1.アラゴト屋 葦尾景虎
よく晴れた日なのに、視界は狭い。
出来損ないの編み物みたいに街を張り巡らされた電線が、青空にいくつもの黒い色を引く。
ダクトから匂う肉と野菜を煮込んだ料理の香り。
それから住民たちが好き勝手に干す洗濯物。
臭い消しのための芳香剤付き柔軟剤のせいで臭い。
突然通りの一本から漂ってくる詰まった下水管の臭いも最悪だ。
基礎は日本だが、この都市『シントサカ』は多国籍、いや無国籍だ。
歩く人々は肌の色こそ違えど、誰が生粋の『シントサカ人』で誰がそうじゃないのか。見た目だけではもうわからない。
雑踏の中、自分のルーツを気にする人間は少ない。
かくいう葦尾景虎も、自分の出自に悩んだのは今は昔、可愛らしい年代の頃だった。
昔は女の子に間違われたこともある。
今ではそんなことはない。
景虎の鍛え上げられた鋼のような肉体がそれを許さない。
「キャーッ!!」
通りで悲鳴が上がる。
景虎はスープを飲み干した器を置き、甘辛チキンを最後に一口齧ってから、ゆっくりと立ち上がった。
「ごっそさん」
大衆食堂『チーハオ』のレジ係にジャリ銭を渡して、店を出る。
指についた甘辛チキンのタレを舐めとり、悲鳴の聞こえた方を見やる。
「ひ、ひったくりー!!」
金切声とともに、ダラダラと歩いていた人々が素早く左右に割れる。
犯罪は日常茶飯事の街だ。
物珍しそうに現場を覗こうとするのは街に来たばかりの新参者か、景虎のような『アラゴト屋』の人間だけだ。
「ハッハーッ!」
中古のスクーターを駆り、意気揚々と路上を走るのは二人乗りのチンピラだった。どこかの国、もしくは組織に所属しているものではなさそうだ。
だが顔は見たことがある。
トサカヒガシ警察から手配書が出ている二人組だ。
景虎は大きく伸びをして、黄色いアロハシャツとダメージジーンズを内側からパツパツに膨らませる。
それから両腕を上げて、ガッチリ構えた。
「邪魔だドケコラー!」
「轢いちまえ!」
調子に乗って喚くチンピラたち。
景虎はスクーターの進行方向から少しずれて、横に立つ。
そしてスクーターが通り過ぎようとした寸前、信じられない速度で剛腕を振るった。
「けぺっ……!?」
「おわぁあっ!?」
運転するチンピラの頭をヘルメットごとぶん殴る。
車体がバランスを崩し、横倒しになり、後ろに乗っていたチンピラも地面に転がった。
「よし、成功」
景虎はゴム草履でペタペタと倒れたチンピラたちに近づいていく。
「う、うぅ……てめぇ、アラゴト屋か……」
「ああ、そうだ」
運転手は気絶していたが、後部座席のチンピラはまだ意識があった。
しぶとく立ち上がろうとするので、景虎は素早く馬乗りになって、握った拳の小指側をハンマーの要領で落とす『鉄槌』を顔面に喰らわせた。
「ゴブッ……!?」
それで十分だった。
もう一人のチンピラも気絶。
景虎はひったくられたカバンを取って立ち上がると、息を切らせて走ってきた被害者の中年女性に渡す。
「あ、ありがとう景虎ちゃん! これね、お礼を……」
「ああ、いいって。おばちゃん、こいつら賞金首」
顔なじみの女性からの礼を手で制し、親指でクイッと気絶したチンピラたちを指す。
「あら、そうなの? じゃあ必要ないわね」
「はは、ちゃっかりしてんな。ところでケガはない?」
「大丈夫よ。ヒガシで生きてるんだもの。これぐらい平気」
女性は肘や膝を見せるが、確かにどこもケガはなさそうだった。強がりではなく実際強い。
「あとでどこか痛んだら、キリコ先生のとこ行くわ」
「それがいい。おっと、来たみたいだな」
ガチャガチャとうるさい音を立てて二人の警官が走ってくる。
先頭の一人などは拳銃を構えて笑顔でやってきたが、景虎の姿と倒れているチンピラを見て途端に苦々しい顔になった。
「なんだよ! またお前か景虎ぁ!」
「どーも、タチバ巡査、ヒノ巡査」
「や、どうも。景虎くん。またお手柄だねぇ」
タチバと呼んだ巡査が詰め寄ってくるが、景虎は無視して、汗をかいてふぅふぅいってるヒノ巡査に話しかける。
「ヒノ巡査、こいつら賞金首でしょ」
「おい、無視すんなこらぁっ! 発砲させろこらぁ!」
「はいはい、ちょっと待ってね。今調べるから」
ヒノは言うと、背中のリュックを下ろして中から紙束を取り出す。それは現在出回っている手配書の束だった。
指を舐めたあとペラペラとめくり、すぐに目当てのものを見つける。
ヒノは手配書と気絶してるチンピラ二人を見比べて頷く。
「うん。彼ら、賞金首で間違いないね。二人合わせて15万」
ヒノがリュックから違う紙束を取り出し、サラサラと達筆な字で賞金首の名前、金額、時間、そして受取人の名前を記入した。
切り取り線でピッと破り、景虎に手渡す。
「これでよし。あとで署に取りに来てね」
「どーも」
「日坂先生はお元気?」
ヒノが言うと、景虎は苦笑する。
「あー、まあ。今は猫追っかけてます」
「……猫? あっはははは! 先生らしい。そうだね。探偵といえば猫の捜索って感じだ」
「はぁ……悪党撃ちたかった……」
「はいはい。こいつら回収班に引き渡したら、次の悪党探しに行こう、タチバくん」
「はい、先輩」
リュックに紙束を収めたヒノは、物騒なことを言うタチバの肩をポンポン叩いて銃をしまわせた。
それからチンピラ二人に手錠をかけて、無線で警察の賞金首回収班に連絡を入れる。
その様子を見ていた景虎は、ふと思いついて露店の一つに寄っていくことにした。
「おばちゃん、饅頭五個。それから海老焼売と韮餃子も五個ずつね」
「はいはい。先生へのお土産かい?」
「ああ、臨時収入が入るから」
手早く包む露店の店主に紙幣とジャリ銭をいくつか渡し、袋を抱える。饅頭の一つは自分用だからさっそくかぶりつく。身体を動かしたあとは腹が減る。
「ぐぁあああっ!!」
と、上から男が降ってきた。
角度からするとすぐ横にある集合住宅の二階からだ。
「どへっ」
男は地面にバウンドして、それから呻いて地面を這った。
生きてるようなので、景虎は上を見上げる。
すると建物の欄干から黒い中華服を着た黒髪の美女が、男に向けて中指を立てていた。
「うちは占いだって言ってんだろ! フ××クしたけりゃロカロカ通りに行け! この色ボケが!!」
「ひ、ひぃいい……」
男は逃げるように這っていくが、先ほどの美女の発言を聞いていれば助けるものは一人もいない。
「劉さん。またぶっ飛ばしたんですか?」
景虎が言うと、美女──劉ヤムはパッと表情を変えて笑顔を見せた。
「なんだ景虎か。おっ、美味しそうなもの食べてるじゃない。ちょうだい」
「はいはい」
景虎は袋から饅頭を一つ取り出して放る。
劉は見事にキャッチして、さっそくかぶりついた。
「んー! 美味しい! ありがと景虎! 愛してる!」
「はいはい。飯を渡すとき以外にも聞きたいセリフですね」
「何言ってんの。甲斐性あるところを褒められてるんだから素直に喜びなさい」
「はー……」
劉ヤムは美女占い師だ。
実力も容姿も抜群にいい。
だから変な虫も寄り付くが、ご覧の通りの実力なので、並大抵の虫では敵わない。
それ以上の大物が来たときは近くのアラゴト屋で対処する。
そういう契約も結んでいる。
できれば契約以外で愛の言葉をもらいたいものだが、そうもいかないのが男女の仲だ。
「どうしたのため息なんてついて。悩み事なら占ってあげようか?」
「大丈夫っす。それより近々また日坂先生が寄るかもしれないんで、そのときはよろしくお願いします」
「はーい了解。じゃ、饅頭ごちそうさま。仕事に戻るわ」
劉が部屋に戻る。
景虎も再び歩き始めた。
街は喧騒にあふれている。
飯を食う人間。
喧嘩をする人間。
道狭しと走り回る車やバイク。
シントサカは昔の香港やベトナム、タイなどに近いと言われることがある。
ただこの都市で若造である景虎にはわからない。
この景色しか知らない。この日本しか。
だからこそ、景虎はこの街の景色が好きだ。
雑多で、煩くて、愉快な街。
犯罪多発都市シントサカ。
それから都市の動きを眺めていた景虎は、不意に思う。
事務所にしている飲茶楼は警察署とは反対側だ。
「……帰りに買えばよかった」
呟く。
そして署に向かう間に、景虎の手から饅頭らを入れた袋は失せていた。
露店で買った紅茶とゼリーを混ぜた飲み物で喉を潤し、ゴミがあふれたゴミ箱に容器をねじ込む。
「やれやれ……先生へのおみやげ、何にするかな」
鉄格子が嵌められた堅牢な警察署を見上げながら、そんなことを考えるのだった。
新連載です。
よろしくお願いします!