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06 ルスラン



 フィオレンツァは冷静だった。

 フィオレンツァとしてこの世界に生まれてこの方、泳がなければならない状況に遭遇したことはない。なので自分が前世で高校生まで水泳選手だったことをすっかり忘れていた。

 でも体はちゃんと泳ぎを覚えていて、湖に飛び込んだ途端、フィオレンツァは躊躇なく着ていたドレスを脱いだ。貴族女性のドレスはコルセットをつけ、さらにその上からたっぷりとしたドレスを背中のリボンで縛り付けるように着させるもので、本来侍女の手伝いなしで貴族女性がドレスを脱ぎ着することは難しい。しかし妊娠中だったフィオレンツァはコルセットをつけておらず、ドレスもワンピースタイプの自力で脱ぎ着できるものを着ていた。なのであっさりと重いドレスを脱ぎ捨て、泳いで離宮から離れるという判断をすることができた。

 幸いなことに湖縁には葉を生い茂らせた木が並んでいて、フィオレンツァはその下を隠れるように進む。水温もそれほど低くない…あまり長居しなければ腹の子に影響はしないはずだ。


 時折耳をすませて周囲の様子を窺ったが、人の気配は感じられなかった。直前の王妃たちのあの様子ならば、追っ手が来るには時間がかかるだろう。それに普通貴族の女性が湖に落ちたら、まず泳げるとは思われない。

 落ちた地点から捜索されるはずだから、奥に進めば進むほど逃げ切れる可能性が高い。その間に子供たちを連れたヨランダ、あるいは国王を躱したアレクシスが西館から援護を呼んでくれれば…。


 泳ぎ始めてから15分ほど。離宮が木々の向こうに隠れるほど離れたのを確認し、フィオレンツァは湖から出ることにした。

 慎重に周囲を伺い、人気がないのを確かめる。そして水から上がり、まずは服を乾かすことにした。とはいえ火を起こすわけにはいかないので、下着を脱いで水気を絞るだけだ。

 

 「驚いたな」


 下着に手をかけようとしていたフィオレンツァは、思いのほか間近の声に飛び上がった。全く気配を感じなかったというのに、いつの間にか斜め前方に青年が立っている。

 あれほど確認したというのに…追っ手?

 「あ、あの…」

 「心配しなくていい。君を助けに来たんだ」

 「…え?」

 フィオレンツァは青年をまじまじと見た。

 年の頃はフィオレンツァと同じくらい。黒を基調とした、見たことのない軍服のようなものを着ている。かなり背の高い精悍な美男子だ。

 「俺はルスランだ。君と王妃のやり取りを、真上の王太后様の部屋からずっと窺っていた」

 「…」

 「ちなみにあの薬を飲んでも死ななかったぞ。俺が隙を見て強烈な眠り薬にすり替えていたから。君が倒れたところであの兄妹を制圧して助けるつもりだったのに、まさか湖に飛び込むなんて…焦ったよ。君、本当に公爵夫人か?」

 ルスランと名乗った男は肩をすくめて見せる。

 フィオレンツァは何となく、彼がこの国の人間ではないと直感した…ということは。

 「本当に私の味方なんですか?あなたはバザロヴァ人ですよね?」

 「へえ…」

 ルスランは唇の端を吊り上げる。なまじ美形なので迫力があった。

 「君の味方ではないな…。今のところ、アレクザンドラ王太后様と俺の主の目的が一致しているだけだ」

 「王太后様と?…というか、王太后様はご無事なんですか?」

 「体は随分弱っておいでだったが頭の方はしっかりされていたよ」

 「…、一致した目的とは?」

 一瞬ルスランの主の名前を聞こうとしたが、すぐには教えてくれなそうだと判断して質問を変えた。ルスランは白皙の美貌を崩さないが、早口なので内心焦っているように感じる。

 「イリーナ・ナジェイン公女を、この国の王妃にすることは避けたい…それが俺の主とアレクザンドラ王太后様の共通の目的だ」

 「…ただ公女様を退けるためなら、私を助ける必要はありませんよね?」

 イリーナ公女を、立太子するアレクシスの妃として祭り上げたいのは国王夫妻だけだ。ルスランの主の立場は分からないが、アレクザンドラ王太后からすれば、イリーナ公女でさえなければいい。

 フィオレンツァが死のうとどうなろうと、助ける義理はないはずだった。

 「本当に賢いな…。君の生死にこだわったのは、王太后様ではなく俺の主だ。…オルティス公爵と有利な交渉をするために、君の身柄を利用したい」

 「交渉…」

 「あまり難しく考えなくていい。別に無理難題は押し付けないよ。…要は今後のために恩を売りたいのさ」

 「…」 

 「…さて、どうする?そろそろ湖の捜索が始まるだろう。王妃の手の者に見つかれば確実に殺されるぞ」

 「…」

 「俺を別に信じなくてもいいが…。一か八かに賭けた方がいいと思うけどな」

 フィオレンツァは無意識に腹に手を当てた。先ほどあれほど動いていた腹の子は、今は寝ているのか動きがない。

 この子を無事に生みたい…。

 そしてアレクシスや子供たちの元に帰りたい。

 もう一度ルスランの目をよく見た。臙脂色の瞳は逸らされることなく、じっとフィオレンツァを見据えている。

 「…行くわ。あなたに賭ける」




 フィオレンツァがルスランと駆け引きをしていた頃。

 ようやく正気を取り戻したグラフィーラ王妃は、メルヴィンとメラニアを引き連れて離宮を出、湖を臨んでいた。


 「…沈んだかしら?」

 「男ならばともかく、ドレスをまとった女性が泳げるとは思えません」

 「引き上げられる?」

 「やってみますが人手が…ん?」

 湖畔を睨んでいたメルヴィンが、あることに気づいて眉根を寄せた。何か白いものが浮いている。

 メルヴィンはグラフィーラ王妃とメラニアをそのまま待たせ、散策用のボートに乗ってそれを引き上げに行った。


 「これは…」

 十分も経たずに戻ってきたメルヴィンの手には、フィオレンツァの白いドレス。

 「このドレスがあったところに沈んでいるのでしょうか?」

 「…今は捜索している時間が惜しいわ。このドレスは持っていきましょう。もし沈んでいるのなら、数日もすれば浮かんでくるわ」

 グラフィーラ王妃はドレスをメラニアに回収させると、すぐに離宮を離れることにした。

 その様子を、上階から観察している人物がいるとは知らずに…。

 

 


 そして場面はガドフリー国王を人質にしたアレクシスへと戻る。


 突然登場したグラフィーラ王妃の言葉に、アレクシスは愕然とした。

 「フィオレンツァは南東の離宮から誤って湖に落ちたわ。おそらく助からないでしょう」

 「嘘だ!!」

 アレクシスは身を乗り出そうとしてリナに止められた。

 「誤って落ちるなんて、そんなことを信じられると思うのか?!フィオレンツァをどうした!!」

 「…だから、自分から落ちたのよ」

 「嘘だ、嘘だ!!…あんたが突き落としたのか!?」

 フィオレンツァが自分から南東の離宮に行くはずがない。グラフィーラ王妃が何らかの工作をしたに決まっていた。

 「閣下、落ち着いてください。王妃の言葉は我らを誘い出す罠です。予定通り、このまま西館へ向かいましょう」

 リナにささやかれ、アレクシスは少しだけ冷静さを取り戻す。

 そうだ、グラフィーラ王妃の言葉の真偽はともかく、今の自分たちは西館に行くしかないのだ。

 しかしこちらのその気配を読んだかのように、グラフィーラ王妃の後ろにいたメラニアがあるものを取り出した。

 「!!」

 半刻前に別れたばかりの、フィオレンツァが着ていたドレスだった。

 盆の上に乗せられたそれは、遠目にもぐっしょりと濡れているのが分かる。


 「ぐ!」

 「ああっ!」


 メラニアの手にあるドレスに意識を完全に奪われた次の瞬間、ジェットとリナの悲鳴がして、床に倒れる音がした。アレクシスは振り向こうとして、後ろから伸びてきた腕に自由を奪われる。

 「!!」

 「動かないでください、公爵閣下」

 静かな男の声がした。冷たくて、全く温度を感じさせない声音だった。

 「…ジェット、…リナ」

 「部下の二人はまだ生かしています」

 「…」

 皆まで言われなくともわかった。

 アレクシスが暴れたら、即座に二人の命を奪うと言う脅しだ。

 固まったアレクシスに対し、グラフィーラ王妃は満面の笑みで歩み寄ってきた。


 「よくやったわ、ハーヴィー」

 「申し訳ございません、ザカリー・ベケットはまだ確保できていません」

 「仕方ないわ。ことが終わってからゆっくり探しましょう。…メルヴィン、早く陛下を助け起こしてあげて頂戴」

 「…ところで王妃様」

 「何かしら、ハーヴィー?」

 「額のその丸い痕はいかがされたのですか?」

 「…あなた口数が少し増えたわよ」


 グラフィーラ王妃の額には、紅茶のカップに頭を突っ込んだ時にできた痕がくっきり刻まれていた。

 



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