08 悪役令嬢スカーレット
やばい。非常にやばい。
フィオレンツァ・ホワイトリー最大のピンチだ。
「ではもう一度やってみましょう」
「うう…ごめんなさい、アガタ。何度も足を踏んでしまって…」
「フィオレンツァ様に踏まれたくらいで折れるほど私の足は柔ではありません。…でも本当に酷いですね」
いつものごとくアガタに次の授業の予習を付き合ってもらっているが、今回は一向に向上していない。理由は一つ、科目がフィオレンツァの不得手なダンスだからだ。
フィオレンツァは昔からダンスが大の苦手だった。貧乏な田舎暮らしでそういったことから遠ざかっていたことも理由にあるだろう。だがそれを差し引いても、フィオレンツァは音楽系がまるで駄目なのだ。楽器はもちろん弾けない。楽譜を読むなんてとんでもない。音痴までいかないが歌もへたくそだ。音楽に合わせて体を動かすことも当然苦手だった。今日は朝早くから食事もそこそこにアガタに頼み込んでダンスのパートナー役をしてもらっているが、彼女の足を踏みまくり、さらに二度も転倒させてしまった。
「…もういいわ、アガタ。ここまでやってダメなら、授業でも同じよ」
「ですが…」
「いいの。これ以上あなたの足を踏むのは申し訳ないわ。どうか次の仕事の時間まで休んで頂戴。お茶は私が入れるわ」
恐らくダンスの単位を得るのは難しいだろう。最終試験はまだ先なのでこの単位を落としただけで不合格になるとは思えないが、何らかの対策を考えねばなるまい。
遠慮するアガタを椅子に座らせ、お茶の用意を始めたところで来客があった。
「パトリシア…嬢と、ロージー嬢。おはようございます」
現れたのはすっかりこの部屋の常連となったパトリシアと、ツンデレロージーだった。
「ここに来る途中でロージー嬢とお会いしたの。まだ授業まで時間があるから、一緒にお茶をしましょうとお誘いしたのよ」
「ふ、ふんっ!パトリシア嬢がどうしてもというから仕方なくよ?仕方なく来てあげたのよ?」
「あら、ロージー嬢、侍女の方が持っていらっしゃるのは…」
「『ペルクナス』のクレームブリュレよ」
「『ペルクナス』ですか!?あの王都で有名な老舗の?」
「しかもクレームブリュレって…ものすごい人気商品じゃありませんか。私、食べてみたかったですわ」
「お、お、お友達にお持ちしたのよ?でもそういえば甘いものが苦手だったことを思い出して…しょうがないからよ?しょうがないからあなたたちにあげるわ!言っておくけど大して親しくもないあなたたちにあげるのは不本意なんですからね!でも捨てることもできないじゃない。だから、だから…」
「ではお嬢様、ご令嬢方にお出ししますね」
ロージーがあわあわと言い訳している横で、彼女の侍女がてきぱきと配膳の準備をする。
フィオレンツァの方が(親の爵位が)下位なので、それを遮ることもできずに目の前にクレームブリュレが置かれた。ここまでされて口にしないのはかえって失礼に当たるので、パトリシアと一緒にいただくことにする。三つあったのでロージーにも席を勧め、こちらが淹れた紅茶を出した。
「ではお毒見を…」
「必要ないわ。いただきます」
紅茶の毒見をしようとする侍女を遮り、ロージーは真っ先に紅茶に口を付けた。フィオレンツァを信頼に値する友人だと認めてくれた証拠だ。「ちょっと渋い、75点」と余計な一言があるのはお約束だろう。パトリシアが上手に会話を盛り上げてくれたので、思いのほか楽しいティータイムになった。
「そろそろあのお花畑令嬢が謹慎から戻ってくる頃かしら?」
「二日後ですわ、ロージー嬢」
スーザン嬢…すっかり「お花畑令嬢」「お馬鹿令嬢」で話が通じるようになっている。とはいえ、パトリシアとロージーは彼女のせいで酷い目に遭っているので仕方がないというものだ。先日のお茶会でバーンスタイン夫人の補佐の仕事を放棄し、またしても謹慎を食らっている。「謹慎令嬢」の方が似合っているのではなかろうか。
「じゃあ今日のダンスの授業にはいないのね。よかったわ。あんな子と組むことになったら何をされるか」
「あら、私は是非組んでみたかったですわ。足を踏みまくってやりますのに」
「そんなことしたら、また『子爵令嬢の私をいじめているのね!』って騒ぎ出すじゃない」
二人がそんなことを話し始めたので、フィオレンツァは午後からのダンスの授業のことがまた心配になってきてしまった。ダンスの実技では、誰とペアを組むことになるのだろうか。できればパトリシアがいい。ロージーも…口では罵倒されるかもしれないが、多分心労的負担は軽いだろう。エステル嬢は…ないだろうなぁ。フィオレンツァは女性にしては少し背が高い方だ。エステル嬢は特に小柄なので、ダンスの相手には選ばれないだろう。
いやでも…。
だからと言って…。
ま、まさか、ね?
「では体を密着させて」
「は、はひっ」
「足元だけに注意を向けてはいけません。音楽に合わせて体を動かすことを第一に」
「へえ!…じゃなくて、はいっ!!」
「フィオレンツァ嬢。緊張しないで。ダンスの練習で足が絡まるなんてよくあることなんですから」
「ふひ!」
なんということでしょう。
目を向けることすら困難だったセレブオーラを、現在ゼロ距離で浴びているフィオレンツァ・ホワイトリーでございます。ちなみにすでに本日の授業は終了しております。突然時間が飛びますが、現在夕方の四時ですよ!経過をご説明いたしましょう。
本日の授業が始まる。
三十分ほどの講義の後、実技の授業が始まる。
パトリシアとエステル嬢ペア・ロージー嬢とバーンスタイン夫人ペア・フィオレンツァとスカーレット嬢ペアという恐るべき三組のペアが出来上がる。
緊張しすぎてスカーレット嬢の足を踏むどころか動くことすら満足にできないフィオレンツァ。
フィオレンツァとスカーレット嬢はほとんどステップも踏まないまま、本日の授業が終了。
バーンスタイン夫人に追加の課題を出され(もちろんフィオレンツァのみ)、這う這うの体で帰ろうとする。
するとスカーレット嬢に呼び止められる。
今回の醜態に苦言を呈されるのかと思いきや、課題の手伝いをしてあげると申し出られる。
公爵令嬢の申し出を断れるはずもなく、教室を借りてスカーレット嬢とダンスの練習に至る。
…以上でございます。
精神的に疲弊するばかりのダンスレッスンが終わり、フィオレンツァは紅茶で一息ついて…いなかった。紅茶に罪はない。しかしスカーレット嬢が手ずから煎れて差し出されたそれを、しかも目の前で向かい合ってこられたら味を感じろという方が無理である。当然心など休まるはずはない。
セレブオーラに相変わらずさらされ続けている、現在ライフポイント「2/1000」のフィオレンツァ・ホワイトリーです。
「今日は楽しかったわ」
「…いいえ、せっかく協力していただいたのに、大した進捗もなく申し訳ございません…」
「お気になさらないで。他人にレッスンを施すのは私も勉強になったわ。それに、あなたと是非お話してみたかったの」
「…私とですか?」
「だって、パトリシア嬢やロージー嬢を助けた勇気ある方ですもの。私もあなたのように、もう少し機転が回るようになれればと思うのだけれど」
「き、機転?いえ…っ、そ、そ、そんなたいそうなものでは…!」
「そんなことはないわ。王族に選ばれるには、そういった能力も重要なメソッドよ」
「あ、いえ…、私は王妃にも王子妃にもなるつもりは…」
「そうなの?でもあのスーザン嬢は狙っているのではないのかしら?」
「彼女のことは良くわかりません。ただ私は伯爵家とは名ばかりの貧乏貴族なので、王族に嫁ぐなんて大それたことは考えたこともありません。やはり未来の王妃には、身分が高くて教養がある、スカーレット様のような方がなるべきです」
すると、スカーレット様はグレーの瞳でじっとこちらを見つめてきた。
やめて!セレブオーラをこれ以上ぶつけないで!
フィオレンツァのライフはもうゼロよ!!
「私はね、ずっと周りに『お前は王妃になるんだ』と言われてきたの。自分でもそう信じてきたわ」
「…」
「父は国王陛下の従兄弟だから、何度か王子殿下たちにもお会いしたことがあるわ。きっと三人の誰かが私の夫になって、一緒に王位を継いで、国を背負っていくんだと思っていたの」
「…」
「でもこの間のお茶会で気が付いたの。私、ユージーン殿下にも、ヘイスティングズ殿下にも好かれていないって」
「それは…」
「あなたは賢いし察しがよさそうだから気が付いたでしょう?ユージーン殿下はエステル嬢を、ヘイスティングズ殿下はスーザン嬢を気に入っているわ」
フィオレンツァは初めてスカーレット嬢の顔をまじまじと見た。いつも自信に満ち溢れて輝いていたスカーレット嬢。でも、今の彼女の顔には悲壮感しかなかった。
「エステル嬢はまだいいわ。立派な令嬢だし、勉強熱心だもの。きっともう少し時間をかければ素晴らしい王妃になれるわ。でも今は私の方が上のはずよ!それにスーザン嬢なんて…お世辞にも立派なんていえない。他人の悪口なんて言いたくないけれど、殿方に媚びることしかできないじゃない。そんな人に負けるなんて…」
「スカーレット様…」
「勉強ができたって、美味しくお茶が煎れられたって、ダンスが上手くたって、何の意味もないわ。私は誰にも選ばれない…」
そんなことはない、とは言えなかった。ユージーン王子は間違いなくエステル嬢を望んでいる。ヘイスティングズ王子もスーザン嬢を…。
「スカーレット様…。あなたが王妃に相応しいと言った言葉に嘘はありませんが、必ずなれると気休めを言うことはできません」
「…ええ」
「ただ、覚えておいていただきたいのは…。もし王子妃に選ばれても、選ばれなくても、それで終わりではないということです」
「…」
「人生は続いていきます。あなたが周囲に言われていたように王妃になれたとして、それで終わりではなく、そこからが始まりです。同じく妃になれなかったとして、貴族令嬢であるあなたは必ず誰かと結婚しなくてはなりません。そしてその人の子供を産んで、育てなくては…」
「…でも、でも、もし誰にも選ばれなかったら?王子にも、他の貴族にも誰にも…」
「甘ったれないでください。どうして待っているのですか。何のために必死に勉強して、己を律してきたのですか。あなたは公爵令嬢です。磨きに磨いた美貌と知性と教養を武器にして、自分から男を選ぶくらいの気概を持ってください」
「…女の私が選ぶの?」
「そうです!いっそ手の平で転がってくれそうな夫を選んでやればいいのです!そして結婚したら、その優秀さを生かしてばりばり仕事をしてください」
「…それなら、できる…かしら?」
泣き出しそうだったスカーレット嬢は、いつの間にか真剣な顔で考え始めた。
…あれ、どこでスイッチ入った?男を選ぶってところだよね?手の平うんぬんの方じゃないよね?
確認したいところだが、ぶつぶつ呟いているスカーレット嬢に徐々にオーラが戻り始めてフィオレンツァは言葉を飲み込んだ。
「ありがとう、フィオレンツァ嬢。おかげで道が開けたわ」
ど の 道 だ。
キラキラセレブ感を取り戻して意気揚々と去っていくスカーレット嬢。
この口か?
この口がいけなかったか?
フィオレンツァは誰も周囲にいないのをいいことに、自分の唇をつねった。
願わくばスカーレット嬢も、彼女にロックオンされるかもしれない殿方も、どちらも幸せになりますように。