05 出番が来た
時は少し遡る。
アレクザンドラ王太后が療養している離宮は、南東の日当たりが特にいい場所にあった。現在ユージーンが幽閉されている南西の塔とは違って手入れが行き届いている。
フィオレンツァは両脇をメルヴィンとメラニアに押さえられ、後ろにはあの赤髪の男に付かれたまま離宮の中へと誘われた。離宮は三階建てで、入ってすぐに階段を上って二階に上がる。
そして客間と思われる部屋で彼女は待っていた。
―――グラフィーラ王妃…。
ほんの少しでもそうでない可能性を願っていたフィオレンツァだったが、やはりと失望するしかなかった。
「そこに座って頂戴」
小さなテーブルの上には紅茶と茶菓子が乗せられていた。グラフィーラ王妃はお茶をしながらこちらを待っていたようだ。これからフィオレンツァを消すつもりなのに、随分と優雅なことである。
フィオレンツァはメルヴィンとメラニアに半ば強引に椅子に座らされた。そのまま兄妹はグラフィーラ王妃の後ろへと侍る。
「あら、ハーヴィーはどうしたのかしら?」
あの赤髪の男のことだろうか。確かにいつの間にかいなくなっている。
「ザカリー・ベケットが逃げ出しました。憂いがあってはいけないと探し出して処分するつもりの様です」
「子供たちはどうしたの?」
「申し訳ございません、護衛の侍女と共に逃げられてしまいました」
「…まあいいわ。子供を質にするのは最終手段だったもの。…西館に駆け込むのは簡単ではないけれど、急がなくてはいけないわね」
グラフィーラ王妃はメラニアに目配せした。すでに用意されていた茶葉とお湯を使い、メラニアが流れるような仕草で紅茶を淹れていく。
紅茶…。
フィオレンツァは数年前の王妃教育を思い出す。初めての授業が紅茶を煎れる訓練と、茶に関する文化と知識だった。
―――これは、ポントゥスの紅茶だわ。
独特の匂いですぐにどの紅茶か分かった。訓練に付き合ってくれたアガタが、この紅茶だけは苦手だと言っていたからよく覚えている。
匂いが独特で、好き嫌いがはっきりと分かれるのだ。そして暗殺に使われやすい茶の一つでもある。毒の種類によっては、茶の風味で違和感が完全に隠れるのだ。
やがてメラニアが出来上がった紅茶をフィオレンツァの前ではなく、グラフィーラ王妃の目の前に置いた。
「…あなたとアレクシスの子供がどちらも女児だったのは幸いだわ」
「…」
グラフィーラ王妃は小さな小瓶のようなものを取り出す。濃い緑色のガラスでできていて、中には粉状のものが入っているようだ。
「せっかくできた孫を殺したくはないもの。イリーナは寛大な娘よ…ルナマリアとアルトステラだったかしら?私から言えばあの子たちを無碍にはしないわ」
「…イリーナ…」
「ああ、ごめんなさいね。どこから話そうかしら?ユージーンが廃嫡されたことは知っている?アレクシスが代わりに王太子になるの。…でも、あなたを王太子妃にするつもりはないのよ。…側妃も許さないわ」
「…私が一度は落ちぶれた伯爵家の娘だからですか?」
「それもあるわ。でも…そうね、あなたのせいではないのよ。あなたには何の恨みもない…。むしろアレクシスの子を産んでくれて感謝しなくてはならないのかしら…でもね、私はこの国の貴族をどうしても信用できないの。あなたがヘロイーズのようにならないという保証なんてどこにもないじゃない。それにあなたにその気がなくとも、あなたを利用して私やイリーナを害そうとする連中が必ず沸いてくるのよ…ヘロイーズがそうだったようにね」
グラフィーラ王妃は世間話をするような口調で、でも瞳はぎらぎらとこちらを見据えていた。その眼にはフィオレンツァではなく、ヘロイーズと彼女の専横を許したルーズヴェルト王国の貴族たちが映っているのだろうか。
「イリーナは私の祖国の公女で従兄妹姪よ。あの娘に王太子妃になってもらわなくてはならないの」
「…」
グラフィーラ王妃が小瓶の蓋を開け、中の粉を紅茶にかける。小さじ一つ分の白い粉がすうっと紅茶の表面で漂い、すぐに溶けて消えた。一瞬漢方のような香りがしたようだが、あっという間にポントゥス紅茶の香りに紛れてしまう。
「あなたに恨みはない…でも邪魔なの」
グラフィーラ王妃は白い粉を入れた紅茶をフィオレンツァの目の前に差し出した。
「飲みなさい…。苦しまずに逝けるわ」
フィオレンツァは差し出された紅茶…おそらくは毒入り…を凝視した。
「大人しくそれを飲みなさい。そうすれば…あなたの娘たちの将来を心配しなくていいわ」
「…」
「女児だから、よほどのことがない限り王位を継ぐことはない…イリーナの養女にして王女の身分を与えるわ。王家にはしばらく姫はいなかったから大事にされるでしょう」
「…」
「でもあなたがそれを自ら飲むことを拒むのなら…そうねぇ、都合の悪い王族として、ユージーンと同じ塔に連れていかれるかもね」
「アレクシスがどうしてもというのならば塔から出してあげるけど、それまで二人とも無事で済むかしら?」
ルナマリア。
アルトステラ。
フィオレンツァとアレクシスの大事な宝物…。
自分がこの毒を飲めば、彼女たちは幸せに暮らせるのだろうか。
王女として、大切に…。
ぽこんっ。
紅茶へと手を伸ばしかけていたフィオレンツァだったが。
突然腹が引っ張られるような違和感に目を見開いた。
ぽこん。
ぽこんっ。
胎動…?
フィオレンツァははっとした。
完全にグラフィーラ王妃のペースに呑まれていたが、急速に頭が冷えていた。
そうだ、私にはルナマリアとアルトステラだけではない。
お腹の中のこの子もいる!
いまここで毒を呷ったらどうなる?
娘二人は助かるかもしれない。
…でも、お腹の子は確実に死んでしまう。
そんなことはさせない!!
そこでフィオレンツァはようやく、自分が無意識にポーチを持っていたことに気づいた。女性用の化粧道具を入れるためのポーチだが、アルトステラのおむつがまだ取れないので、予備のものをポーチの中に入れて持ち歩くのが習慣になっていた。
そして、確かあの中には…。
「…王妃様、最後にお化粧直しをしてもよろしいですか?」
「化粧直し?」
「自殺した私の死体は家族に引き渡されるのでしょう?だったら綺麗にしておきたいのです」
「この部屋を出るのは…」
「ここに座ったままで構いません。鏡がありますので、お目汚しを許していただけるのならば、このまま直しますわ」
フィオレンツァのその提案を、グラフィーラ王妃は観念したからだと判断したらしい。フィオレンツァは明らかに丸腰で、持っていたポーチもせいぜい小ぶりのナイフがやっと一本入るくらいの大きさだ。
「ええ、いいわよ」
フィオレンツァはポーチを手に取り、中を探った。中には化粧道具ではなく、アルトステラの布おむつが二枚…。そして目的のものはすぐ手に触れた。
そう。今回の王都行きの準備をしている時、何となく引き出しから出てきたそれをポーチの中に入れたのだ。本当に無意識の行動だったが、自分なりに危機感を感じていたのだろう。
一つ、二つ…五つは入っている。
それを確認するとともにフィオレンツァはさりげなくメラニアのすぐ横の窓を見た。ベランダに繋がる掃き出し窓があけ放しになっている。ここに連れてこられる際、この離宮は湖を臨んでいることを確認していた…ならば下は水だ。
フィオレンツァはモノをぎゅっと掴んだ。
狙いは、グラフィーラ王妃とメラニア。
「このぉ!!」
一気に振り上げて投げつける。
…だが、力を入れ過ぎて目測を誤り、テーブルに当たってしまった。
「!!」
「ひっ!」
しかしそれが逆に良かったらしい。
ゴムでできたそれはテーブルの上で弾んだ。
それが躍動感を生み、まさに生き物のように見えた…あの本物の黒い君に。
「ぎゃーーーー!!」
「いやーーーーっ!!!」
しかもフィオレンツァの意図を汲んだように、黒いレプリカが二人にピタリとくっついた。
メラニアの胸元と…グラフィーラ王妃の額の真ん中に。
「あええっぇえええぇぇぇーーーーー!!」
「ひぎっ、きえええぇぇーーー!」
「…は!?…、えぇ?…あ、ええ!?」
グラフィーラ王妃はひときわ大きな悲鳴を上げ…そして数秒後に泡を吹いて気絶、顔を目の前の自分の紅茶へとダイブさせた。
一方、くっついたレプリカにパニックになるメラニアは珍妙な踊りを繰り広げる。
唯一無事だったメルヴィンは、攻撃?したフィオレンツァをけん制しようとして、でも尋常ならざる様子の他二人に気を向けざるを得なかった。
今だ!
フィオレンツァはメルヴィンが崩れ落ちるグラフィーラ王妃をとっさに支えるのを認め、ぱっと椅子から飛び降りた。
「おい!待て…!」
メルヴィンが引き留めようと声を上げるが、その時にはフィオレンツァはバルコニーの手すりの上に身を乗り出していた。
思った通り、下には湖が広がっている。
そしてここは二階…賭けるしかない!
フィオレンツァは手すりを蹴って、湖に身を投げた。




