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氷姫は溶かされたい

作者: 星河雷雨



 天井から垂れ下がる乳白色の柱。地表には青く輝く澄んだ水面。


 仄かに青白く輝く洞窟の最奥には、一つの大きな氷塊が鎮座していた。


 氷塊は驚く程に透明で、まるで水晶の如き煌めきを放っている。洞窟内の色を集めて反射するその神秘的な氷塊の姿は、見る者の心を奪う程に美しい。


 だがその氷塊よりもなお美しいのは、氷塊の中に閉じ込められている少女だった。


 夜空に浮かぶ星々のように煌めく白銀の髪。透き通る程に白い肌。淡く色付く唇。女神の如き完璧な美貌。だが残念なことに、少女の長い睫毛に縁どられたその双眸は固く閉ざされたままだった。


 少女が氷塊に閉じ込められてから、すでにかなりの年月が経っている。


 今は見えない、少女のその双眸。その色が冬の海に浮かぶ氷の色だということを、しかし知っている者は、すでにこの世には誰も存在していない。





 ――氷の中で待ち続けて幾星霜。


 かつて、その儚く麗しい容貌から氷花姫(ひょうかひめ)の異名を取ったフロイデン王国第二王女、レイチェル・ブリューエル・フロイデンは――些か生きることに飽いていた。





《ああ……ひ~ま~だ~わ~。えーと……? 私が氷漬けになってからどのくらい経ったっけ?》


 氷塊を見つめながら首をひねる少女――レイチェルこそが、氷塊の中に閉じ込められている張本人だった。


 今のレイチェルは精神体。人にしては長すぎる年月を過ごすうち、精神だけ身体から抜け出すことを覚えたのだ。


《うーん。最後に計ったのがいつだっけ? 百……は当に過ぎてたわよね。今は二百……いや、三百年? くらい?》


 レイチェルはとことこと歩き出し、天井からぶら下がる一つの乳白色の柱の前に立った。鍾乳石だ。

 その鍾乳石の目の前に立ち、鍾乳石の先が丁度己の唇辺りにあるのを確認して、レイチェルは満足げに頷いた。


《うん! 大体三百年ね!》


 おそらくだが、レイチェルが氷の中に閉じ込められてからすでに三百年程の時が経っていると思われた。


 なぜそれが分かったのかと言えば、先ほど計った鍾乳石。ここへ来た当時はまだレイチェルの鼻先辺りまでしか成長していなかったこの鍾乳石が、今ではすでにレイチェルの唇辺りまで成長していたからだ。


 鍾乳石がレイチェルの小指の爪程度伸びるのにかかる時間は、約百年。レイチェルにそれを教えてくれたのは、レイチェルを氷漬けにした魔法使いだった。


 そしてその教えから導き出した答えが、約三百年。


 氷塊は魔法によって造られたものであるため、周囲の空気にはあまり影響を及ぼしてはいない筈だ。とはいえ、それでも人一人覆って有り余る大きさの氷塊が洞窟内にあることによって、鍾乳石の成長速度にも変化が出ている恐れはあった。なので、三百年という概算はあくまで目安でしかない。


 だが、それでも約三百年。


 しかもその間、意識はばっちりとあったものだから、レイチェルにしてみれば堪ったものではなかった。


 今はこうやって精神だけ氷塊の中から抜け出せるようにはなったが、それが出来るようになるまでは本当に悲惨だった。


 最初の十年くらいは、まだ正気を保っていられた。なぜなら、そのほとんどの年月をレイチェルは半ば強制的な眠りの中で過ごしていたからだ。


 しかし意識が覚醒した次の十年の間に、レイチェルの精神は一度壊れた。壊れたのだと、今ならわかる。

 

 それからの永い年月を、レイチェルは壊れた精神のまま、冷たい氷塊の中で怨嗟の言葉を放ち続けた。そして更に同じくらいの時が経った頃、ふと、レイチェルの精神は以前のように明瞭とし、自分自身を取り戻した。


 それから死に物狂いでどうにか精神だけを身体から離す術を学び、今に至っていた。


 レイチェル自身、何故正気を取り戻せたのかは、いまだにわからない。

 けれど今のレイチェルはまるで生まれたての赤子のように、透き通った心になっていた。


 あるいは、自分の精神は本当に氷塊の中で一度死に、そして生まれ変わったのではないかとレイチェルは思っていた。


 レイチェルの閉じ込められている氷塊は、魔法によって造られたものだ。だから、そんな人智を越えたことだって、あり得るのかも知れないと。


 そして、だからこそ身体は氷漬けにされていても、こうして思考だけは巡らすことが出来ているのだろうと。


 実際にはそれが仇となりレイチェルは狂ってしまったのだが、きっと魔法をかけた張本人とてそこまでは計算していなかったのだろう。


《あるいはもう、本当は死んでるんじゃないかと思う時もあったけど……あの男の魔法だもの。身体が生きていることはやっぱり確実だと思う訳よ》


 だから、きっとレイチェルはまだ生きている。そして生きながらずっと、この冷たい氷塊に囚われたままなのだ。


《……参っちゃうわね~》


 レイチェルの口から、言葉と共に小さな小さな溜息が零れ落ちた。





 レイチェルが生きていた時代。

 

 おそらく、今から三百年以上の昔。


 長きにわたる隣国との戦争の末、レイチェルはフロイデン王国最後の王族として、数人の護衛騎士と魔法使いと共にこの洞窟に逃れて来た。


 その時にはすでにレイチェルの両親も、兄も、姉も、すべて敵国の騎士の手によって殺されていた。レイチェルの目の前で殺された。

 

 敵から隠れて逃げている最中に聞いた噂によると、敵国の騎士はレイチェルの家族の死体全てから首を切り落とし、本国へと持ち帰ったらしい。その話を聞いたときには、レイチェルはその場で吐いてしまった。


 レイチェルが幸いにもその現場を見ずに済んだのは、家族が刃に倒れてすぐ、誰かが目元を隠してくれたからだ。隠したまま、レイチェルを逃がしてくれたからだ。


 そうやって命からがらこの洞窟に辿り着いたのもつかの間、すぐにレイチェルたちは追ってきた敵に見つかってしまった。魔法使いたちが痕跡を消していたはずだったが、敵国側の魔法使いたちも優秀だった。


 護衛騎士たちが殺され、敵の手がレイチェルに届こうとしたその瞬間、レイチェルは王家の血を絶やすまいとした魔法使いによって、この氷塊に閉じ込められたのだ。


《まあ、しょうがないと言えば、しょうがないわよね~。私ってばたった一人の王家の生き残りだったし? 彼らにしてみれば何が何でも私の命を護らなければならなかったんだろうけど……》


 でもね~、とレイチェルは独り言ちる。


《せめて意識は奪って欲しかったわよね。ずっと眠り続ける魔法でもかけておいてくれたら良かったのに。まあ、あの土壇場じゃ私の命を護ることで精一杯だったのかも知れないけど? でも、もうちょっとやりようがあったんじゃないかしら? せめて数年後には自然と溶けるようにしておくとか、救難信号出しておくとか……いえね。無理だったのだろうな~とは思うのよ? だって本当急だったものね? 国に残っている魔法使いなんて、彼ら以外もういなかったろうし……。でもでも、それでも! 三百年以上氷漬けなんて何の罰なのかって話よ~! これじゃ氷花姫じゃなくて、ただの氷姫じゃない~》


 心の中で何を言おうと、現実のレイチェルの身体は氷塊の中。その小さな形の良い唇はまったく動いてはいない。氷の中には物言わぬ麗しい姫君の姿があるのみである。


《そもそも私に魔法をかけた魔法使い! あの男! 臣下のくせにいっつも私を馬鹿にするし、口を開かなければ極上だとか、お姉さまの爪の先くらいの色気があれば完璧だとか、褒めるか貶すかどっちかにしろって話よ!》


 それでもレイチェルの頭の中はいつも騒がしい。


《もう! 今思い出しても腹が立つわ~!》


 レイチェルは今ではすっかり独り言の多い姫になっていた。





 夜になると、洞窟の中は星で満たされる。


 光源は、洞窟に生息する石光虫だ。


 仄かに青く輝く石光虫と、洞窟の鍾乳石の放つ白銀の光。その僅かな二つの光を受けて、洞窟の中、レイチェルは一人踊っていた。


 腕をしならせ、脚を跳ね上げ、全身を使って小さく、大きく、円を描いていく。それは今では古式とされている舞踏であり、かつては王家に連なる女性であれば誰でも踊れたものだった。


 けれどそれは、すでに滅んだ国の舞踏。


 今それを踊れるのは、レイチェル一人だけだった。


 レイチェルは夜になると同時に踊り出し、この明け方までずっと踊り続けていた。しかし洞窟の星々の光が徐々に薄れゆき、そしてついに見えなくなった時――。


 一心に踊っていたレイチェルの動きがピタリと止まった。


《夜明け……》


 洞窟の入り口から差し込む朝の光を一瞥し、レイチェルは地面に腰を降ろした。そして小さく息を吐く。


《ああ……、本当に、ひ~ま~だ~わ~。踊るのも飽きちゃった……》


 きっともうこの踊りを覚えているのは自分だけ。

 

 そう思ったからこそ動作を忘れぬよう踊り続けていたレイチェルだったが、そもそも三百年近く踊っていれば、さすがに飽きも来るというものだった。


 レイチェルは先ほど座ったばかりの地面から、おもむろに立ち上がった。そして洞窟の奥へと歩を進め、己の身体に戻ろうとしたその時――。


《あ、(てん)発見》


 氷塊の近くに、一匹の貂の姿を見つけた。


 ちょこちょことした足取りでレイチェルの眠る氷塊の周囲をうろついていたのは、全身真白で足先だけ黒い被毛の貂だった。その貂が(くう)を見上げたと思ったら、まるで雷に打たれたように硬直した。


 それから数秒もしない内に硬直を解いた貂は、ぷるぷると全身を震わせ、震え終えた時には、その身体の主導権を別の存在へと明け渡していた。


「フィヤッ、フィヤッ!」《あ~、ひさびさの生の肉体……!》

「クククック~!」《空気が美味しい~!》


 氷漬けにされている間精神だけ氷塊から抜け出すことを覚えたレイチェルだったが、他の生物の身体に乗り移ることが出来ると気付いた時には、嬉しさのあまりつい乗り移った動物の姿のまま小躍りをしてしまった。


 とはいえ、あまり肉体から離れることは出来ないらしい。一度狐の身体で町まで行けないか試したところ、この洞窟の入り口が見える範囲の所までしか行けなかったのだ。


 それに、レイチェルが乗り移ることが出来るのはこの貂のように洞窟の中まで入って来た生物に限られており、精神体だけでは洞窟の中からさえ出ることが叶わなかった。


「フィヤ、フィヤ、フィヤ! フィヤー!」《でも、外に行けるだけでも感謝しなくちゃね! たまには陽の光を浴びないとまた狂っちゃうわ!》


 それでもずっと身体を借りているのは宿主の負担になってしまうため、長くて三日と決めていた。もちろん、その間借りている宿主の身体の健康には気を配る。今回のように小さな動物の身体を借りた場合、大型の肉食獣に捕食されないようにも気を付けている。


 レイチェルは貂の身体で洞窟の入り口まで行くと、一度洞窟の奥を振り返った。


 洞窟の最奥に鎮座する氷塊の中には、いつも通りの己の姿。


 レイチェルはもう何度も動物に乗り移り、この洞窟を離れている。しかし、その度に二度と己の身体に戻れなくなるのではという、不安を覚えるのだ。


「フィヤ、フィヤフィヤフィヤ!」《ま、そんなことないんだけど!》


 レイチェルはもう一度洞窟の入り口に顔を向け、徐々に明るくなっていく外界を見つめた。洞窟の外に広がるのは、なだらかな地面。その一面に、小さな花々を咲かせる草が生い茂っている。


 洞窟の中と外では、まるで別世界だった。


「ククッ、ククック~」《ちょっとだけ、身体を貸してね》


 レイチェルは意識の奥底へと追いやられている身体の本来の持ち主に声をかけ、束の間の自由を満喫するため、朝露に濡れた草の上を小さな身体で駆けだした。





「うわ~、貂ですよ! 貂! 可愛いな~」


 遊び疲れたレイチェルが草の上で日向ぼっこをしていると、子どもの声が聞こえて来た。子どもの声、否、人の声を聞いたのは実に百年ぶりくらいかも知れない。


 声の主に興味を惹かれたレイチェルは、ひょいと寝転がっていた身体を起こした。


 見ればレイチェルから少し離れた位置でこちらを見ている子どもが、今はレイチェルの乗り移った貂を指さしながら、隣に立つ若者に懸命に話しかけている。


《あら? 何だか見たことあるような顔ね……。う~ん、でも動物の目だといまいち対象物の顔が認識できないのよね~。色もよくわからないし……》


 精神体であるレイチェルが動物に乗り移っている間は、その動物の持つ身体的機能しか使えなくなってしまう。だがレイチェルには人間としての記憶があるから、あの子どもと若者の顔がなんとなく整っているということや、耳に入って来た人間の話す言葉の意味も理解できるのだ。


 乗り移った対象物の身体的機能に依存している割に、こうやって人間の時のように物事を思考し判別出来ているのは、きっと完全にはレイチェルの精神体と借り物の肉体とが重なり切っていないからだとレイチェルは考えていた。


 むしろ重なり切ってしまったら、自分が人間だったことも忘れ完全に乗り移った動物そのものになってしまうかもしれない。


《さすがにそれは困るのよね~。それにしても、あの二人友人にしては歳が離れているわね。親子……かしら。あるいは兄弟? こんなところに何の用?》


 この洞窟は町の外れにあり、滅多なことでは人は寄り付かない。近くまで来たとしても、洞窟の中までは入ってこない。だからこそ、当時レイチェルたちはここへ逃れて来たのだ。


 けれどこの三百年、あまりにも誰も入ってこないので、この洞窟には何らかの術が掛けられているのかもしれないとレイチェルは思い始めていた。


 しかし、きっとこの二人も洞窟の手前で帰っていくのだろうと思っていたレイチェルの予想に反し、二人は真っすぐにレイチェルの眠る洞窟へと近づいていく。その足取りに迷いはなく、何らかの目的があってここへ来たことは明白だ。


《何々? もしかして私に用が……なわけないか~》


 すでに三百年以上昔の人間であるレイチェルに用がある人間など、いるわけもないだろう。


《となるとあの洞窟そのものに用があるのかしら? めずらし~。あら? そしたら氷漬けの私を見たら驚くわよね~。うしし! ちょっと見学に行きましょう!》


 日頃の退屈のせいで少しばかり意地の悪い考えが浮かび、レイチェルは見つからないよう身を潜めながら洞窟に向かって歩み続ける二人の後を追った。


 それに、上手くいけば氷漬けの状態から解放して貰えるなんてこともあるかも知れないわ、などと、レイチェルは儚い希望を胸に抱いてもいた。


 氷漬けの人間を見たら、普通の人間はどうするか。


 そのままにしておくかもしれない。

 

 けれど壊そうとするかもしれない。


《もしかしたらあの二人が魔法使いって可能性もあるわね……》


 そうだとしたら、魔法でレイチェルを助け出そうとするかもしれない。


 しかし壊そうとするにしても助けようとするにしても、どちらの場合もおそらくレイチェルの命は失われてしまうだろう。


 レイチェルの眠る氷塊は、魔法によって造られたもの。ただ叩き割ろうとしても無駄であるし、魔法を使ったとしてもそれは同じだった。


 レイチェルを氷の中に閉じ込めたのは、当時国随一だった魔法使いなのだ。彼を越える力を持つ魔法使いならば希望はあったが、そうでないならばあの氷塊には傷一つ付けられないか、あるいはレイチェルの身体ごと砕けるかだ。


《それでも……もう良いような気がするのよね~。さすがに身体が壊れれば、私も諦めがつくのじゃないかと思うのよ。これまでずっと待ってたけど……もう三百年経ってるのだもの》


 一度は精神を狂わせたが、何の因果かこうやってまた正気を取り戻すことが出来た。だがこれから更に何十、何百と時を過ごしていくうちに、またいつ狂ってしまうとも限らない。


《今度も正気に戻れる保証はないしね~、って、あら? 驚いていないわね?》


 子どもの方は氷漬けのレイチェルを見て目を見開いているので、まったく驚いていないわけではないのだろう。

 だが連れの若者の方はただじっとレイチェルを見つめているだけだ。何なら瞬き一つしていない。


《まさか……知ってた、とか?》


 この二人はここにレイチェルが閉じ込められているのを知っていた。その可能性に思い至り、レイチェルはふいに妙な焦りを覚えた。


 どうして知っているのか。もしや彼らは王家の生き残りなのか。


 それでも、すでに時が経ちすぎている。そんなことはあり得ないと思いつつも、かつて失った者たちの面影を求めてレイチェルは兄弟と思しき者たちに近づき――そして驚愕した。


「ギャッ……、ギャギャ!」《う、嘘……!》


 レイチェルの声に気付いた二人が足元を見て、こちらも驚愕したように目を見開いている。


 遠目ではあまりはっきりとは分からなかった子どもの顔。近くまで来て確認したその顔に、レイチェルは見覚えがあった。


「フィヤ……フィヤフィヤ!」《嘘……まさか!》


 驚愕のあまり、レイチェルの精神は貂の身体から抜け出した。その拍子に身体の主導権を取り戻した貂が、一目散に洞窟から駆け出していく。


 氷塊の中に戻ったレイチェルは、真正面からもう一度子どもの顔を凝視した。


 貂に乗り移っていた時にはよく見えなかった子どもの容貌と纏う色が、精神体だけとなった今ならばはっきりとわかる。


 あの男の髪は、闇色。瞳は、紫色。


 子どもの髪は、金色。瞳は、青色。


 あの魔法使いとは、大幅に年齢が違う。けれど、その容貌を忘れるわけがない。


《ちょ、あなた……! あなた絶対、私を氷漬けにしたあの男の子孫でしょ!》


「え? しゃ、喋った⁉」


 子どもにしてみれば、目の前の氷漬けの女が喋ったように聞こえたのだろう。顔色を驚きと恐怖で青くしたかと思えば、すぐに興奮のためか赤らめている。そして精神体のレイチェルの言葉が解るということは、この子どもは魔法使いの可能性が高い。


《ねえ! あの男の子孫ならあなた魔法使いでしょ⁉ というか、私の声が聞こえている時点で魔法使いでしょ⁉ もう壊すでも何でもいいから私をここから出して!》


「ええ⁉ こ、壊しちゃったらあなた多分死んじゃいますけど……」


《今だって死んでるようなものよ! もう誰も私のことなんて待ってないもの、良いのよ!」


「それは困るなあ。せっかく来たのに」


 聞こえて来た子どもとは異なる声に、レイチェルはようやく子どもと一緒にいた若者の存在を思い出した。そしてその若者に視線をやり、レイチェルは思わず息を呑んだ。


 闇色の髪に、紫の瞳。色だけを見ればこの若者はあの男と似ていた。


 だが顔がまったく違った。どちらも優れた容姿をしているが、あの男はつり目、この若者は垂れ目だ。だが何だか雰囲気が似てなくもない。だからレイチェルは一瞬あの男が目の前に現れたのかと思い、驚いたのだ。


《何であなたが困るのよ⁉ あ、もしや私を利用しようとか考えてる⁉ 無理よ、無理! あの男性格はあれだったけど魔法使いとしてはかなり優秀だったから、あの男以上に優秀な魔法使いじゃないと私の身体を壊さずにここから出すのは無理よ!》


「それは心配しなくていいよ」


 レイチェルの言葉に、若者がふっと笑みを零した。


《え? ……もしかして、今は昔よりもっと魔法が進んでいたりする? このくらいの魔法なら皆解けちゃったりする?》


「魔法はむしろ退化しているよ。今その魔法を使える奴なんて僕くらいしかいないんじゃない?」


 若者の表情を見れば、それが思い上がりでも自慢でもないことがわかる。若者は本心からそう確信して言っているのだ。ああ、そういえばあの男もこんな感じだったなあと、レイチェルは懐かしさに鼻の奥がつんとした。


《あなた……優秀なのね?》


「まあね」


《じゃ、じゃあ! もしかして私を生きたままここから出せる⁉》


「もちろん。そのために来たんだよ」


《そのため? まさか、フロイデン王家の誰かに頼まれたの⁉》


 先ほど抱いた儚い希望が、よりはっきりとした形を取り始めた。レイチェル以外の王家の者がすべて死んだなど、何かの間違いだったのではないかと。目の前で両親と兄、姉が死ぬところを見たというのに、レイチェルはまだあり得ない希望に縋っていた。


 あるいは、家族の誰かじゃなくても王家に連なる血筋の者が生き延びていて、逃げたレイチェルのことを子孫に伝えてくれていて、永い、永い年月を経て、ようやくここにレイチェルがいることを突き止めてくれたのではないかと。


 だが若者はレイチェルのそんな儚い希望を否定した。


「そんなわけないだろう? 王家はすでに滅びているよ。君が最後の生き残りだったから、こんなことになったわけだし」


《え? じゃあ、どうして……》


 誰に頼まれたのでもないならば、この若者と子どもがここへ来た理由が思いつかなかった。


「あ~あ、残念なところは全然変わっていないね、レイチェル? どうしてカルが僕の子孫だってことには気付いたのに、僕には気付かないんだよ。これだけ核心に迫った話をしているっていうのに」


 若者の垂れた瞳には、少しだけ意地の悪い輝きが見て取れる。レイチェルにとっては、とても懐かしい輝きだった。


《その口調、表情……それに僕の子孫って……あなたもしかして……⁉》


 レイチェルに魔法をかけた張本人。国随一の、王家専属の魔法使い。


「ご明察。てかすぐに気付こうよ。色は同じなんだし」


《顔が全然違うじゃない! それに声も! というか、迎えに来るの遅くない⁉ あれから三百年くらい経ってるでしょ⁉》


「いや、五百年」


 こともなげに告げられた事実に、レイチェルは一瞬、思考のすべてを手放した。


《…………五百! 気も狂うわけだわ……!》


 レイチェルの言葉に、若者の表情が歪んだ。


 その表情を見たレイチェルはしまったと思ったが、すでに遅かった。


 レイチェルは己の迂闊さを悔やんだ。レイチェルに魔法をかけたのは、目の前にいるこの若者だ。そんなことを言ったら気にするに決まっているのにと。


「……ごめん。普通なら、あの氷塊の中ではすべての時が止まるはずなんだ。肉体も、精神も。でも王家の人間である君は魔力抵抗が強い。きっと、精神にまでは魔法の効果が及ばなかったんだろう。……そうなることは予想出来たはずなのに、重ねて精神を眠らせる魔法まではかけられなかった」


 ああそうだったと、レイチェルは思い出した。


 若者の言う通り、王家の人間は魔力に対する抵抗が強い。レイチェルもその例に漏れてはいなかったのだ。


 お陰で攻撃魔法は効きにくいのだが、同時に回復魔法も効きにくい。今回のように身を護るための魔法だとしても、そこに考えもしなかった副作用が生まれてしまうこともあるのだ。


《……ああ、なるほどね。そういうことならもう仕方ないわよ。それにあの時は本当に急だったもの。今はこうしてまた正気に戻っているし、もう良いの。それに、重ねて魔法を掛けられなかったってことは、結局あなたもあの後死んじゃったんでしょ?》


 あの場には敵国の騎士達の他にも数人の魔法使いがいたのだ。あの男は本当に優秀だったけれど、味方がすべて殺され、たった一人で複数の騎士と魔法使いを相手にしたらさすがにただではすまないだろう。


 レイチェルはあの男が死ぬところを見ていない。見ていないが、己がいまだ氷塊の中にいる以上、きっとそれが答えなのだろうとは思っていたのだ。


《それならしょうがないわ…………ってあれ?》


 だがそこでレイチェルは首をひねった。


 あの男がすでに死んでいるというのなら、目の前のこの若者は一体何なのか。


《……そうよ! あなた生きてるじゃない! 無事だったの⁉ んもう! 生きてたなら魔法掛け直してくれれば良かったのに~!》


「はあ? 僕が生きてたら掛け直しじゃなくてすぐに魔法解くに決まってるだろ? それにいくら僕だって力の強い魔法使いに一斉に攻撃されたらどうしようもないよ。君、僕が死ぬところ見なかったの?」


《見てないわ! だってあなたに氷漬けにされてから十年くらいは、私ほぼ眠ってたし!》


「眠ってた? でもさっき……ああ……だったら、多分その時はまだ身体が氷に慣れていなかったんじゃないかな?」


《じゃ、じゃあ……。あなたあの時、やっぱり死んだの?》


 あの男だけじゃない。レイチェルを逃がしてくれた護衛騎士も他の魔法使いたちも、皆あの場で死んだのだ。


 だが――、と。優秀な魔法使いだったあの男だけはもしかしたらという想いを、レイチェルはずっと抱いていたのだ。


 目の前の若者があの男本人だと分かった時は、やはりあの男はあれから生きながらえ、声と顔を変えて、これまで生き続けていたのかと思ったのだ。


 それを言えば若者からは「どんな化け物だよ」という答えが返って来た。


《だって……! 私だって氷漬けだけど生きてるじゃない!》


「氷漬けだから生きてられるんだよ。いくら魔法で身体をいじったとしても、普通の人間が五百年なんて生きられるわけないだろ。それに、可能だとしても別に顔も声も変えなくていいじゃないか」


《しゅ、周囲の目を誤魔化すため……?》


「……本当、馬鹿だねレイチェル。変わってなくて安心したよ」


《じゃあ……! 今のあなたは何なの⁉》


 あの男と同じ色彩と、同じ雰囲気を持つ若者。

 

 顔と声はまったく違うのに、レイチェルは目の前の若者があの男であることを、些かも疑ってはいない。


「ああ、所謂生まれ変わりってやつ? 魔法使いの中には前の生の記憶を持ったまま生まれてくる奴って結構いるんだよ。記憶を残す魔法式を魂に組み込むんだ。記憶が戻るまでには個人差があるけど、そうすれば身に着けた技を次の人生に引き継ぐことが出来るし、研究も続けられるからさ」


《生まれ変わり? でも……五百年よ⁉》


「それに関しては………ごめん。こんなに長くかかるとは思っていなかった。咄嗟にかけた魔法だったから、術が完璧じゃなかったか、あるいは本当に生まれ変わるまでに五百年かかったのか……」


《じゃ、僕の子孫って何? あなた当時結婚していたっけ? え? 子どもいたの?》


 レイチェルの記憶では、あの男はおそらく結婚はしていなかったはずだ。けれど子どもがいなかったかどうかは調べなければわからないことでもある。


「結婚はしてないし、子どももいない。直接の子孫じゃなくて、カルは当時の僕の弟の子孫だよ。でも双子だったんだから僕の子孫て言っても間違ってはいないだろ?」


 若者がカル、と呼んだ子どもが、レイチェルを見上げ小さく頭を下げた。


 言われてみればあの男の子孫にしては性格が素直すぎる。そして若者の直接の子孫じゃないという言葉に、レイチェルはほっとしていた。


 レイチェルを氷の中に放ったらかしにしたまま、あの男は結婚し子どもまで作っていたのかと思ったら、狂っていた時に口にしていた悍ましい言葉の数々がふいに思い出されてしまったのだ。

 

 それを思い出したのは一瞬のことだったけれど、あの時の、まるで闇の底に囚われていたような時のことは、もう二度と思い出したくなかった。


《……何でこの子も連れて来たの?》


「カルは僕の弟子だから。なかなかに魔法の才能があるから、君にかけた魔法を見せておこうと思ったんだ。何しろ、これだけの魔法は現在ではすでに失われてしまっているし、僕はもう二度と、この魔法を使うつもりもなかったからね」


 言いながら若者が僅かに表情を曇らせ、そして氷の中にいるレイチェルを見つめて来た。


「それに……知った顔があった方が、君も安心すると思ったから」


 確かに、カルがあの男に似ていることに気付いたおかげで、レイチェルは二人に対し警戒心など微塵も抱かなかった。


「……ねえ、レイチェル。僕はね。こうやってまた当時のままの君に会えるなんて、思ってなかったんだよ」


 思っていなかったということは、きっと彼は魔力抵抗による副作用のせいで、少なからずレイチェルの精神か肉体が変容している可能性を考えていたのだろう。


《……もし、ここから出た私が狂ったままならどうしてたのよ? あるいは、身体に異変が起きていたら? その可能性も考えていたんでしょ? ……このまま放っておこうとは思わなかったの?》


 もうレイチェルの国はない。


 今更亡国の姫を氷の中から助けたとしても、誰も幸せにはならない。


「思うわけない。たとえ君がどう変わっていようとも、構わなかった。僕には君をここへ閉じ込めた責任がある」


 若者が嵌めていた手袋を外しそっと氷塊に手を伸ばしてくるその様子を、レイチェルは氷の中から見つめていた。

 

 その両手は氷に阻まれレイチェルには届かないはずなのに――なのになぜか、レイチェルは若者の手の暖かさを感じた気がした。


《責任なんて……。あの時は仕方なかったのよ。それにもう、私を待っていてくれる人は誰もいないのに……》


 家族はすでにいない。国さえない。王女としてレイチェルを待っていてくれる民は、誰一人いない。

 

 誰もレイチェルのことを覚えていない。


 生きているのに、死んでいるみたいだ。何度そう思ったことか。


「随分な言葉だね。ここにずっと待っていた人間がいるっていうのに」


《……待っててくれたの? でもそれは義務感からでしょう?》


 自分が魔法をかけて氷漬けにした相手への、責任。そして、五百年放っておいてしまった悔恨の念が、彼をここへと導いたのだろう。


「義務? そんな言葉で片づけないで欲しいね。当時も言ったはずだよ。必ず君を助けに来るって」


 ――そう。あの男はレイチェルを氷漬けにする際に言ったのだ。


 必ず助けに来る。どれだけ時が経とうとも、必ず。


 そう言って、あの男は微笑んだ。


 普段、そんな顔で笑ったことなどないくせに。最後の最後で、今まで見たこともないくらい優しい笑顔を見せてくれた。

 

 だから――。


 だからレイチェルは、これまでずっと待っていた。


 百年経っても、二百年経っても、三百年経っても。そのあまりにも残酷な時の流れに絶望を感じながらも、それでも待っていたのだ。


《……ええ。そうね。言ってた……》


「こんなに時間がかかったのは想定外だったけどね……。本当に……待たせてごめん」


《……ううん。もう良いの》


「でも、今の僕の魔法使いとしての能力は当時となんら遜色ない。君が氷ごと砕け散ることはないから安心していい》


《……そ、そう》


「実を言うと、記憶は引き継げるけれど、魔法使いとしての才能は生まれ持った肉体とも関係してくるんだ。僕もカルと同じ、僕の弟の血を引いている。だから魔法に対する適正が高かったんだ。そればかりは本当、助かったよ」


《……似てないわね?》


「五百年の間に多くの血が混じったからね。でも、色は同じだろ?」


《ええ……そうね》


 いつもはおしゃべりなレイチェルも、若者の言葉に短い答えしか返せないでいた。それが精一杯だった。少しでも気を緩めたら、そのまま泣き出してしまいそうだったからだ。


「……レイチェル」


《……何?》


「準備が出来たから、そろそろ身体に戻って」


《……》


 準備が出来たと若者が言った通り、気付けばレイチェルを包む氷塊全体が、淡く銀色に輝いている。

 

 レイチェルはもう一度だけ若者を見つめ、それからゆっくりと精神を集中させはじめた。


 今のレイチェルは精神体――あるいは魂の状態だ。身体に重なってはいるが、完全に身体に閉じ込められているわけではない。わずかなズレがあるのだ。レイチェルがそのわずかズレを慎重に合わせていくと、ある地点で精神と肉体、その二つがピタリと重なり合った。


 そしてそのまま、いつものように冷たく動かぬ身体の中に、囚われる。


 レイチェルが完全に身体に戻った直後、レイチェルを包む氷が、溶け始めた。


 今や己の一部とも言えるほどに馴染んだ氷が、溶けていく。その感覚がレイチェルには手に取るように分かった。


「……ゆっくり。ゆっくりだ。身体を驚かせないように」


 自らに言い聞かせるような若者の声が、レイチェルの耳に届いた。


「……レイチェル。氷がすべて溶けても、急には動かないで」


 頷きたくとも、頷けなかった。


 声を発することも出来ない。指一本動かすことも出来ない。眼を開けることすら出来なかった。


 だが確実に、レイチェルは己の身体が氷塊から解放されていくのを感じていた。


 この五百年、正気の時も、狂っていた時も、ずっと感じていた冷たさが無くなり、代わりに与えられたのは温もりだった。

 

 何か温かなものが、レイチェルの身体全体を包んでいる。それは服を越え、肌に染み入り、レイチェルの身体の芯まで到達し、凍えていた身体を徐々に溶かし始めた。


「レイチェル……」


 若者の声が耳のすぐ近くで聞こえた。頬には温かな何かが触れている。先ほどの温もりよりも、更に熱い何か。それが人の肌だとわかるまで、随分と時間がかかった。


 それは久しく忘れていた温もりだった。


 顔、首、鎖骨を伝い、手首、掌、指の先に至るまで絶え間なく与えられるその熱に、レイチェルは恍惚とした。


「レイチェル、聞こえる?」


 もう一度レイチェルを呼ぶ声が聞こえた。その声に応えようと、レイチェルは唇を動かした。


「……、こえる、わ」


 少し掠れていたけれど、五百年ぶりに聞く己の声だった。

 

 これまでずっと一人で喋っていたというのに、その時とはまったく別の声に聞こえた。


「レイチェル……目を開けて」


 言われるがまま、レイチェルは瞼を震わせる。その拍子に、睫毛についていた水が眼の中に入り込み、視界が歪んだ。


「ああ……相変わらず、綺麗な瞳だ」


 レイチェルを見つめる若者の顔が、あの男の顔と重なった。それは視界が歪んでいるせいだと分かっていたが、それでも懐かしいその顔を見られたことが、何よりも嬉しかった。


「……ヴォルフラム」

「ああ……そうだよ、レイチェル」


 レイチェルに応える声は、甘く、柔らかい。こんな甘やかな声を、あの男から聞いたことは終ぞなかった。


「今の名前……なんて言うの?」

「……後で教える。今はヴォルフラムでいい」


 そう言って若者――ヴォルフラムがレイチェルに向かって微笑んだかと思えば、レイチェルの顔中に口付けを落とし始めた。

 

 驚いたのはレイチェルだ。まだ強張っている腕を無理やり動かし、ヴォルフラムの胸を押しのけようと力を籠める。だが相手はびくともしなかった。


「ちょ、ちょ、ちょっと、ヴォルフ!」

「温めてる」

「確かにあったかいけど……! さすがにこれは……」


 いくらヴォルフラムの生まれ変わりとはいえ、レイチェルとこの若者はつい先ほど会ったばかりだ。ヴォルフラムとだって、こんな肌を許すような関係ではなかった。そもそもが王女と仕える魔法使いだ。


 そしてレイチェルの中では、ヴォルフラムには意地悪を言われた記憶しかない。


「さっきまでずっとしてたけど?」


 ヴォルフラムのその言葉にレイチェルは驚いた。そしてさきほど肌に感じていたあの熱が手ではなく唇だったのだと気付き、途端に羞恥が湧き上がって来た。しかもこの場にはカルもいるのだ。子どもの教育に大変よろしくない。


「何……何を勝手に!」

「抵抗されなかったし。唇にするのは我慢したんだからいいだろ?」

「我慢って……当たり前でしょ! それに抵抗しなかったのは、目をつぶっててわからなかったからよ!」


 レイチェルが更に抵抗すれば、ようやくヴォルフラムはレイチェルからわずかに身体を離してくれた。だが腰に回している手はそのままだ。


「ヴォルフ……!」

「レイチェル。このまま僕が手を離せば君はきっと倒れるよ? 何しろずっと氷漬けにされていたんだからね」

「ぐ……!」


 レイチェルが言葉に詰まっていると、ヴォルフラムがレイチェルの瞳を覗き込んできた。そのあまりにも真剣な表情に、レイチェルは虚を突かれた。


「ヴォルフ……?」


「レイチェル。……とりあえず、このまま僕の家に行って休もう。まだ外界に身体が慣れていないから、数日は大人しくしていないと駄目だ。休んで、食事をして、それから――王家の墓に行こう」


 思いもかけなかったヴォルフラムの言葉に、レイチェルは息を止めた。

 それからゆっくりと、殊更に意識して言葉を紡ぎ出す。


「王家の……墓。あ、あるの?」


 聞き返す声が、知らず震えていた。


 フロイデン王国は、侵略され、滅ぼされた国だ。

 

 王家の墓など、残っているとは思わなかったのだ。


「あるよ。随分と昔に、彼の国に心ある王が生まれたらしくてね。侵略した国とはいえ、長年民を率いて来た王家には敬意を払うべきだと言ったそうだ。だから……すでに骨はないけれど、墓には遺品が入っている。……レイチェル。大丈夫。もう五百年もの時が過ぎているんだ。陛下も、殿下たちも、今はもう、きっと安らかに眠っている」


 レイチェルの頬を、熱い涙が伝った。


 それは五百年ぶりの涙だった。


 氷に閉ざされてから、そして氷が溶けてから、初めて流した涙。その涙をヴォルフラムが指で掬い取っていく。それでも、涙は幾筋も幾筋も、レイチェルの頬を流れて来た。


 埒が明かないとでも思ったのか、ヴォルフラムがレイチェルの顔を己の胸に抱き込んだ。自然、レイチェルの涙はヴォルフラムの服へと染みこんでいく。


「君がこうして、ここにいる。それが、あの方たちにとっての何よりの餞だよ」

「……うん。そうね。そうよね。王家の血は繋がったわ。ヴォルフが繋いでくれたわ」


「やっぱ馬鹿だね、レイチェルは……」


 呆れたように嘆息するヴォルフラムに、レイチェルの頭に瞬時に血が上った。


「何よ……! また馬鹿って言った! いつも馬鹿って言う!」


 だいぶ八つ当たりをしている自覚はあったが、五百年放っておかれた分の恨みも籠っているのだ。むしろレイチェルとしてはこれくらいで済んで感謝して欲しいくらいだと思っていた。


「馬鹿は馬鹿。僕が王家の血を繋ぐために君を氷漬けにしたとでも思っているの?」

「……違うの? でも、でも皆そう言っていたわ」


 少なくとも、ほかの護衛や魔法使いたちはそう言っていた。


 王家の血を、どうぞ繋いでくださいと。

 

 どうか生きてください、と。


「君を失いたくなかったからだよ。王家のためにと言えば、君はきっとどれほど辛くても生きることを選ぶ。それに、あの方たちだって、君が王家の血を繋いだことを喜ぶんじゃないよ。君という大切な家族が生き延びたから、だから喜ぶんだろ? あの時、あの場にいた全員、そうだったよ。どうにか君を逃がしたくて、それでももう駄目だってなった時……僕の我儘で君を氷に閉じ込めた」


「ヴォルフの、我儘?」


「家族全員殺された失意の中、生き延びても敵国の捕虜になることは免れない。君のことを考えれば、きっと敵に見つかる前に死なせてあげるべきだったんだ。それでも、僕たちは君に生きて欲しかった。その甘さが間違いだった。もし……あの時、あの場で君が死んだら、首を落とされ、身体は穢され、死体を晒しものにされていた。そんなことを許せるはずがない。だから、誰にも穢されないように、君を氷に閉じ込めたんだ」


 おそらく、ヴォルフラムの言う通りだろう。噂では首を落とされたとだけ言われていたが、母と姉は、きっと先ほどヴォルフラムが言った通りに、死んでいった。


 当時の敗戦国の王族の末路など、皆似たようなもの。ヴォルフラムが氷に閉じ込めてくれなかったら、レイチェルだって、そうやって死んでいくしかしかなかったはずだ。


「あの時、あの方法以外で確実に君を穢されずに助ける手立てはなかった。あの氷は、叩いても砕けない。魔法を使っても、僕以上に力のある魔法使いでなければ、君ごと砕けて散るだけだ。敵国の魔法使いたちは優秀だったけど、個人の力は僕の方が強かったから……。だから、すぐに生まれ変わって君の元へ来るはずだった。なのに……結局君は五百年もの永い間、あの冷たい氷に閉じ込められることになってしまった。しかも意識を保ったまま……」


「ヴォルフ……」


「ごめん。本当にごめん、レイチェル。何をしたって償えやしない……!」


 レイチェルを抱きしめるヴォルフラムの身体が震えていた。その腕は、縋りつくようにレイチェルを抱きしめている。頭をレイチェルの細い肩に乗せ、まるで許しを請う罪人のように、額を押し付けている。


「……まさか泣いているの? ヴォルフ」


 ヴォルフラムからの返事はない。けれど細かく震え続ける身体が、レイチェルに答えを教えてくれた。


「……馬鹿ね、ヴォルフラム。あなたが謝ることなんて、何一つないのよ。私は今、ここにいるわ。父のことも母のことも、兄のことも姉のことも、城のみんなのことも、最後まで一緒にいてくれたあなたたちのことも、みんな覚えてる。お墓参りにだって行けるの。……すべてあなたのおかげよ」


 それは嘘偽りのない、レイチェルの本心だった。


 なすがままレイチェルに背中をさすられ続けていたヴォルフラムだったが、しばらくするとぽつりと言葉を落とした。


「馬鹿って、初めて言われた……」


 ヴォルフラムの言葉に、レイチェルは笑った。


 この男はいつだって優秀で、冷静で、余裕があって、馬鹿と言われていたのは、いつもレイチェルの方だったから。


「これからいっぱい言ってあげるわ」


 きっと尊大なこの男を叱れるのは自分だけ。ヴォルフラムが負い目があると勝手に思っている、レイチェルだけだろうから。


「……そうだね、レイチェル。これからずっと、傍で言い続けてくれ。もう二度と、君を一人にはしないから……」


 いつの間にか、ヴォルフラムの紫の瞳があり得ない程に近くでレイチェルを見つめていた。そしてどんどんと近づいて、最後にはぼやけて見えなくなってしまった。


 ヴォルフラムからの熱を唇に受けても、レイチェルはもう抵抗しなかった。


 自分がヴォルフラムに対し感じている、感謝と愛しさを伝えたいと、そう思ったからだ。  





「―――あ、あ、あの!」



 どこか上ずったような声にレイチェルが我に返れば、同じように我に返ったらしいヴォルフラムが驚いたような表情でレイチェルを見返していた。

 それから二人で声のした方を見やれば、そこには何だか気の毒なほどに顔を真っ赤にしたカルが立っていた。


「……っそろそろ、家に帰りませんか? ……日が暮れそうです」


 困ったように眉を垂れへにゃりと笑ったカルのその顔に、思いがけずかつてのヴォルフラムの姿が重なって見え、レイチェルは驚かされた。


 ヴォルフラムはこんな表情をしない。

 

 少なくとも、レイチェルは見たことがない。


 けれど、あのまま生きていればいつかはそんな表情も見れたのだろうかと、レイチェルはかつての記憶の中のヴォルフラムに思いを馳せた。 


「……ああ、そうだな。帰ろう」

「ヴォルフ……」


 僅かな不安を感じてレイチェルがヴォルフラムを見上げれば、レイチェルが望んでいた通りの言葉が微笑みとともに返って来た。


「君もだよ、レイチェル。一緒に帰ろう……僕たちの家に」

 

 ヴォルフラムのその言葉を聞いたレイチェルの胸に、例えようもない喜びが広がった。


「……ええ!」


 自分にもまだ帰る場所がある。


 そう思えることがどれほどレイチェルの心を満たしてくれるのか、きっとヴォルフラムにはわかっているのだろう。


 ――だから、彼は「僕たちの家」と言ってくれたのだ。


「レイチェル」


 差し出されたヴォルフラムの手を、レイチェルは握りしめた。


 尊大で、意地悪で、いつもレイチェルを馬鹿にするけれど。それでも、どんなときでもレイチェルを護ってくれていたのもまた、ヴォルフラムだったのだ。



 レイチェルの涙で霞む視界の中で、ヴォルフラムが優しく微笑んでいる。

 

 それはこの五百年ずっと、レイチェルが待ち続けた光景だった――。








 ――氷の中で待ち続けて幾星霜。


 レイチェルの元に、ようやく待ち人はやってきた。

 姿は変わってしまったけれど、その人は約束を守ってくれた。



『必ず助けに来る。どれだけ時が経とうとも、必ず』



 その言葉の通り、ヴォルフラムはレイチェルを助けに来てくれた。

 

 冷たい氷を溶かし、レイチェルに新たな人生を与えてくれたのだ。



 かつて氷花姫の異名を取ったフロイデン王国第二王女、レイチェル・ブリューエル・フロイデンは、今や己の人生に――希望しか感じていなかった。


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