のつながった家族であろうと、階級で呼び合うことが徹底されていた。エーファは父親のことを「ベルツ大佐」としか呼んだことがないし、入隊前だった六歳上の兄のことも、「ベルツ少尉候補」と呼んでいた。入軍時には必ず「三等星少尉」からスタートできるように成績優秀であるべし、という父親の教育方針に従って、「やがて少尉になる者」という期待を込めてそう呼ぶように教え込まれたのだ。そして自分もまた、父であるベルツ大佐や先に軍人になった兄からは、「ベルツ少尉候補」と呼ばれていた。アカデミー卒業と同時に無事に三等星少尉の階級に就けたあの日の心底安堵した気持ちを、エーファは昨日のことのように思い出せる。
その父親――ベルツ大佐は、先の作戦の正当性について非難され、しばらく動向を聞かなかった。彼にとって「娘」ではなく一人の「部下」にすぎないエーファはただ上官に言われるがまま謹慎処分を受け入れ、そして言われるがまま、ここ第八宇宙団に異動した。
(第九宇宙団はいま、どうなっているの)
これまでの自分ならきっと深く気にすることなどなかっただろうが、今は妙に気になる。例の世論は鎮まったのだろうか。ベルツ大佐への非難はやんだのだろうか。もしそうならば、自分は第九宇宙団に戻ることになるのだろうか。
「困ります。きちんと上官を通していただきたい」
「その必要はない。わたしに逆らうのか、三等星中尉ごときが」
その時、標準事務室の入り口の方からランドルフと誰かの口論のようなものが聞こえてきて、エーファははっとした。一抹の恐怖を感じながら席を立ち、恐る恐る入り口に近付く。
「いるではないか。エーファ・ベルツ三等星少尉、今からわたしと共に第九宇宙団に戻るぞ。明日、婚姻の手続きをしてもらう」
ランドルフの向こうに見えた、大柄な体躯。氷よりも冷たい黒の瞳。エーファの身を縮こませ、一切の自由意志を奪う威圧的な声。肩の階級章が示す位は、二等星大佐。
それは間違いなく、第九宇宙団機動隊所属のロバート・ベルツ大佐――エーファの父親だった。
◆◇◆◇◆
「なんか騒々しくね?」
飛行訓練を終え、パイロットスーツから通常の制服に着替えて標準事務室に向かっていたフレイザーは、一歩先を歩くリースの声を聞いてふと足を止めた。
「見慣れない奴がいるな」
「な~んかヤな予感」
リースが制服の胸ポケットに手を入れて、珍しく眉間に皺を寄せる。
標準事務室の入り口に近付くと、出入り口となっている自動ドアは誰かがすぐ傍にいるためか開放状態のままだ。怪訝な面持ちで二人が中に入ると、大柄な男がエーファの右手首を掴んでおり、一瞬にしてフレイザーとリースの警戒心は高まった。
「なんだ? おい、誰だ」
フレイザーはその状況に臆することなく、近くにいた同僚に尋ねる。すると、答えたのはエーファの背後にいたランドルフだった。
「こちらは第九宇宙団のベルツ大佐です、ベリンガム大尉」
「なっ……ベルツ大佐?」
ランドルフの答を聞いて、フレイザーの表情は硬くなった。一方のベルツ大佐は、エーファの手首を掴んで固定したまま、フレイザーの方に冷血な視線を向ける。
「この中で最上位は貴様か、ベリンガム大尉」
「第八宇宙団飛行隊所属、フレイザー・ベリンガム一等星大尉です。エーファ・ベルツ少尉のご尊父とお見受けいたしますが、ベルツ少尉に何か御用でしょうか、大佐」
標準事務室内にはエーファ、ランドルフのほかに数名の軍人がいたが、ベルツ大佐の言うとおり、いまこの場で最も階級が高いのはフレイザーだった。そのため、第八宇宙団所属の軍人たちは、ベルツ大佐との交渉をフレイザーに委ねる。その代わり、ベルツ大佐に付き従ってきた二名の軍人が妙な動きをしないように、その一挙手一投足を見張るように視線を向けた。
「ベルツ少尉は第九宇宙団に戻ってもらう。婚姻が決まったのでな」
「婚姻……?」
厄介な相手を前にして気を抜いてはいけないと思ったが、フレイザーは瞬きを繰り返してしばしの間呆けてしまった。それくらいに、ベルツ大佐の口から飛び出た単語はこの場の空気に似つかわしくなかった。