第2話(前編)
「二人とも、今度の休暇日は朝十時にイオネスノ広場に集合な」
基地の食堂でたまたま向かい合って昼食をとっていたフレイザーとエーファは、満面の笑みのリースをそろって見上げた。フレイザーの表情には苛立ちが、エーファの表情には疑問が浮かんでいる。突如近付いてきたリースが何を言っているのか、すぐには呑み込めなかったからだ。
「〝テンペストの翼〟っていうカフェが評判なんだよ。ちょっと遠くにあるけど、ドライブがてら行こうぜ。あ、車はフレイザーのでよろしく」
「人の休暇日の予定を勝手に決めるな」
「だからこうして前もって打診してるじゃんか」
「決定事項かのように言うのは打診とは言わん!」
フレイザーが少しばかり大声を出すと、リースは「どうどう」と両手のひらをフレイザーに向けて苦笑した。
「どうせ予定なんかないだろ? あ、きれい好きなフレイザーは部屋の掃除でもする? 面倒だからお前も隊舎にいればいいのに、物好きだよなあ」
独身の軍人は、その多くが基地内、または基地付近にある軍の隊舎に住まうものだ。しかし強制ではないので、希望者は民間の賃貸住宅に住む場合もある。結婚などをして家族ができた場合は、どこかに家を買うのも普通だ。
この三人の中ではフレイザーだけが基地外にある民間の集合住宅の一室に住んでおり、リースとエーファは隊舎暮らしだ。
「どこに住もうが俺の勝手だ」
「まあ、女を連れ込むのに隊舎じゃ融通がきかねぇしな」
「ここは食堂だ。発言には気を付けろ、スペンス大尉」
フレイザーはリースをわざと名字と階級で呼んで咎めた。
外部と遮断されることが多く娯楽の少ない軍隊において、他人の色恋沙汰ほど都合のいい楽しみはない。対象者を選ばなければ不定期にそこかしこでそれは勃発し、推移し、第三者としては面白おかしく聞いていられる。それが猥談になろうものなら、特に若い男性軍人の間ではいい肴になるものだ。
フレイザーもリースも軍人生活が十年近くになるが、特別な異性との交流が皆無だったわけではない。ここ最近は仕事ばかりではあったが、隊舎住まいでないフレイザーは、わりと頻繁に噂話の種にされていた――その内容が真実かどうかは別として。
「とにかく、十時にイオネスノ広場な。エーファちゃんもよろしく」
そう言ってウインクを残して去っていくリースの足取りは軽い。残った二人の間には、反比例するように重い空気が流れた。
「行かなくていいぞ、ベルツ少尉」
フレイザーはちらっとエーファを見てから、つっけんどんに制した。
「ですが、スペンス大尉が待ちぼうけになってしまうのでは」
フレイザーに視線を返したエーファは、広場で一人立ちすくむリースを想像して懸念する。
「問題ない。あいつが一日中俺たちを待っていたところで、俺たちの知るところではない」
そう言い切るフレイザーに、エーファはしばし黙り込んだ。
二人は同僚というだけでなく、軍学校時代からの友人のはずだ。フレイザーは気にならないのだろうか。それとも、気心の知れた友人だからこそ、そんな風にぞんざいな扱いができるのだろうか。
「スペンス大尉に悪いので、私は行きます。スペンス大尉の言うとおり、予定があるわけでもないですから」
フレイザーと同じようにリースをぞんざいに扱うことは、当然ながらエーファにはできない。休暇日をリースと過ごしたいわけでも、その〝テンペストの翼〟というカフェに行きたいわけでもないが、階級が上の者からの誘いを断る理由が自分の中に見当たらないので、これも命令だと思うことにして、エーファは「午前十時イオネスノ広場」という予定をしっかりと頭の中にインプットした。
「おい、本気か」
「はい」
「お前は流行りだのカフェだの……そういうのに興味があったのか」
エーファが第八宇宙団の所属になってから、ひと月以上が経っている。その間にフレイザーが抱いた彼女への印象は、とにかく硬くて起伏のない、あけすけなく表現するならとても十代の女性とは思えないほどにつまらない人間だった。黄色い声で笑うこともなければ、そもそも喜怒哀楽などの基本的な表情でさえ、ほとんど見せることはない。せいぜい怪訝、疑念、そういったものが、わずかに動く眉に見て取れるぐらいだ。
「いえ、特にあるとは言えません」
だろうな、とフレイザーは思う。その堅苦しい返答の仕方といい、軍人の制服を着て敬礼して上官の命令に従っているだけの姿が、彼女のすべてのように思えてならない。
(こいつが行くなら、リースを見張るために俺も行かないといけないじゃないか)
それ以上会話を広げることはせず、フレイザーは胸中で大きくため息をついた。
軽薄そうに見えるリースだが、無謀な火遊びをする性格でないことは、長年の付き合いであるフレイザーは承知している。だが、リースとエーファを二人きりにさせることにどことなく抵抗感がある。彼女が第九宇宙団からの転属者で、しかもなぜか前の組織で謹慎処分を食らっているという、いわくつきの人物だからだろう。
(リースの奴め……あらゆる費用は奴の財布から出させてやる)
フレイザーは不機嫌そうに片眉を上げたまま、黙々と食事を終えた。
◆◇◆◇◆
「いや~、やっぱフレイザーのこの車、いいよなー」
そしてむかえた休暇日。きちんと集合時間ぴったりに現れた二人の姿を見て、リースはご機嫌だった。苛立ちで目元がキリッとつり上がっているフレイザーに睨まれても、まったく意に介していない。それよりも、「エーファちゃん、私服もなんか制服みたいだね」と、親しげにエーファに話しかけていた。
「助手席に座らせちゃったけど、エーファちゃん、ナビのやり方とかわかる?」
イオネスノ広場で集合した三人は、少し離れたパーキングに止めてあったフレイザーの乗用車に乗り込んだ。たいして乗る機会のないそれは新品同様で、助手席のリクライニングシートの動きはぎこちなく、後部座席の背もたれの革は、まだ独特の匂いを放っていた。
「これは半自動運転で、助手席からの補助は不要だ」
ステアリングに両手を置いたまま、横目でエーファを見やったフレイザーは低い声で言った。助手席に座るエーファの肩近くに身を乗り出していたリースは「へいへい」と相槌を打ってから、姿勢を戻す。
目的地は、最初にナビにインプットした〝テンペストの翼〟――四区画離れた市街地の隅にあるカフェだ。宇宙戦闘機ではなく地上を走る乗用車の運転など久しぶりだろうに、フレイザーの運転はとても丁寧だった。
同僚三人で行くドライブは、終始フレイザーの機嫌がよろしくなかったものの、リースとエーファの間では会話が途切れることなく時間が過ぎていった。おしゃべりなリースの話にエーファが頷く、という構図が半分以上だったが、リースが語る軍学校時代の自分たちのエピソードは、珍しくエーファの目を見開かせ、興味をそそったようだった。
「カフェと言うにはやけに広くないか」
目的地に到着して車を降りるなり、フレイザーは目的の施設がただの飲食店ではないことにいち早く気付き、リースを睨んだ。目の前には観覧車やジェットコースターなどのアトラクション、それにパターゴルフやプールといった施設の一部も見えている。おまけに、少し歩いて目に入った案内図を見れば、すぐ近くに水族館も併設されているらしく、そこは誰がどう見ても大型の遊園施設だ。
「〝テンペストの翼〟はこの中にあるんだよ。まあせっかくだし、羽を伸ばして遊ぼうぜ」
「ふざけるな! ジェットコースターが楽しめる年齢はとうに過ぎてる!」
にこにこと施設の入り口を目指すリースの背中に、フレイザーは怒鳴り散らした。「評判のカフェに行く」というのは建前で、本当の目的はこの遊園施設で遊ぶことだったのだろう。まんまとリースの策に乗せられたわけだ。
鼻息を荒くしてフレイザーは苛立ったが、彼のその態度は予想済だったらしく、リースはフレイザーを無視してエーファの方に声をかけた。
「エーファちゃんは? こういう場所、来たことある?」
「私は……」
三人の足が止まる。先を歩いていたフレイザーとリースに見つめられて、エーファは俯いた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「だよねー。卒業してすぐ入軍だと、遊ぶ時間もないもんな。ま、せっかくここまで来たんだし、いろいろやってみようぜ」
「リース、そう言ってお前が楽しみたいだけだろ」
「え、そうだけど? 俺はまだ、こういうのが楽しめる年齢なんでね」
「俺と同い年のくせに。ガキだな」
「フレイザー、気持ちだけでも若くいないとあっという間に年をとってハゲるぜ?」
「誰がハゲるか!」
フレイザーをあしらうと、リースはずかずかと施設内に入っていく。そしてこの日の夕方まで、エーファはリースに勧められるまま、施設内を歩き回った。
軍人の道を早くから強制され、軍人になるのに不要なものは一切排除されてきたエーファにとって、遊園施設のアトラクションは何もかもが初体験だった。高所からいきなり落ちて進むジェットコースターは、まがりなりにも宇宙戦闘機のパイロットであるエーファにとってはそれほど刺激的ではなかったが、自分で操縦できないという不自由さに対しては新鮮な不安感を抱いた。暗闇の中、つるされたような状態で予測不可能な方向へ揺らされながら進むアトラクションでは、「これは訓練になるかも」などと、軍人らしいことを考えていた。
ほかにも、無秩序に行き交う大勢の一般人の中を歩く困難さや、小腹が減ったと言うリースが買ってきた、粒の大きな砂糖がまとわりついたドーナッツを食べ歩きするだらしなさ。次は何に乗ろうあれに乗ろういやだあれはつまらん、としっかりと行き先を相談するフレイザーとリースの仲の良さなど、体験したり見聞きしたりしたことのなかったものが、これまで閉じていたエーファの感覚をノックする。
自分の胸の中に繰り返し起こる波のような高鳴りを、エーファはなんと呼ぶのかわからなかった。けれど、おそらく一番単純な名前をつけるのなら、それは「楽しい」という感情なのだろうと思った。
「エーファちゃん、今日は楽しかった?」
「はい」
だから帰りの車の中、リースから尋ねられたエーファは、間髪を容れずにそう答えた。そんな自分を不思議に思ったが、次の瞬間には思わず頬がゆるんでいた。
「とても……楽しかったです」
「そっか、それはよかった。フレイザーが隊舎まで送ってくれるから、寝ちゃってもいいぜ」
エーファのほほ笑みを見て満足げなリースは穏やかに言った。
そこでエーファは、ステアリングを握る運転席のフレイザーの横顔を見つめた。彼のサラサラとした銀髪は、今日も変わらずきれいだ。様々なアトラクションに乗って上下左右に振り乱されたはずなのに、まるでつい今し方櫛を通したかのようにすとん、と落ちている。
「なんだ」
「あ、いえ……」
エーファの視線に気付いたフレイザーは、前方を向いたまま短く尋ねる。エーファは首を振ると、助手席側の窓の外へと視線を向けた。
(楽しい……。こういう日を……ううん、この感情を楽しいと言うのね)
エーファの人生は、守護星軍にすべてを捧げるもの。そういうものだと言い聞かされて育ってきて、それが当然だと思っていた。疑いもしなかった。不満を抱いたことはあっただろうが、それを表に出すと大声で叱責されたので、いつしか押し殺すようになっていた。守護星軍の軍人になって人生を歩まねば、生きている価値などないのだと思っていた。
軍人に、楽しいなどという感情は不要。必要なのは、軍人としての技量を磨く時間。任務に従事し、確実に戦果を上げ、階級を上げること。そのためには一分一秒たりとも無駄にするな、すべての時間とエネルギーを軍人として生きることに捧げろ。そう繰り返し刷り込まれてきたおかげで、楽しみも喜びもろくに知らなかった。
(それに、嬉しい)
後部座席のリースも多少なりとも疲れたようで、行きほど積極的に話しかけてくることはなかった。エーファもフレイザーも進んで話をしないので、リースが喋らないと車内に会話が生まれることはない。窓ガラスの外で空気が流れていく音とエンジン音だけが、唯一のBGMだ。それはまるで子守歌のようで、エーファの瞼は落ち、思考と意識はゆっくりと沈んでいった。
(ベリンガム大尉と……一緒に、いられ……て……)
生まれて初めての遊園施設での体験が「楽しい」ならば、フレイザーと共に過ごせた体験は「嬉しい」だ。
なぜそんな風に思うのか、エーファはその疑問を深掘りする間もなく、しばしのうたた寝に入ってしまった。