30.刑事西芝の事件簿 暴力の沼 幕間
「本気で何かを変えたいと思うなら、人生ぐらいは捧げなくちゃな」
青乱が言った。
黒い長髪を後ろでくくり、無精ひげを生やした男だった。
それなりに鍛えた肉体が、普段使いの浴衣からはだけて見えている。
整った顔立ち。人好きのする愛嬌のある笑み。
彼と数分話せば、大体の人間は青乱に対して好意的になる。
そういう類の男だった。
その青乱は、薄暗がりの店──と呼ぶにはいささかボロすぎる錆びたガレージの中にいた。
プラスチック製の安くて白いテーブル。
錆びの浮いた鉄製の椅子に深くもたれかけ、咥えタバコをしながら、唇の端から煙を吐き出していく。
目の前に座っているのは、気弱そうな男だった。
少年と呼ぶには年を食っているように見えるが、青年と呼ぶには頼りなく、幼い。
とあるオロカマフィアの末端。
顔には青あざがいくつか。今朝つけられたものもあるだろう。
何をせずとも上目遣いで、こちらの顔色を窺う。
身体を一切動かさずとも、ただ言葉を発しただけでも、ビクリと震える。
長年、暴力に晒された人間の反射が出ていた。
青乱は薄い、刃物みたいな笑みを浮かべた。
能面に浮かぶ微笑みといえば、想像できるだろうか。
およそ人がするとは思えない、ゾッとする表情で、青乱は目の前の男を観察していた。
「人生……」
男が、ため息を吐くように言った。
実際、ため息を吐いていた。
「そう。人生だ。捧げる覚悟はあるか? 他の呪術師はもう試したんだろう? それでも、ダメだったんだろう?」
男は、注視、観察していなければ気づかなかっただろう。
それぐらいの浅い頷きを返した。
「覚悟はあるということか?」
「……はい」
「いいね。そうこなくちゃ」
青乱はタバコを根本まで吸って、テーブルに押しつけて火を消した。
よく見ればテーブルには、そんな痕がいくつも残っていた。
青乱が立ち上がる。
下駄の音が、カランと小気味よく鳴った。
「最高の奴をプレゼントしよう。もう、君を縛るものに怯えなくてもいいように」
ガレージの奥に、もうひとつ部屋があった。
そこは入るだけで「うっ」と息が詰まるような圧迫感のある部屋だった。
真っ暗で、自分の手がかろうじて見える程度。
異様なのは、何の匂いもしないことだった。
男は、その部屋の中心に寝かされていた。
何も見えない。近くにいる青乱の姿すら。
匂いもなく、目も利かず、聞こえてくるのは男の周りを何かの規則に従って歩く青乱の下駄の音のみ。
カラン。カラン。
カラン。カラン。
カラン。カラン。カラン──。
ぼぅっと、火が灯った。
しかし依然として、青乱の姿は見えない。
宙に浮く火。
それを、男の目が熱に浮かされたように追う。
「これから君に入れるのはまじないだ。知ってるかい。まじないとは、呪いと書く。つまりこれは、君を縛り付ける呪いに対し、新たな呪いを上書きするということだ」
闇の中から聞こえてくる声に、男は聞き入る。
あれほど臆病な人間なのに、この部屋に入ってから、やけに呼吸が落ち着く。
男にとって、物心がついてから、初めての経験だったかもしれない。
それは、安らぎと呼ばれるものだった。
青乱の口から、奇妙な音が漏れる。
それが何かの呪言なのだろうと思いはするが、それが何をルーツにしたものなのか、当然、男にわかるはずもない。
ただ、それがいやに心地よく、男の眠気を誘うものだったことだけは覚えている。
「君はこれで、人生を捧げた」
まどろみの中から、男は静かに覚醒する。
青乱の声が、どこか遠く、それと共に、耳元でささやかれているように近く感じる。
「おめでとう。君の願いはこれで叶うだろう」
青乱の声は、男の中に説得力を持って染み込んでいった。
この男が、呪術師が、“そう言うならば、きっとそうなのだろう”と。
男がはっきりと意識を取り戻したのは、あの古びたガレージから数キロは離れた場所だった。
嗅ぎ慣れないタバコの匂いだった。
ふと、今の今までずっと何の匂いもしなかったことに気がつく。
「僕は……」
個人商店のガラスに映る姿に、変わった場所はない。
内側からこみあげるものも、体調の悪さも良さもない。
けれど確かに、男には“もう大丈夫”という気持ちが全身に滲んでいた。
呪術師の青乱は言った。
本気で何かを変えたいのなら、人生を捧げろ。と。
男は正直、己の何が変わったのかを言葉にすることはできなかった。
だが一方で、己が確かに変わったことを、自覚しているのだった。
気づけば手には、鋭利なナイフ。
小さく、細く、電線の間を縫って差し込む陽光で煌めいていた。
「……もう、終わりにしたい」
男は蚊の鳴くようなか細い声で、そう呟くのだった。




