柵の向こう側とこちら側
「電気柵にはあたっていない…だが、この状況は精神的に悪い。俺の事、見なかったことにしてくれないだろうか。」
ゼンはこの状況をどうにかすべく、ノアにそう尋ねた。
「ならば、教えてください!この近くに人は住んでいるんですか?」
ゼンは返答に困った。ノアが世界の柱の外の世界をどう教えられているかなんて知らない。それに「聖女に見つかるな」という軍規定はあっても、見つかった場合の対処は聞いていない。
ゼンは唇を噛みしめ、小さな声で答えた。
「俺は何も言えない。」
「ではあなたはどこから来たのですか?ここからとても遠くにしか人は住んでいないと聞きました。あなたの来たところのお話を聞かせてくれませんか。そうすれば、私誰にもあなたに会ったことを言いません!」
ゼンはノアの必死な様子に、「仕方ないな」と言い、ふぅっと息を吐くと居住まいを正し、ノアに向き直った。
「…俺も遠くから来ました。ここからとても離れたところです。」
相手は少女だが、聖女だということもあり、丁寧な口調で言った。
ゼンは亡国を思い描いた。この国の向こう側の今はリーベ国となってしまった祖国。
「お話するのは少しだけです。俺にも仕事があるので。」
ノアはぱぁっと顔を綻ばせた。いつか聞いてみたいと思っていた柵の向こう側の人の話を聞けることになるとは思わなかったからだ。
ゼンはこの国ではない祖国のことをぽつりぽつりと話し出した。
この森のように自然豊かであり、海が広がっていること、人々は明るく陽気でお祭りが好きなこと。
ノアはゼンが話す遠い場所の話をとても興味深く聞いていた。
ゼンはほんの5分ほど祖国について話しただけであったが、ノアにとっては今までの自分の世界がひっくり返るほど新鮮な話だった。
人が集まって暮らしている場所がある、湖よりも広い海という場所がある、市場というなんでも物が買える場所がある、人はお金を使って物を買っていること、何もかもが今まで知り得ないことだった。
自分と婆やと爺やだけの世界が、とても小さな世界であるように思えた。
「行ってみたい」と思ってはいけないことは分かっている。ノアは世界の柱からは出られない。
だが、ゼンが話す場所が本当にあるのならば見てみたい、もっと知りたい、他にはこの世界にはどんなものがあるのだろうと好奇心が高まることは止められなかった。
「もう仕事に戻らなければいけません。」
ゼンはもういいだろうと思い、話を切り上げた。
「そんな!もう少しお話を聞きたいです。」
ノアは明らかに気落ちした声で言った。
ゼンはいたいけな少女を傷つけてしまったと良心が傷んだ。
「…仕事なんです。」
「では、また明日もお話を聞かせてくれませんか。」
「それは無理です。俺は聖女様に会ってはいけないんです。今日のこれは俺のミスです。もうありません。」
「柱の外の世界のこと、誰も教えてくれないんです。こんなふうに誰かとお話ができること、ないんです。」
ノアはこのチャンスを逃したくないと柵の向こうから必死にゼンを繋ぎとめようとした。
ゼンは15に過ぎない少女に同情をし始めていた。何でもないただの祖国の様子をキラキラとした目で聞いていたノア。世界の柱から出れず、世の安寧のために一生を終えていく、それは生贄に近しいこと。自分が祖国を守る騎士になるのだと夢見ていた頃を思い出し、この少女にそんな夢を抱く時間はあったのだろうかとふと思ってしまった。
「俺のこと、秘密にできますか。ここまで誰にも知られず来れますか。」
「!!できるわ!!」
ノアは電気が通っているのも忘れ、ゼンのその言葉に思わず柵に飛びつきそうになった。
「では、1週間後、ここで。でも10分だけです。いいですか。」
「わかったわ!ありがとう!!」
ゼンはこれでいいのかどうかわからない微妙な気持ちになりながらも、飛び上がって喜ぶノアの姿に思わず顔がほころんだ。
その日ノアと別れてから仕事に戻ったゼンは、オレンジ色に染まる空を見上げながら、ノアの無邪気な姿を思い出していた。
あんな誰かの無邪気な笑顔を見たのはいつぶりだろう。花が咲き誇ったような、まさに聖女のような笑顔だったなと思いながら。