07 イリーナ・ナジェインの笑み
グラフィーラ王妃はハーヴィーに拘束されたアレクシスを、そのままとある部屋に入れた。昨日用意したのとはまた別の客間だ。
「イリーナは?」
「ご安心を。お部屋にいらっしゃいます」
女官の返事にグラフィーラ王妃は満足した笑みを浮かべた。今度こそ上手くいく。
「イリーナをアレクシスのいる部屋に連れて行って。明け方まで一緒に過ごさせれば充分よ」
まずは同じ部屋で一夜を過ごしたという既成事実があればいいだろう。
この国の重臣が何と言おうと関係ない、バザロヴァ王国が介入する材料があればいいのだ。
本来の目的はアレクシスに媚薬を飲ませてイリーナと同じ部屋に放り込むはずだった。しかしあの様子では、イリーナを抱くことに激しく抵抗し、己を傷つける可能性がある。王太子に据えてイリーナと婚姻させてから、ルナマリアたちの処遇を引き合いにゆっくりと受け入れさせればいいのだ。
そんなことを考えていれば、イリーナが従者と侍女を引き連れてやってきた。後ろに控える侍女はどういうわけか、大きな包みを抱えている。そしてイリーナ公女は相変わらず、何を考えているのか分からない曖昧な笑みを浮かべていた。
「イリーナ…」
「ごきげんよう、おば様」
「聞いていると思うけど、今夜はあの部屋で過ごしてもらうわ」
「かしこまりました。…ああ、南東の離宮での不幸な事故のことは伺いましたわ。公爵閣下はショックでしょう」
「…そうね」
「おば様、部屋にはこの従者と侍女も連れて行ってよろしいでしょうか?公爵閣下が自暴自棄にならないとも限りませんし」
「…」
そこまで考えていなかったグラフィーラ王妃だったが、確かにありうる話だった。
アレクシスは王位に全く執着がないようだ。フィオレンツァは湖に沈んだが、西館へと逃げた子供たちの方はどうなったかわからない。もし子供たちも死んだと思っているのならば、イリーナの言う通り自死を選んだり、逆にイリーナを傷つけてしまう可能性がある。
「あなたの言う通りだわ。こちらからもメルヴィンを…」
「それでは私が落ち着きません。ご心配なさらずとも、私の優秀な従者に任せれば大丈夫です。…ねえ、ルスラン?」
「お任せください」
黒髪の背の高い従者が一礼する。
「部屋の前に見張りを立てていただければ十分ですわ。…ああ、窓にも必要かしら?」
イリーナ公女はころころと笑いながらメルヴィンとメラニアを見る。
自分たちの失態がばれていると悟った兄妹は顔をこわばらせた…お前たちでは力量不足だと言われている。
「何かあれば侍女をやりますわ。…それではアレクシス殿下にせいぜい媚を売ってまいります」
ごきげんよう。
最後まであの曖昧な笑みを崩さないまま、イリーナ公女は部屋の奥へと消えた。
イリーナが部屋の中に入ると、椅子の上で手足を縛られた一人の青年がうなだれていた。
イリーナたちに気づいて亜麻色の髪の間から緑の瞳がのぞく。
「…バザロヴァの公女か」
「イリーナ・ナジェインですわ」
「王妃に王太子妃にしてやると言われてほいほいこの国に来たというのか?」
「随分な言われようですねぇ」
イリーナは従者に椅子を用意させると、そこへ腰かけた。そして控えていた侍女に「紅茶を煎れて頂戴」と頼む。
隣国の公爵令嬢なだけあって、全ての所作は気品に満ち溢れていた。
対するアレクシスは意外に落ち着いているようだった。ここで醜く足掻いても無駄だと悟っているのだろう。この状況をどう突破すべきか思考しているのか、あるいは最愛の妻の死を聞かされて捨て鉢になっているのか…。
やがて侍女が紅茶を淹れ終わり、イリーナの前に差し出される。
「公爵閣下にも差し上げて」
侍女はもう一つのカップを盆に乗せ、ゆっくりとアレクシスに歩み寄る。
アレクシスはその侍女をぎろりと睨みつけた。「紅茶に何を入れたんだ」と言いたかったのだろう。
しかしアレクシスはその侍女を見上げると、口を開けたまま固まった。
「フィオレンツァ…?」
「あなた」
イリーナはあっさりばれたことに多少がっかりした。
髪を黒に染めさせ、眼鏡をつけて、化粧で印象を変えさせた…イリーナ渾身の仕込みだ。もう少しアレクシスを弄ぶつもりだったのに…。
「見破るとは思っていましたけど早かったですわね。奥様を溺愛していると噂されるだけは…」
「フィオレンツァ!フィオレンツァ!!無事だったのか!!」
「…」
「あなた、心配かけてごめんなさい」
「ああ、よかった!君が溺れたと聞かされて胸がつぶれるかと…!」
アレクシスは手首を拘束されているのを気にした様子もなく、ぎゅうぎゅうとフィオレンツァを抱きしめている。
「王妃に何をされたんだ?!どうして公女と一緒にいる…!?フィオレンツァ、君は…」
「閣下、声が大きいですわ」
「…!」
完全に興奮状態のアレクシスだったが、辛うじてイリーナの言葉を聞き取ったようだ。フィオレンツァを抱きしめたままこちらの様子を窺っている。「うぐぅ…」と苦しそうな声がした。
「…閣下、奥方は身重なのでしょう?腹の赤子がつぶれてしまいますわよ?」
「あ、…すまない」
アレクシスが慌ててフィオレンツァを解放する。それでも彼女を背中にかばいながら、イリーナを見た。最初は敵意に満ちていた瞳も、今は困惑の色の方が強い。
「イリーナ公女、君は一体…」
イリーナはにっこりと笑った。
この国に降り立ってから初めて他人に見せる、心からの笑みだ。
「さあ交渉いたしましょう、アレクシス様。…奥方を無事に保護した私とルスランに、当然褒賞を下さいますわよね?」
フィオレンツァもルスランに連れられてイリーナ公女に引き合わされたときは驚いた。イリーナ公女が王太子妃になるのを阻止したいのが、そのイリーナ公女自身とは思わなかったからだ。
明らかにグラフィーラと同じ血筋だと分かるピンクブロンドの髪の彼女を見た時は、もはや命運は尽きたと観念しかけたが…。
「初めまして、フィオレンツァ夫人。ルスランから聞いたと思うけど、私はアレクシス様と結婚するつもりはないわ」
開口一番そう言ったイリーナ公女に、フィオレンツァは目を丸くする。グラフィーラ王妃がわざわざ呼び寄せたくらいだから、この国を乗っ取るくらいの気で乗り込んできたのだと思っていた。
「アレクシス様があなたを溺愛していることは事前の調査で知っていてよ。そこに割り込んで愛のない夫婦を演じるほどのメリットはこの結婚にはないのよ…少なくともこの私にはね」
「ではどうしてこの国に?」
「私が断ったところで、別の令嬢が送り込まれるだけよ。それに私も親が決めた政略結婚の相手と婚姻しなければならない…。自国の馬鹿王子と結婚させられそうだったのよ。だから今回の話を利用させてもらったわ」
「利用…」
「すべてはアレクシス様のもとにあなたを送り届けてから話すわ。おば様からあなたが湖に落ちたと聞かされてさぞショックを受けておられるでしょう。自暴自棄になって馬鹿な行動を起こさないとも限らないから急ぎましょう。さあ、早く着替えて変装して…いいえ、その前にその特徴的な髪は染めた方がいいかしら?」
そうしてフィオレンツァはあれよあれよという間に髪を黒に染められ、もっさりメイクを施され、侍女のお仕着せと眼鏡を装着させられた。そのままよくわからない大きな包みを持たされ、イリーナ公女に付いてびくびくしながら王妃たちと対面したが、彼女たちはフィオレンツァに気が付かなかった。ほっとしたのもつかの間、調子に乗ったイリーナ公女は「アレクシス様がいつ気づくか試してみよう」と言い出した。
夫を試すようなことはしたくなかったのだが、部屋に入って見たアレクシスは完全にしおれていた。これも自分が逃げ遅れて心配をかけたせいだと思うとたまらなく申し訳なく、フィオレンツァは声をかけることができなかった。
さすがのアレクシスも遠目で見ただけではフィオレンツァの変装を見破れなかったようだが、イリーナ公女に言われるまま近くまで歩み寄ったところで気づいてくれた。その時イリーナ公女がちっ、と舌打ちしたのをフィオレンツァはしっかり聞き取っていた。アレクシスをもう少し弄ぶつもりだったのに、あっさり変装を見破ったことが気に入らなかったのだろう。
次の瞬間にはあの作り笑いを浮かべていたのはさすがだったが。
フィオレンツァはアレクシスの腕に抱かれながら、褒賞をくれとにやつくイリーナ公女の次の言葉を待った。




