15.逆説的な話だが……。
エガミ・ドウトクは、妻を殺した男を追っている。
シントサカには、半年ほど前にたどり着いた。
元は実業家で、この犯罪多発都市に来る前まえでは、その容姿は溌剌として生気に満ち溢れ、既婚者であるにもかかわらず誘いの声や視線は数多あった。
しかし今、そんなエガミに以前の生気は見受けられない。
くたびれたスーツ。
オールバックにした髪には白いものがいくつも混じっている。
銀縁眼鏡の奥の目は落ちくぼみ、頬は削げ落ちていた。
実業家時代に交流のあった人間は、彼がエガミ・ドウトクと同一人物であると言われても信じることができない。
留守中、押し込み強盗に妻を殺されてから、エガミの人生には強く、深い、陰が落ちた。
妻を失ったが、金だけはあった。
いくつもの会社を通じて、今も多額の収入がある。
その資金をばら撒くようにして、エガミは妻を殺した男の行方を追った。
そうして辿りついたのがこの犯罪多発都市にして、独自の法が根付いている『シントサカ』だった。
エガミは今、二人のボディーガードだけを連れてシントサカの高級地区にあるホテルに滞在している。
唸るほどの金があるエガミにとって、この五つ星級ホテルに半年以上滞在することは苦でもない。
苦しいのは、それだけの期間を費やしても、妻を殺した男──ササガキ・ジンを見つけられないことだ。
いくつもの情報屋を使って、ササガキの行方を追わせている。
金のためならこの都市の情報屋は危険を顧みずよく動くし、妻のために金を使っていることだけが、エガミにとって生きている実感があった。
妻はもういない。
小さな小さな骨壺に入り、故郷の墓に眠っている。
復讐のためだけの生きている。金に未練も執着もない。
しかし、それを良いことに情報屋を騙り、調査費をせびろうとしてくる輩もいる。
この都市ではオロカ・マフィアと呼ばれる類の人間らしい。
そいつらの処理はボディーガードのナツキとイロドリに任せている。
二人は今の状態となったエガミにもついてきてくれた。
シントサカに到着したその日、エガミを襲ったオロカ・マフィアを叩きのめし、容赦なく銃で頭を撃ったのはナツキだ。
彼女は常にエガミのそばについて、危険な相手を排除する。
様々な犯罪が跋扈しながらも淘汰され、最終的に純粋な暴力が肯定されるこの都市で、彼女は活き活きとしているように見える。
情報屋を名乗る輩を積極的に叩きのめすのはもう一人のボディーガード、イロドリが主に行っている。
イロドリは事件当時、妻の護衛で屋敷にいた。
襲撃されたとき、一人生き残った護衛がイロドリだった。
刈り込んだシルバーアッシュの短髪。額から頭皮の左側にかけてナイフの切り傷がある。
彼もまた、復讐に生きている。
傷の手当てもろくにせず、額から血を流したまま、イロドリはエガミに土下座した。
エガミは謝らなくていいと言った。その代わり、その気があるならついて来いとだけ口にした。
ついてこなくても構わなかった。同僚が無残に殺されたのだ。尻込みするのが当然だった。
けれども、イロドリは立ち上がり、すぐに首肯した。
「必ずヤツを殺します」と宣言した。
それからは三人で行動した。
いたるところから情報屋を呼び、使い、やっと追っている人間の名がササガキ・ジンだとわかった。
それは偽名だった。
ヤツを表す名前は他にも五つほどあったからだ。
そのどれもが信ぴょう性が高く、エガミはどれもが本物だと理解した。
“犯罪に慣れた犯罪者”。
それがエガミ・ドウトクの、ササガキ・ジンに対しての素直な感想だった。
「……また来い。何度も言っているが、情報は小出しにするなよ」
「わかってます。イロドリさんに追われるのはごめんですからね」
エガミたちが拠点にしているホテルのスイートルームの前で、ナツキと情報屋のやり取りが聞こえた。
すぐにナツキが部屋に入ってきて、エガミと目が合うとゆるく首を振った。
成果なし。
わかってはいたことだが、ササガキ・ジンは用心深い。
きっとエガミが追っていることもわかっているのだろう。
派手に動いていた時期もあったようだが、今は姿を隠している。
シントサカは特区だ。
狭いようでその実、本気で隠れた犯罪者を見つけるのが容易ではないぐらい、広くもある。
見つからない。
焦りはあるのか、もうわからない。
本当にササガキはこの都市にいるのか。そんなことも考える。
と、同時に、必ずいる。という妙な確信もあった。
もしも捕まえることができたら、どうやって殺してやろうか。
そんなことを考えていたのは、もうずいぶん遠い昔のように思える。
エガミは元々、ただの実業家だった。
商売の才能があったのだ。ただそれだけの男だった。
妻は大学で知り合い、恋仲になって、会社を一つ興したあとに結婚した。
純白のウェディングドレスを着てほほ笑む姿を、今は写真を見なければ詳細に思い出すことはできない。
エガミを最後まで支えてくれた女性だった。
会社を人に任せて、これから二人でいろいろ見て回ろうか。そんなことを話していた矢先だった。
子どもも欲しい。
妻の願いを叶えることは、できなかった。
妻の声が思い出せない。
妻の顔が思い出せない。
妻のぬくもりと感触が思い出せない。
妻を喪った絶望だけが、つい先ほどのようにそこのある。
妻が消えていく。それなのに打つ手がない。
それがどうしようもなく辛くて、悲しかった。
シガレットケースに入れた妻を写真を見る。
ほほ笑む女性は、もうこの世にいない。
逆説的な話だが、エガミはササガキ・ジンを追うことで、妻を忘れずにいられる。
憎悪が、怒りが、妻との唯一のつながりになろうとしていた。
エガミは恐れている。復讐の終わりが妻との思い出の終わりになるような気がして。
妻とのつながりが、本当にそれしかないような気になって。
「殺すなら、俺を殺せばよかったんだ。ササガキ」
ソファに深く沈みこんで、エガミは呟く。
半年以上もいるというのに、生活感のないスイートルームが、弱々しい声を吸い込んで霧散させる。
エガミは、エガミ・ドウトクは、こんな思いをするぐらいならあのとき、自分もいるときに襲撃してくれればよかったのにと思う。
妻と一緒に殺されたかったとすら思う。
残されたから、復讐せざるを得ない。
復讐なしには、生きられなくなった。
妻を殺した人間が生きているのに、自死はあり得ない。
エガミは弱く、そして強い男だった。
ササガキ・ジンを残して妻に会いに行こうと思うほど、弱い人間ではなかった。
そしてその強さに、苦しめられている。
「ナツキ、飯を取ってくれ。いつもの食堂でいい」
「はい」
エガミは身体を起こし、ナツキに指示を出す。
目は落ちくぼみ、頬は削げたが、エガミは不健康ではない。
復讐者で健康でなければ事を成せない。
三日ほど前、雇った探偵から言われた言葉だ。
その通りだと思った。
それからエガミは飯をよく食い、身体を鍛え始めた。
復讐とは、万全の態勢で行うべきだ。
完膚なきまでに、相手がどれだけ後悔しようと、懺悔しようと、逃さないために。
探偵が事務所にしている食堂の飯は美味かった。
どん底まで落ちていたエガミの体力を少しずつ回復させる。
「イロドリ、飯を食ったら稽古をつけてくれ」
「承知しました」
あのとき殺してくれればよかったと、今でも思っている。
けれど同時に、あのとき殺しておけばよかったと、後悔させたいと思い始めてもいた。
今、エガミの瞳には強く、昏い炎が宿っていた。
実業家時代よりも強烈な、爛々とした、狂気的な恐ろしい光を放ちながら。
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ではまた次回のアジアンパンクで。