とある事務員さん達の話その15。
それは衝撃の光景だった。
在庫チェックを仰せつかって、備品庫に篭っていた僕の耳に飛び込んできた声。
「いや!諦められないの。」
「んなこと言ったって、」
「お願い。ここで終わりになんてしたくないのよ。あなたが秘密にさえしてくれれば、このまま…」
「そんなわけにいくかよ!」
痴話喧嘩、だろうか。就業時間中だというのに隣の会議室で言い争いをしているらしい男女の声はなにやらただ事では無さそうで。しかも、その声…特に男の方には覚えがありすぎて。
覗き見なんてしてはいけないとわかってはいたけれど、止められなかった。
そうして扉の隙間から目に飛び込んできた衝撃の光景。
後ろ姿しか見えなかったが、よく知った声の主が女性の肩を掴んで……
ここからでは見えないが、それは唇を重ねているようにも見えた。
「恭一郎…さん……」
ガツンと頭を殴られたような衝撃に、ゴクリと息を飲む。
なんで、どうして、まさか、もしかして、けど、でも。思考が追いつかず、身じろぎ一つできずにその場に立ち尽くす。
覗き見てしまった光景は、グサリと刺さって抜けないトゲになってしまった。
「……なぁ、今日は来るんだろ?」
終業時間になって、帰り支度をしていた僕にかけられた声。チラリと視線を隣のデスクへ移せば、そこには頬杖をついてこちらを真っ直ぐ見つめる恭一郎さんの姿があった。
最近、金曜日は恭一郎さんの家に泊まりに行くのが当たり前になっている。約束なんてせずともそれがもう日常だ。
だから、聞かれるとは思っていた。そのまま帰してもらえるなんて思ってはいなかったけれど、どうすればこの場から逃げ出せるのか答えは出せないままだった。
「あの、今週は……その、予定があるので…」
結果誤魔化しにもなっていない言葉しか出てこず、恭一郎さんの口からは盛大にため息が漏らされた。
「月曜からずっとだ。……なんで俺は避けられてる?」
「別に、避けてなんて……」
「じゃあちゃんと俺の目を見ろ。」
まともに見れるわけがない。この一週間ずっとまともに向き合うことを避けてきた。
だって、何を言えばいい?
言ったら……終わるかもしれないじゃないか。
「嫌……ですっ、」
あの日から、ずっとあの光景が頭から離れない。ぐるぐると胸の奥底で重く黒いものが渦巻いている。それは今にも自分の中から溢れだしそうだった。
そんな状態で、話なんて。
けれど、恭一郎さんがそれを許してくれるはずはなかった。
「じゃ、残業な。」
「……はい?」
「備品庫の在庫整理、まだ終わってなかったろ?」
「でも、それは週明けにやるって、」
「つべこべ言ってないでこいよ。」
否定の声をあげる前に、がっちりと手首を掴まれる。
「っ、はな…」
言葉は最後まで紡げなかった。
いつも以上に眉間に皺を寄せている険しいその顔は、けれど今にも泣きそうに見えて。
離すまいと痛いくらいに手首を握りしめるその手を振り払うなんて出来るわけがなかった。
抵抗する気がないことを悟ったのであろう恭一郎さんは、無言で僕の手をひき備品庫へと向かう。
誰かに見られたら、なんて言える空気じゃなかったから、僕はされるがままに備品庫に押し込まれてしまった。
カチリと、恭一郎さんが後ろ手で鍵をかける音がやけに大きく聞こえた。
はぁ。隣でイライラと吐き捨てられたため息が、自分達以外誰も利用者のいないこの狭い部屋に嫌でも響く。
怒っている。それはわかっているのだけれど、どうすることも出来ない。結果二人きりで気まずい時間が流れている。
「……何があった?」
「……。」
視線を合わさず、自分は口を噤んだまま。ガジガジと隣で髪をかき乱す音が聞こえた。
「肇。」
「、」
答えろ。と、これは強制だと言わんばかりの声音に一瞬ビクリと身がすくむ。
けれど、
「……言いたくないです。」
いつもなら笑って誤魔化すか、根負けして正直に口を割っているところなのだけれど、今回ばかりはそうするわけにはいかなかった。
珍しい自分の反応に、隣でまたため息が漏れる。
沈黙が息苦しい。思い空気が背中にのしかかり、潰れてしまいそうだった。
目を逸らして、ぎゅっと拳を握りしめる。そんな様子を見た恭一郎さんから、またため息が漏れた。
「……嫌になったとか、別れたいとか、そんな話か?」
ぽつりと投げられた言葉に、心臓が止まるかと思った。
「っ、違います!」
咄嗟に叫ぶように声を上げ恭一郎さんを見上げれば、すかさず恭一郎さんの両の手が僕の頬を挟み込む。
顔を逸らすことを許されず、ぎ、と視線が突き刺さる。
「なら、俺には心配する権利くらいあるだろ。」
「……っ、」
覗き込んでくるその瞳に宿るのは苛立ちと不安。
僕の頬に触れるその手は、気のせいではなく震えていた。
そうか、この人も僕と同じように恐れてるんだ。それなのに、今この人は僕を気遣ってくれている。
やっぱり、そうなんだ。
「僕の勘違いだって事はわかってるんです。そんな事あるはずないって。……でも、そう見えちゃったんです。」
何が、とは言わなかった。主語がなく、意味のわからない言葉だったろうに、恭一郎さんは隣でじ、と次の言葉を待ってくれている。
「もし、相手が女性なら僕はいつでも離れようって覚悟はしてたんです。でも、実際目の当たりにしたら…んっ、」
言葉は恭一郎さんの唇で塞がれた。
「もういい、ちょっと黙ってろ。」
「ん、っ、」
恭一郎さんの手が首元にのびてきて、シュルリとネクタイを床に落とされた。
「ちょ、んんっ」
唇を塞がれて反論できないのをいいことに、あろう事かシャツを開かれていく。
何をしようとしているのかは明らかで、突き放そうと身体を押してみるが、恭一郎さんはビクともしなかった。それどころか逆に備品棚に身体を押さえつけられてしまう。
「ちょ、なに…あっ、んぁっ、んっ」
漏れた声が狭い室内に反響して、慌てて自らの口を塞いだ。
鼻から抜ける甘い声が自らの鼓膜を震わせる。
就業時間とはいえ社内。いつ誰が部屋の前を通るかわからないこの状況で、恭一郎さんは遠慮なしにこちらの首元に顔を埋め、鎖骨に吸い付いた。
「んっ、んーーーっ、」
ビクリと跳ねる身体を押さえつけられる。
吸い付くだけでは飽き足らず、鎖骨に沿って舌を這わされれば、ゾクゾクと甘い痺れが背筋を這い上がった。
このままじゃまずい。
わかっているのに、うなじを撫ぜられ耳に吐息をかけられれば抵抗する力なんて抜け落ちてしまう。
膝から崩れ落ちそうになった身体を、恭一郎さんが腰に手を回して支えてくれる。
「なぁ、お前まだわかってないのか?これでも足りないのかよ。」
「っ、なに…」
「お前が誰のものかって証明。」
鎖骨にくっきりと浮かんだ痕を恭一郎さんの指がなぞる。するすると身体をたどる指は、胸に、脇腹に、一週間前に付けられ消えかけていた痕も一つ一つ撫ぜていく。
「っ、……ばか。」
「馬鹿はお前だ。覚悟も何も、離してもらえると本気で思ってんのか?」
「っ、」
一瞬で全身の血液が沸騰した。
聞き間違いではない。その証拠に、恭一郎さんの瞳は怖いくらい真剣に僕を睨みつけている。
「……離す気なんてないからな。」
普段、こんな事絶対口にしてくれないくせに。
心拍数が上がっていくのがわかる。数時間前まで重いものを抱えたいたはずの胸が叫んで走り出したいくらいドクドクと跳ねている。
こんなふうに言われたら、もう降参するしかないじゃないか。
「……恭一郎さんの言葉を、信じます。」
ぽすんと恭一郎さんの胸に顔を埋めれば、ぎゅっと抱き締められた。
ふぅ、と長い吐息が聞こえたのは気のせいじゃないだろう。僕を抱きしめる恭一郎さんの手から力が抜けていくのがわかった。
「……で、原因は何だったわけ?」
「その……」
「お前のさっきの言葉で何となく思い当たったんだが……もしかして田中か?」
思いがけず出てきた人名に思わず身体が硬直した。それはもう正解ですと言ってしまったも同じで、
「……そうか、あの時この部屋にいたんだったな。」
あの日覗き見た隣の会議室。あそこに居たのは恭一郎さんと、もう一人営業の田中さんだった。彼女とはあまり接点はないけれど、サバサバした美人だと社内では評判で、僕も顔と名前くらいは一致している人だ。
確か恭一郎さんや高橋さんと同期だったはず。親しげに話しているのをこれまでも何度も目撃してきた。
「あいつ、妊娠したんだと。」
「…はぁ!?」
一瞬で全身の血液が沸騰した。先程とは違う意味で。
「なんて事してるんですか!!?」
「へ?いや、そうじゃなぐぁっ、…が…」
突然の衝撃発言に、とりあえず恭一郎さんの鳩尾に拳を叩き込んだ。右手、左手と続けて同じ場所にぐーで思いっきり。
完全に意表を突かれて恭一郎さんが床に膝をつく。
それでも溜飲下がらす蹴りつけてやろうとさらに振り上げた足を見事に掴まれてしまった。
「ちょ、まて。そうじゃないっ、」
「っわ、」
掴まれた足を思いっきり引かれ、そのままバランスを崩し背中から思いっきり倒れ込んだ。そのまま恭一郎さんにのしかかられ、動きを封じられてしまう。
「おまっ、ちょ、おちつけ、」
「っ、ばかっ!!」
「俺を信じるんじゃなかったのかよ!」
「だから、信じてショック受けてるんじゃないですか!!」
「馬鹿かお前は!このまま孕ませんぞ!あ゛ぁ?」
「ひ、」
目が本気だ。ドスの効いた声に沸騰していた頭から、サーっと血の気が引いていく。
まずい、本気で怒らせた。今度は恭一郎さんの方が頭に血が上ってる。
「やっぱりてめぇは何も分かってないみたいだからな。わからせてやらねぇとなぁ?」
「あの、ちょ、」
押さえつけられた腕がミシミシと痛む。
逃げようにも全く身動きが取れず、ただただその凶悪な顔を見上げる事しか出来なかった。
本格的にまずい。そもそもスーツもシャツも既に恭一郎さんの手によって腕に引っかかっているだけの状態だ。
背筋を嫌な汗が伝った。
「さて。そんじゃ、俺が誰かさんの手伝いに備品庫に行こうとして会議の準備の手伝いしろって捕まった話からしてやるか。」
「っ、」
言いながら恭一郎さんは僕の両手首を掴んで、頭上にまとめてひねりあげる。
「仕方なくお茶出しの準備に給湯室について行ったらいきなり悪阻で吐かれてなぁ。」
「わ、わかりました、わかりましたからぁ!んっぁ、」
つ、と僕の身体のラインを滑るように撫ぜられれば身体はビクリと反応するが、両足も恭一郎さんにのしかかられている為身体を跳ねさせることすら出来ない。
「あの佐藤ですら門前払いくらってた所から契約もぎ取ってきたって田中張りきってた矢先だったからなぁ。そりゃ隠したくもなるよなぁ。」
「ひぁっ、だめ、ゆ、るしてっん、」
快楽と恐怖でビクンと身体を震わせるこちらを他所に、恭一郎さんは楽しげに月曜の事を語りながらその手で僕のベルトに手をかける。
カチャリと金属音が嫌でも耳についた。
「や、恭一郎さん、…もう、やめ」
「あ?お前が誤解したからちゃんと話してやってんだろ?話は聞けよ……最後まで、な。」
「ひ、ご、ごめんなさいっ、んぁぁっ!」
結局僕は延々と泣かされ鳴かされながら誤解をとかれる羽目になった。
理不尽だ、なんて言葉は完全に目の据わった恭一郎さんには言えるはずもなく。この週末、僕はそもそも発言どころか指一本動かすことすら出来ない状態に追い込まれるのだった。
「あれ、山田君今日休み?」
パソコン画面に向かっている最中にいきなり頭上からヒラヒラと目の前に現れた一枚の書類。
見上げればそこには佐藤の姿があった。
「あー、ちょっと体調が、な。あれだ、有休消化だ。あいつ全然取ってなかったから。」
「へぇ。」
じゃあこれ、と先程目の前であチラつかせていた書類を差し出されたので受け取り中身を確認する。
そこには覚えのあるクライアントの名前が記されていた。
「これ、」
「田中さん、結局リモートワークに切り替えてもらって、こうして足が必要な事は僕が代理でやることになったんだ。」
「おー、そりゃよかった。」
あの日の説得がどうやら功を奏したらしい。競い合っていた佐藤に仕事を一部任せなければならないことは田中本人にしてみれば不本意なのかもしれないが、それでも最悪な結果になるよりはずっとマシだろう。
そもそもうちでは取り入れられていなかったリモートワークの仕組みを整え、それをあっさり承認してしまうあたりうちの社長様は寛大だ。
「金曜に社長を混じえてそういう話に決まったから渡辺には教えとこうと思ったんだけどね。僕がここに来た時には姿がなかったから。」
報告遅くなってごめんね。とニコニコと笑う佐藤に、こちらは逆に背筋を嫌な汗が伝う。
「き、んようのいつだよ。」
「ん?終業時間ギリギリくらいだったかなぁ。椅子に上着かかってたからまだ居るのかと思って少し探したんだけどね。」
「あー、ああ、ちょっとあれだ、その、備品庫で在庫整理をな。」
ガチガチと奥歯が音をたてそうになるところを、ぐっと口を引き結んで耐える。
大丈夫だ、鍵はかけた。備品庫の外からは中の様子なんて見えないはず。
あの日我を忘れて散々やらかした事が脳裏をよぎる。
完全に気を失った肇を抱えて部屋から出た時にはだいぶ遅い時間になっていて、社内に残っていた人間なんていなかったはずだ。
「あー、それで山田君の姿も見えなかったんだ。っていうか、そうやって残業させたから山田君体調崩したんじゃないの?ちゃんと身体、労わってあげなよ?」
「あ、ああ。そうだな、気をつける。ああ。」
労るどころか連休中家に連れ帰って声が枯れて熱出すまでヤリ尽くしたなんて。説教確実の今日は帰るのが怖いなんて言えるはずもなく、適当に話を切り上げて手にしていた書類に付箋を貼りデスク脇の書類の束の上にそれを加えた。
「これ、今日中にやっとくから。」
これ以上話していたらボロを出しかねない。こっちは忙しいんだと逃げるようにパソコン画面に向かえば、佐藤もよろしく、と話を切り上げた。
そう、忙しいんだ。肇の分の仕事も引き受けて、それを定時で終わらせて、その後あいつのお気に入りのケーキ屋に駆け込んでご機嫌取りの品を買い、家に帰れば玄関で土下座という大仕事が待っている。
正直一分一秒でも惜しいこの状況で、佐藤の相手までしていられない。
けれど佐藤は直ぐにこの場を離れようとせず、何か思い出したようにチラリと周囲を確認する。
「あ、それから渡辺。」
周囲に誰もいない事を確認した佐藤が、耳元に顔を寄せてきた。
「……孕ませる、は流石にコンプライアンス的に問題あると思うな。」
「なっ!!!!!?」
ガタリ、思わずその場に立ち上がり言葉にならない声を上げるが、佐藤は何事も無かったかのようにヒラヒラと手を振りその場後にする。
「じゃ、その仕事最優先で頼むねー。」
くすくすと笑いながらそう捨て台詞をはかれれば、こちらに拒否権などあるはずがなかった。
「………………終わった。」
恭一郎さんが、僕の放ったボディーブローよりもきつーーーーーーい一撃をお見舞され、膝から崩れ落ちていた事は、僕の知らない月曜のお話。