07 ヒロイン(?)エステル
王宮に薔薇園は二つあり、一つは王族のプライベートエリアにあるものだ。庭師も厳選され、外国の賓客の中でも特別に許しを得ないと入れないらしい。
フィオレンツァがアレクシスに誘われて入ったもう一つは本館と東館に囲まれた、北側のスペースにあるものだ。本館の窓からも見ることができ、ある程度の身分があれば申請なしで入ることができる。もちろんフィオレンツァは「ある程度の身分」には達していないのだが、アレクシス王子が一緒だし、バーンスタイン夫人の許可を得ているので問題はない。
アレクシス王子はこの薔薇園にはよく来るそうで、どの種類の薔薇も言い当てることができた。葉っぱの上にいたカマキリなどの昆虫にも躊躇なく触り、嬉しそうにどの図鑑に書いてあったとかを説明してくれる。昆虫が好きなところはやっぱり男の子だ。
二周ほど園を回り、ようやく少し話し疲れたアレクシス王子をベンチに座ってもらう。気の利く従者が冷たいお茶を用意してくれたので、一緒に休憩した。
「素敵な薔薇ばかりですわね。とても良い匂い…」
「南の薔薇園はもっとすごいんだよ!フィオレンツァ嬢にも見せてあげたいな」
「まあ…。ならば私はかなり出世しなくてはなりませんね」
「しゅっせ?」
「私はバーンスタイン夫人の後を継いで王宮付き教師になるつもりですの。これからもっと勉強して、偉くなって、いつか南の薔薇園も見てみたいですわ」
「そうなんだ…」
アレクシス王子は少し考え込むような遠い目をした。フィオレンツァは気になって顔をのぞき込もうとするが、すぐに彼は元の無邪気そうな顔に戻る。
「ねえ、フィオレンツァ嬢。今度フィオレンツァ嬢を訪ねてもいい?」
「え?そ…それは私には何とも…。バーンスタイン夫人に確認しないと」
「駄目なの?」
…うっ!!?そんな目で見られたら…っ。
いいえ。耐えろ、耐えるのだ、フィオレンツァ。
相手は四歳年下の子供なのだよ。
心頭滅却。
明鏡止水。
唯我独尊…あ、違う。
「ふ…夫人と同席ならば…」
「良かった!じゃあフィオレンツァ嬢の勉強の邪魔にならない時間に行くね」
私の馬鹿ーーー!!
フィオレンツァはやり取りを聞いていた従者さんの視線を感じるが、振り返ってはいけない気がした。
違うんです、王子を利用しようなんてやましい気持ちはないんです!
あのキラキラスマイルに敗北しただけなんだ…!
「本当に来た…」
「随分と懐かれましたねぇ」
その日の夕方。
「明日遊びに行くね」という先触れの手紙に、フィオレンツァは崩れ落ちそうになった。それでも何とか足を叱咤し、バーンスタイン夫人に知らせにいく。あのカオスなお茶会を収束させ、疲れ切っていた様子のバーンスタイン夫人だったが、アレクシス王子の手紙を見るとすぐにフィオレンツァに返事を書かせた。
「では本当にこのお部屋に第三王子をお迎えするのですね。リビングを掃除しておかなくては」
「…よろしくね、アガタ。あなただけが頼りだわ」
「今からそんなに緊張してどうするんですか、フィオレンツァ様。しゃんとしてください」
「うう…だって、バーンスタイン夫人に丸投げされてしまったのよ…。無理よ、私には無理よ…。アレクシス王子とエステル嬢のお見合いのホストをしろだなんて…!」
「お見合いって…。ちょっと顔を合わせてお茶をするだけですよ」
バーンスタイン夫人に書かされた返事には、「エステル・パルヴィン嬢が同席します」という一文を入れさせられた。
そう!今日できなかった若い二人のお見合いを、フィオレンツァの部屋で!フィオレンツァの進行で!フィオレンツァの責任で!やれというのである!ロイヤルカップルの行く末がフィオレンツァの肩にかかっているのだ。緊張するなという方が無理である。
「…ねえ、アガタ。第一王子がエステル嬢を望んだらどうなると思う?」
「え?それは…」
アガタが絶句する。それはそうだろう。ユージーン第一王子は24歳、エステル嬢は13歳…あまりに歳が離れすぎている。もちろん貴族社会ならばあり得ない差ではないのだが、国王と正妃の年齢差が10歳以上というのは初婚では聞いたことがない。
「パルヴィン家は王妃を輩出できる家柄なのかしら?」
「伯爵家ですし、今のご当主は法務省の方ですから、ありえなくはないですわ」
「そうなの…」
「まさか、第一王子殿下はエステル嬢を気に入ってらっしゃるのですか?」
「そうみたいなのよ。…あくまで、今日のお茶会での感触だけどね」
フィオレンツァは、エステル嬢に話しかけているときのユージーン王子の目を思い出す。あの熱量は好意とか、恋とか、そういったレベルのものではない。執着に近いものだった。
第一王子って、幼女趣味?
明日のお見合いがうまくいってもいかなくても、面倒ごとになるのではないかという不安が消えなかった。
「お邪魔いたします、フィオレンツァ様」
「いらっしゃいませ、エステル様」
翌日、授業が始まる前の午前にエステル嬢が部屋を訪れた。水色の可愛らしいワンピースがよく似合っていらっしゃる。白粉をはたいたわけでもないのにきめの細かい肌に、ぷるんとした瑞々しい唇…うん、若いっていいね。
エステル嬢を席に案内し、一緒に来た侍女の方にも椅子を用意する。
「アレクシス殿下はすぐにいらっしゃると思いますわ」
「申し訳ありません、フィオレンツァ様。本当はアレクシス殿下はフィオレンツァ様とお約束されていたのでしょう?私、お二人の仲に割り込んでしまうようで…」
「と、とんでもございません!仲もなにも、殿下と私は何の関係もありませんから!!」
「ですが…」
「昨日退屈されていた殿下のお話し相手をしただけです。本当にそれだけです!」
抱いているのは好意じゃない、庇護欲だ!!力強く言い切ったフィオレンツァに、エステル嬢は押し黙った。あれ?怯えさせてしまっただろうか。
ちょっと気まずくなってしまった空気の中、アレクシス王子が到着したとアガタが知らせに来た。
「こんにちは。フィオレンツァ嬢、エステル嬢」
「いらっしゃいませ、殿下」
「こんにちは、アレクシス殿下」
アレクシス王子は薔薇の花束を二つ持ってきた。一つはピンクと白で可愛らしくまとめたもので、エステル嬢へ。もう一つは赤一色の薔薇のみでできたもので、フィオレンツァへとのことだった。
「ありがとうございます、殿下。とても可愛らしいですわ」
「あ、ありがとうございます…。私にまで…」
「二人に会えると聞いて、庭師に作ってもらったんだ」
アレクシス王子はにこにこしている。昨日の大人しい雰囲気はどこにもない…っていうか、女子に薔薇の花束を贈るって結構キザじゃないか。無垢で純粋だった昨日のアレクシス王子を返しておくれ。
でもキザな花束攻撃のおかげで、お茶会は思いのほか和やかに始まった。
「二人は今、一緒に妃教育を受けているんでしょう?最近は何を学んだの?」
「多岐に渡りますわ。この国の歴史や周辺国との関係、外国語ならば王子殿下と同じかと思いますが、妃教育独特のものといえば…そうですわね、お茶の煎れ方や民族衣装の勉強などでしょうか」
「経済とかは勉強しないの?」
「もし王子妃に選ばれなければ、他家に嫁いで領地経営を手伝うことになりますから、全くしないというわけではありません。ですが一貴族の領地を経営するのと、国家の財政を動かすのは全く勝手が違いますから、王子殿下の学ばれている経済とは違うと思いますわ」
「でも領地独特の貨幣制度などもあるんでしょう?」
「それを実施しているのは、一部の領地で…」
…なんでしょう、この色気のない会話。国を背負う王子と貴族令嬢としては頼もしいんだけど…。この会話を聞いて、フィオレンツァだけでなく同席している王子の従者やエステル嬢の侍女も顔を引きつらせている。12歳と13歳ですよ?その後も二人は、パルヴィン領では漆器の生産が盛んだとか、王都の直轄地でも織物工業を推進しているとか、経済討論からなぜか互いの特産品の自慢し合いになった。
フィオレンツァは大して口を挟めないまま、あっという間に時間が過ぎてお茶会のお開きの時間になった。
えーと…。これ、お見合いだったんだよね?政界のトップ同士の会談じゃないよね?
フィオレンツァの中のエンジェルなアレクシス王子と、フェアリーなエステル嬢のイメージがどんどん崩れていく。フィオレンツァ、エンジェルとフェアリーは天に還ったのだよ…。がっかりすると同時に、幼くともやはり王族、高位貴族の令嬢としての責任感もきちんと持っているんだなと感心もするのだった。
「フィオレンツァ嬢、お茶をご馳走様」
「…大したおもてなしもできず」
本当に。
「エステル嬢、お話できて楽しかったよ」
「私も楽しかったですわ。有意義な時間でした」
本当に。
二人でアレクシス王子をお見送りする。王子が始終上機嫌だったのは良かったが、フィオレンツァはこのお茶会の内容をバーンスタイン夫人に報告するのは気が重かった。そもそもなんて報告すればいいんだ。
「フィオレンツァ様、よろしければお昼をご一緒しませんか?」
「え、ええ。構いません」
断る理由も思いつかず、部屋に食事を運んでもらう。お茶会に使ったテーブルをそのまま使い、エステル嬢と向かい合って食事をすることになった。
「フィオレンツァ様…。お気づきになっているかと思いますが、国王陛下や周囲の方は私をアレクシス王子の婚約者にと望んでいます」
「…やはりそうでしたか」
「アレクシス殿下と年齢の合う高位貴族で、婚約者がいないのは私くらいです。ですが私は…」
「もしや第一王子殿下を?」
「え、ええ…」
なんてこった!
エステル嬢もユージーン王子を?だったら二人は両想いってこと?
「私は年の離れた兄が二人いて、とても可愛がってもらいました。だからユージーン殿下のように年上で頼りがいのある殿方が好みですの」
「…失礼ですが、第二王子は?」
「あの方は…昨日のバーンスタイン夫人への態度を見る限り、頼りがいがあるとはとても…」
ですよねー!
「でもアレクシス王子とも随分お話が合っていたようですけれど」
「確かに、話してみたら勉強熱心で聡明な方のようですわ。でも…」
エステル嬢はちらりとテーブルの上に飾られた花瓶を見た。先ほどアレクシス王子からいただいた赤い薔薇だ。早速アガタが綺麗に活けてくれた。
でも薔薇がどうしたのだろう?フィオレンツァが首を傾げると、エステル嬢は「何でもありません」と目を伏せた。
この時のフィオレンツァは、赤薔薇の花言葉の意味を知らない。そして、調べようとなどとは露ほども思わなかったのだ。