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透明なぼくらは、雨の日に色づく

作者: 霖しのぐ

 ぼくは、とある山奥にある施設の真っ白い部屋でひとり、ある病と向き合って生きている。先日十七歳になったばかりだけど、もう人生の半分をこの部屋で過ごしている。


 朝の支度のため、ぼく専属の世話係――ここでは補助員と呼ばれる――がやってきて、丁寧な挨拶の後に分厚いカーテンを引いてくれる。残されたレースカーテン越しでも、外はよく晴れていることがわかり、ぽかぽかと暖かそうだ。


 桜の季節もそろそろ終わりといったところかな、とは思ったけれど、だからといって感傷には浸るわけでもない。もう何年も見ていないし、別に楽しい思い出や特別な思い入れがあるわけでもないからだ。


 起きあがろうとしたけれど、背中がきしむような感覚の後、不覚にもマットに沈んでしまった。空の晴れやかさとは裏腹にぼくの方はすこぶる調子が悪かった。手足が鉛のように冷たく、そして重い。


 着替えを用意してくれていた補助員に起きられそうにないことを伝えた。着替えは夕方の入浴の時間にすることにして、顔を拭いてもらい、朝食は栄養剤に切り替えてもらう。


 お世辞にもおいしいとはいえない液体を、手伝ってもらいながら無理やり飲み下したところで、今度は医師がやってくる。朝の体調観察の時間だ。


 今日も視診や触診であちこちを確かめられる。会話はなく、一方的。ひと通りチェックすると、病状は緩やかに進行していて、問題はない。それだけ言うと医師は部屋を出ていく。


 手がうまく動かないぼくの代わりに、補助員がシャツのボタンを止めてくれる。いい歳をして情けないけれど、仕方がない。これからもっともっと不自由なことが増えていくだろう。


「また何かありましたらお呼びください」


「わかりました。ありがとうございます」


 朝の仕事を終えた補助員が一礼をして、部屋から出ていくとぼくはひとりになる。とはいえ、寂しさは特に感じなくて、しんとした静けさが心地いい。


 今から昼食までは自由時間だけど、天気がいいせいか頭がぼんやりする。無理をせず眠ることに決め、布団を被り目を閉じた。


 一日三食と三時の補完食。朝と夕方の体調観察、入浴。たまに部屋から出て精密検査を受ける時以外は、全て自由な時間だ。


 体調が悪ければひたすら眠るしかないけれど、良ければ部屋の中をなんとなく動いてみるか、支給された本を読む。ディスプレイを設置してもらえばテレビを見ることもできるらしいけど、僕は静かな方が好きだから特に希望しなかった。


 だから部屋にはベッドと洗面台、トイレ、小さな机と椅子、本を数十冊も収めればいっぱいになってしまうほどの小さな本棚しかない。


 本は希望すれば何冊でも届けてもらえるけど、さすがに読みきれないので、週に三、四冊。読み切れるかどうかは体調しだいだ。それよりも最近はページがめくりにくくなってきたので、どうしたものかと考えながら目を閉じる。


 これが僕が生きる世界のほぼ全てだ。


 ぼくは音のない白い部屋でひとり、淡々と代わり映えない日々を過ごす。命の火が消える日まで、細々と生かされる。


 思えば生まれてからずっと、こうやって周りに与えられるがまま、言われるがまま、抜け殻のように過ごしていた。


 そんな名もなき人間の人生は、きっと最期まで空っぽに違いなかった。


 ◆


 今から半世紀ほど前の話だ。とある国の少年が原因不明の病に侵され、十代半ばでその生涯を閉じた。


 それを発端とし、驚異的な速度で全世界に広まったその病。感染性はなく、発病するのは決まって七歳前後の子供。その後十年前後の時をかけ、身体の自由を少しずつ奪いながら緩やかに進行、やがて死に至らしめる。


 それからというもの、決して少なくない数の少年少女たちが病魔に捕まったという。人種や階級も関係なかった。貧民街に暮らす子も、ある国の第一王子も、同じように病に倒れ、命を奪われた。


 遺伝子の突然変異、未知の病原体、あるいは大昔に起こった発電所の事故の影響、工業廃水による飲み水の汚染……仮説は色々と立てられたようだけど、現在に至るまで原因はよくわかっていない。


 しかし、絶望的だった状況がある日突然大きく変わった。


 病が最初に発生してから十数年の時が経ったころ、とある国の天才科学者が有効な特効薬を開発したのだ。薬はすぐに量産体制に入り、病が広がった時よりも早いスピードで全世界に行き渡った。その翌年には、この病で死ぬ子供はほとんどいなくなった。


 今となっても、患者は発生し続けている。しかし、『子供がたまにかかる軽い病』と認識されているのみだ。もう誰も恐れたりはしない。


――神からの贈り物だと、喜ぶ人はいるけれど。


 ぼくは目を閉じた。その日は、そのまま目覚めることはできなかった。



 ある日、目を覚ますと、しとしとと雨が降っていた。


 なぜか、雨の日は体調がいい。これまた原因は不明らしいが、みんな決まってそうなのだという。湿度とか、気圧とか。そのあたりが関係した話なのではないかと思う。


 今日も朝の日課を終え、部屋にひとりになる。ベッドの上で身体を動かしてみると、久々に足もうまく動かせた。この調子なら、車椅子に乗らずとも自分の足で歩けそうだけど、わざわざ部屋の外には出ることはない。


 部屋の外に出るのを禁止されているわけでもないし、他にも同じような人間がここには何人か収容されている。


 でも、()()()までを眠ったままで過ごす人間がほとんどで、ぼくみたいに歩き回っている人間はいない。部屋の外に出てもひとりなのだから、あまり意味のあることだとも思えない。


 本棚を眺める。前に与えられた本は、全て読み尽くしてしまっていた。読み返したいものも特にない。たぶん今日の午後には次が入ってくるけども、それまでの暇つぶしに悩んだ。


 壁も床も天井も真っ白でシミのひとつもないこの部屋は、妄想や想像のきっかけなどあったものではない。ため息ひとつつき、ベッドに再び横たわると目を閉じた。


 仕方がないので、雨の音に耳を傾けることにする。今日はしとしとと、柔らかい雨が降っている。他に音らしい音がほとんど聞こえないこの施設では、雨の音や風の音がよく通る。


 音楽は嫌いだけど、自然が奏でる音は好きだ。


 雨粒が奏でる規則的なノイズは心地良く、目覚めたばかりなのに眠りに誘われる。抗うことに意味はないから、そのまま眠ってしまおうと思った時だった。


 突然、雨音のリズムにメロディが乗る。澄んでいて、伸びやかな声だった。同じくらいの歳の女の子の歌声だと気づき、 驚きで、目と耳を大きく開いた。


 きっと新しく入った子だろうけど、よりによってこんな場所で、気持ちよさそうに歌うなんて相当変わっている。


 綺麗な声に誘われるようにベッドから降り、四方の壁に順に耳を押し当てていく。思った通り、声の主は隣室にいるようだ。


 自分でも笑ってしまうけれど、それからはずっと『彼女』のことが気になって仕方なかった。どんな子なのかを想像するのが楽しくなった。


 声が綺麗だから、顔もきっと可愛いはず。白くて細い四肢を想像すると、どうしたことか生唾が込み上げてくる。欲情しているのだと気がついて、自分が情けなくなった。


 そんなわけだから、隣にいるのは誰ですか、会ってみたいですなんて、恥ずかしくて補助員には言えなかった。だけどどうしてもどうしても気になって、体調がすぐれずに起きられない日も、耳だけはしっかりと澄ませていた。


 雨の日だけではなく、晴れの日も、細く柔らかい歌が心地よく響いてきた。ひとつとして知っている曲はなかったけれど、それでもぼくの心をしっかりと掴んで離さなかった。


 次の雨の日、ぼくは今日もコンサートの開演を心待ちにしていた。


 間もなくして開演したけれど、今日は歌声が違うところから聞こえてくることに気がついて、ドアをじっと見つめた。これを隔てた先は廊下、その突き当たりには長椅子が一つ置いてある。彼女はそこにいるに違いない。


 試しに足を動かしてみると、とりあえず自分で歩けそうだ。ベッドから降り、いそいそと鏡に向かうと髪を整えなおした。


 久々に補助員以外の人に会うから、念には念を入れる。こんなに心が弾んだのは生まれて初めてだった。


 思ったよりも足が重かったことにいらいらしながら、部屋のドアを開いた。定期検査以外で部屋の外に出るのはいつぶりだろうか、などと思いながら。


 廊下の窓の向こうでは、紫陽花がぽつぽつと咲き始めていた。そういえば、そろそろ梅雨入りの時期だ。そのまま顔を横に向けると案の定、長椅子に腰掛けて歌を歌っている女の子が一人。いよいよ会えることに胸を膨らませながら、ゆっくりと近づいていく。


 唐突に歌が止まった。


 ぼくの存在に気づき固まってしまった彼女は、綺麗な歌声から想像していた容姿とは全然違った。不健康に痩せた体。よく見ると長い髪は全体的に傷んでいて、肌もカサカサだ。おまけにぽかんと開いたままの口から見える前歯はなぜか大きく欠けている。


 正直ガッカリした。それはもうものすごく、ガッカリした。ぼくが勝手に想像を膨らませていただけで、彼女からしたら大変失礼な話だとはわかっているけど。


「ご、ごめんなさい。うるさかったです……よね」


「いや、そうじゃなくて。歌、上手ですね」


 堂々とした歌に反し、明らかに気の弱そうな声にたじろいでしまったけど、すかさず気を取りなおす。


 彼女の容姿のことはともかくとして、その歌声に心惹かれていたのは事実だったから。目を見開いたままの彼女はびくりと肩を揺らし口を覆い、上目でぼくを見る。


「あ、ありがとう」


 うん。やっぱり、全然可愛くない。だけど不思議なことに、少し朱の差した顔に胸の奥をくすぐられた気がした。


 こんな暮らしをしていても、別に異性に興味がないわけではない。そうでなくても起きている人間は珍しいから、少し話をしてみようと思った。


 隣にゆっくり腰をおろすと、彼女は分かりやすく身を震わせる。怯えられているのかもしれない。


 重すぎる沈黙が落ちる。これからどうしようかと考えるぼくの隣で、彼女はじっと窓の外を見ている。一面に広がる紫陽花の花が、雨に打たれているのが見える。


「ここは紫陽花が綺麗だね」


「うん、たくさん植えてあるんだよね。ここは紫陽花、あっちは桜とか紅葉。外に出て見られるわけじゃないけど」


 廊下にはあちこち椅子が置かれ、窓越しに花を楽しめるようになっている。ぼくらへの供物のつもりなのかな、という言葉は飲み込んだ。


 これをきっかけにぽつぽつと会話が繋がり始める。彼女が歌っていたのは近頃の流行りの歌らしい。どおりで聞き覚えがないわけだと言うと、彼女は目を丸くする。


「え、ひとつも知らなかったの? どれも有名だと思うけど」


「ここに来て結構経つんだ。それに、来る前は勉強と……まあ、習い事漬けで、テレビとかネットとか全然で」


「そっか、大事にされてたんだね」


 何気ない一言だったんだろうけど、ぼくの心のかさぶたを剥がして傷口をえぐった。噴き上がった感情を抑えることができなくて、つい語気が強くなってしまう。


「……いや、だったらここには来てないだろ。親に全部決められて自由も何もなくて、それも思うようにいかなかったから捨てられた。命のない着せ替え人形と同じだ」


 皮肉なことに、ぼくはここに来てやっと自由を手に入れたと思っている。理想の子供が欲しかっただけの両親に散々振り回されて、最後には次の子を作ってやり直すから、お前はもういらないとここに連れてこられたのだ。


 とはいえ、ここにきた当時には両親ともに四十をゆうに過ぎていたのに、そう簡単に次の子を授かれるのかという気もする。だいいち、ぼくはずっと一人っ子だった。あえて作らなかったのか、できなかったのかは知らないが。


 ぼくのことを()()()()()()()だとか言ってたな。


 ぼくを手放して、きっと今は至上の喜びの中にいるんだろうけど、我が子の命と引き換えの幸せが長く続くなんて思えない。地獄に堕ちてしまえばいい。


 ぼんやり生かされるだけの真っ白な暮らしの中でも、両親への怨嗟は心の底で赤く燻っていて、眠る前には必ず二人の不幸を願った。人を呪わば穴二つとはいうけれど、これまでの仕打ちを思えばこのくらいは許してほしいと思う。


「っ、ごめんなさい……」


「……ごめん。言い方がきつかった。いいよ。お互い様だから」


 彼女の泣きそうな声で我に返った。お互い様だなんて言ったからだろう。彼女もこわごわといった様子で身の上を話し始めた。


 彼女は六人きょうだいの一番上だという。父親がろくでなしで、彼女の欠けた歯も父親の暴力によるものらしい。


 隙を見て母親ときょうだい共に逃げたけれど、病弱な母の女手ひとつでとなると色々と無理があったと言う。きっと歯を治せなかったのも、薬を買えなかったのもそのせいなのだろう。


「本当はね、病気を治して歌手になりたかったんだ。いっぱい歌ってお金を稼いで、それで親孝行したいとか、そんなこと考えてた」


 これだけ言うと、彼女の瞳が暗くなる。


「でも結局、ここに連れてこられたってわけか」


「ううん。去年くらいかな、やっと薬は買ってもらえたけど、ここの話を知ってたから一度も飲まなかったの。みんなのためにはこっちの方が確実だって思って、決意した。弟や妹たちには夢を叶えてほしいし、苦労ばっかりしたお母さんが、これからは幸せに生きてくれたらって」


 彼女は笑っているが、ぼくは衝撃で何も言えないどころか、息をすることすらも忘れそうになった。まさか自分の意思でここに来たなんて。それも家族の幸せを祈るがゆえに、自分の命を捧げようなんて。


「……優しいんだ」


 ようやくそれだけを絞り出したけれど、そんな言葉では片付かないほどの大きくて深い愛を感じていた。涙がこぼれ落ちる。涙腺がまだ生きていたことに驚いた。病のせいでとっくに枯れてしまったものだと思っていたのに。


「ありがとう……君も優しいね。割り切ってたつもりでも、死ぬのを待つだけって辛くって。眠らせてもらえるならそうしてもらおうかなと思ってたんだけど、やめてよかった。これからよろしくね」


「うん、こっちこそ、よろしく」


 薄い色の花が咲いたような、優しげな笑顔がとても美しく見えて、どきりとした。彼女の歌声も、この笑顔も。ぼくの胸の奥深く、柔らかい部分に確かに触れていた。


 この時、ぼくと彼女のすっかり薄くなった運命が重なった。





 それからは、雨が降るたびに廊下の長椅子に並んで座り、日が暮れるまで、もしくはどちらかが疲れるまで一緒に過ごした。ちょうど梅雨入りをしたので毎日のように空はぐずついていたけど、ぼくらにとっては好都合だった。


「おはよう。今日もいい天気だね」


「ほんと、いい天気だ」


 すっかりお決まりになった挨拶を交わす。今日も早朝から土砂降りの雨だった。


 今日の彼女は長い髪を綺麗に編み込んで、きらきらとした髪飾りをつけているのに目が釘付けになった。いつもはうしろでひとつに束ねているか、流したままかのどちらかなのに。


 もうかなり手先が動きにくいだろうに、いったいどうやったんだろう。髪飾りに目をとめたままのぼくに、彼女が笑顔で言う。


「髪ね、お願いして編んでもらったんだ」


「ああ、なるほどね、よく似合ってる。可愛いよ」


 ぼくが言うと、彼女はいつものように頬を染めてうつむく。何かを言えばいちいち赤くなるものだから、最初は面白半分だったけど。会うたびに褒められそうなところを探すうち、いつのまにか心からの言葉に変わっていた。


 あるときから爪先を彩り、またあるときからは薄い化粧を施して。男のぼくには必要がなかったから知らなかったけど、補助員に頼めばこういうこともやってもらえるらしい。こちらは、たまに散髪や爪切りをお願いするくらいか。


 ぼくは手のひらをゆっくり開き、飾り気なんかあるはずもない自分の爪を見る。そろそろ切らないといけないと感じる長さだけど、もし塗るとしたらこのくらいがいいのかな。


「ぼくも塗ってって頼んでみようかな……いや、変か」


「ううん、最近は男の子でもメイクやネイルするの流行ってるよ。君はかっこいいから、映えるかもね」


「そ、そんなものかな……」


 不覚にも、今度はぼくが熱くなった。なにせ、女の子から『かっこいい』なんて言われたのは初めての経験だったから。嬉しいと思っている自分が恥ずかしくて、ひたすら目を泳がせるしかない。


 彼女はおかしくなってしまったぼくを見てコロコロと笑い、ぼくも釣られて笑う。


 ひとしきりお喋りをした後、彼女が歌い、ぼくも一緒に歌う。楽しい歌もあったけど、世の中の理不尽を歌う歌、または悲しい恋の歌。どれもこれも今の自分に重なる。彼女の歌う歌は、全て完璧に覚えている。


 それに飽きたら外にいた頃の話に花を咲かせる。とはいえ、ぼくには外での楽しい思い出なんかひとつもないから、彼女の話に耳を傾けるだけだった。代わりにぼくも今までに読んだ本の話をする。彼女は難しいことはわからないなあ、と言いながらも一生懸命に耳を傾けてくれた。


 そんなたわいもない時間を過ごす間、窓の向こうでは紫陽花が花盛りを迎えていた。でも、目の前の彼女の笑顔はそれよりもずっとずっと鮮やかに見えた。


 ◆


 久々に雨が降った。身支度をしてもらった後、補助員さんにお願いして、いつもの長椅子のところに連れて行ってもらった。少し待っていると、彼女が隣に座らされたことに気がつく。


 いつもの挨拶を交わしたけど、今日の彼女は少し様子が違うようだった。理由はなんとなくわかっている。ぼくと彼女は同じ運命を背負っているからだ。


 しばらく黙って雨の音を聞く。何かを言わなければと思ったけれど、先に口を開いたのは彼女だった。


「最後に君に会えてよかった。歌を褒めてもらえて、可愛いっていっぱい言ってもらえたこと、お世辞だってわかっててもすごく嬉しかった」


「……本心だよ。君は可愛い」


 手を伸ばし、探り当てた頬はあたたかい涙で濡れていた。親指で唇をなぞると、細く漏れる息がかすかに震えている。


「君のことが好き」


「ぼくもだ」


 たまらずに彼女の唇を塞ぐ。初めての経験だった。甘酸っぱいとはよく言うけれど、あきらかに涙の味。そのまま舌を入れると柔らかく受け入れられて気持ちがどんどん昂る。欠けた前歯に舌が引っかかるたび、彼女と確かにつながっているという喜びが駆け上がってきた。


 甘いうめきとともに、回された腕に力を込められる。ぼくも力を込めると、服越しでも鼓動が重なっていくのがわかった。胸の熱さに溶けて崩れそうになりながら、舌を、指を絡ませて。


 きっと周りで大人たちが見てるけど、そんなことに構いはしなかった。お互いの目はかすかに光を感じるだけの器官になってしまっているから、触れるもの、聞こえるものがすべて。ぼくの世界にはもう彼女しかいない。


 ずっとずっとこうしていたい。このまま、ひとつになってしまいたい。そう思った時、背中を小さく叩かれ、はっと我に返った。同時に身体を強く押し返される。


「ちょっと、やめて」


「ごめん! 無理やりこんな、どうかしてた」


「違うの。嫌じゃない。ちょっと休ませてほしいだけ」


「あ、う、うん。わかった」


 耳を澄ませると、彼女の息が荒くなっていた。急に恥ずかしくなり、顔を背ける。お互いに見えていないのにという感じだけど、今までの癖はそう簡単には抜けない。


 それにしてもぼくは。一度冷静になってしまうと耳まで熱くなったけど、息が整ったらしい彼女にそっと抱きつかれたので、そのまま額を合わせて笑い合った。


 できることならこのまま部屋に連れ込んで、これ以上のことをしたかった。もっともっと深いところで繋がりたかった。でも、お互いに立ち上がることさえままならないから、諦めるしかなかったけど。


 似たようなことを考えていたのか、「これでも十分に幸せだよ」とつぶやいて彼女が笑ったから、ぼくも幸せだった。


 その後も会うたびに何度も唇を重ねて、抱きしめあった。ぼくたちには、きっとこれから来る夏は越えられない。だから残された時間は、少しでも長く繋がっていたかった。


 ◆


 例の病気の特効薬の開発から数年遅れて、件の天才科学者から一つの事実が公表された。


 この病で死んだ人間の身体をある特殊な方法で加工すると、様々な病を癒やし、飲み続けることで不老不死になれる秘薬が作れるということ。薬の開発過程で発見されたことらしいけれど、この発表に世界は大いに揺れた。


 今はそれから四半世紀ほどが経っている。今も表舞台に時々姿を見せる科学者は、最初に世に出てきた日から全く姿を変えていない。秘薬の効果が本当なのは明らかだった。


 薬の値段は、金の何十倍もする。一回分で立派な家が建つとも言われる。それでも大金持ちたちがこぞって秘薬を求め、需要に供給が追いついていない。


 理由は簡単。病気の特効薬は簡単に手に入り、値段もべらぼうに高いというわけでもない。それを一ヶ月間きちんと服用すれば、病は完治し確実に助かる。


 ただ、特効薬を一度でも飲んでしまった子供は、もう秘薬の材料にはなり得ない。


 そう、お金と命を天秤にかけられて、薬を飲ませてもらえなかった可哀想な子供がその秘薬の材料なのだ。


 ()()()()()にはとんでもない値段がつく。具体的には、多くの患者が寿命を迎える十七歳の平均体重と同じ重さの金……今はその倍近い価値になってしまっているらしい。


 だからぼくの両親も、ぼくの身柄と引き換えに莫大なお金を手にした。そして彼女の母親もまた。


「今頃は、名前も変えて知らないところで暮らしてるんだよね。望んだこととはいえ、繋がりがなくなったみたいでちょっと寂しい」


 当然だ。子供を秘薬の材料に差し出し、途方もない大金を手にしたことが世間明らかになってしまえば、二度と陽の下は歩けない。命を狙われる恐れもある。保護プログラムの類もあるらしいけど、平穏に暮らすためには今までの生活は一度全て捨てる必要がある。


 ぼくたちだって何もかも奪われてしまうんだ、そのくらい当然だろうと思ったけれど、彼女はそうは考えていないようだ。ただただ寂しいと悲しそうな顔で笑った。そういう子だから、好きなんだけれど。


 適切な治療を受ければ確実に助かるはずの少年少女の命と引き換えに作る薬。倫理も何もあったものじゃないから表向きは禁ずる国も多いなか、ここは世界でも類を見ない国立の製造プラント。


 山奥にひっそりと佇み、可哀想な子供達を買い取って大切に囲い、見送って。今日も秘薬を作り続けている。明らかに後ろめたいものなのに、なぜか誰からもどこからも非難されない。その理由は推して知るべし、だ。


 子供たちはここにきた時点で戸籍からも完全に抹消され、透明な存在に変わる。名前を失って、必要がある時は番号で呼ばれる。最初からそんな子はいなかったのだから、どうしようが別段問題はないという屁理屈だ。


 死因は必ず病死でなければならないので、自死を防ぐために全てを管理され、事実を受け入れられないものは直ちに鎮静される。


 ぼくは選ばずに済んだけれど、この施設の居住棟が普段は水を打ったように静かだったのは、ここにいるほとんどの人間は眠ったままで過ごしているから。


 生きた証も、未来も、名前さえも。何もかもを奪われても平静でいられる人間なんて、そうそういないのだろう。


 でも、ぼくには最初から何にもなかった。だから平気だった。ただそれだけのことだ。だけど。


「明日は雨が降りますように」


 それでもいつしか、床につくときはいつもそう祈るようになった。晴れ続きの最近はお互いに体調がすぐれず、会うことができない日が続いていた。たまに歌が聞こえてくれば、歌で返す。そうやってようやく繋がっていた。


 ぼくは命の終わりが見えた今更になって、やっと手に入れられた。空っぽだった身体にあたたかな血がかよった。涙を流せるようになった。


 すでに身体が形を失ってしまっているんじゃないかと錯覚するほどに、感覚のすべてが薄くなっていた。でも雨さえ降ってくれれば、また起き上がれるかもしれない。起き上がることさえできれば、また会える。だから。


 ◆


「あの子は、先ほど連れて行かれましたよ」


「そうですか。教えてくださってありがとうございます」


 本格的な夏の時期を迎えたその日は、朝からとても静かだった。だから嫌な予感はしていたけど、補助員さんの声がささやかな夢の終わりを告げた。


 本当は大声で泣きたかったけれど、もうそんな力も残っていない。ぼくはじっと目を閉じて、お礼を言った。


 最期に一度触れさせてほしいと頼んだけれど、息を引き取った後は速やかに死体を加工しなければならないらしく、願いを聞いてもらうことはできなかった。


『処理』されてしまえば、骨のひとかけらも残らない。見知らぬ誰かの永遠のために、ぼくらは存在した事実ごと砕かれてしまう。ぼくも、彼女も、確かにここに在ったのに。


 ドアが閉まる音がして、部屋に一人にされたことがわかった途端、耐え難い寂しさがこみあげてくる。視力を失ってしまっても、まぶたの裏に浮かぶのは彼女の顔ばかりだった。


 こうして同じ運命に乗り合わせていなければ、きっと出会うこともなかった人。出会ったとしても、目に映ることもなかったかもしれない。


 ただ傷を舐め合うだけの関係だったかもしれないけれど、人生の最後にあたたかな時間をくれた彼女を、ぼくは心の底から愛していた。


 弔いをと思ったけど、ぼくは彼女に手向けられるものなんて何も持っていなかった。それでも何かをしなければと、彼女が歌っていた歌をできるだけたくさん歌い、見送ることにした。


 かつての習い事漬けの日々に生まれて初めて感謝した。一度聞けば覚えられる能力はその時に養われたものだからだ。


 ありったけの力を振り絞ると、なんとか立つことができた。一歩、また一歩。二人で並んだ長椅子を目指したけど、目が見えなくなっているのでたやすいことではなかった。手探りでドアを開いたところで足の力が抜けてしまい、その場にくずおれてしまった。


 降り注ぐ夏の日差しは確かにまぶしいのに、なぜかとても冷たかった。


 諦めずに歌い始めたけど、思うように声が出てくれない。彼女に捧げる大切な歌なのに、意思に反してどんどん音程がずれていき、息を吸うたびに胸が悲鳴を上げた。情けなさで涙があふれてきて、喉を何度も詰まらせる。


 いったいどのくらいの時間が経っただろう。ちゃんと歌えたかもわからない。耳が遠くなってしまって、意識もしだいに暗く濁っていったからだ。


 そうして、ぼくは底のない眠りに落ちていった。


 ◆


 気がつくと、青空の下にいた。


 自分の身に起こったことを察して、ゆっくりと立ち上がる。足で立って歩く感覚はとっくに忘れていたので、側から見ればきっと初めて歩く赤ちゃんとそう変わりないだろう。


 外に出るなんて何年ぶりのことだろうか。いや、ここを外と言っていいのかはわからないけれど。頬をなでる風がひたすらくすぐったいし、眼前に限りなく広がる景色が鮮やかで、やたらと目にしみた。


「目って、こんなに見えるんだっけ」


 目線を落とせば、足元を覆う草の輪郭まではっきりと見える。ひさしぶりに視覚を取り戻すと、情報の多さに頭が痛くなるらしい。ときどき眉間を揉みながら、ぎこちなく歩みを進める。


 目指すべきところは分かっていた。探している人はここにいるということもはっきりと。でもこの青い草原はあまりにも広すぎて、いつになったらたどり着くのか見当もつかない。


「ねえ、君」


 足元から不意に呼びかけられ、思わず飛び退く。いつのまにか傍に彼女が座っていたのだ。彼女は風に流れる髪を押さえながら、ぼくに目を合わせると歯を見せて笑った。少し肉付きのよくなった身体、血色を取り戻した頬に、つややかな黒髪。


 初めて晴れた空の下で見る彼女は、まるで見違えるようだった。


 でも、相変わらず前歯は欠けたままだ。どうしてだろう? 驚きで固まったぼくを見て、彼女はコロコロと笑い声を上げる。


「どうしたの?」


「……えっと、歯は治らなかったのか?」


「だって、その方が君が見つけやすいかと思って」


「え? いや、治っててもわかるって……まあいいけど」


 ちょっとズレたような答えに苦笑いを返して、その小さな手を取った。爪先はいつかぼくが褒めた時と同じ桜色に染まっている。彼女は軽やかに立ち上がり、白いスカートの裾を揺らした。


 吹き上がった風に乗るように地を蹴ると、身体が羽根のように宙に舞った。もう、ぼくたちはどこにだって行けるのだ。


「どこに行く?」


「どこでも。今度は、時間はたっぷりありそうだし」


「そうだね。じゃあ」


 彼女はまっすぐに上を指差した。まずは天高く輝く光の向こう側を目指すことにして、さらに空を上っていく。


「いいね」


 風に乗って終わりのない旅をする。あざやかな虹を潜って、雲を突き抜けていく。はるかはるか遠い場所へ飛んでいく。


 ふたりで手を繋いで、ときどき歌を歌いながら。


(終)

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