閑話 ハーヴィーという男(2)
「ご苦労だったわ、ハーヴィー」
「…いいえ、全ては王妃様のおかげです。姉の仇も討てました」
冷静に言ったハーヴィーに、グラフィーラ王妃は淡く微笑んだ。
国王に離縁され、実家に戻されたヘロイーズが変死したと報告を受けたのはつい一刻前のことだ。
すでにヘイスティングズ王子の従者を解任されたハーヴィーを、ヘロイーズの屋敷に潜入できるよう手配したのはグラフィーラ王妃だ。ヘロイーズの実家は今回のことで大混乱に陥っていたので、ハーヴィーを紛れ込ませるのは訳のないことだった。
そしてハーヴィーのことだ。ヘロイーズにありとあらゆる苦痛を与え、長時間嬲ってから始末したのだろう。
彼を動かしていたのはグラフィーラ王妃に対する忠誠心ではなく、家族との幸せを踏みにじった相手への復讐心だけだった。だから今までなんでもできたのだ。
しかし、これからは…。
「あなた、これからどうするつもりなの?」
「考えていません。ここに呼ばれたのも口封じのためだと思っていました」
つまり、グラフィーラ王妃に殺されると思っていたということか。
「…口封じされると思ってどうしてここへ来たの?」
「逃げるのも面倒だったので」
「あらあら…」
グラフィーラ王妃は苦笑いした。
「あなたは殺さないわ、ハーヴィー。口封じなどしなくても、あなたは私のことを売ったりしない」
「…」
「しばらく休んでいなさい。そのうちまた仕事を依頼するわ」
「…分かりました」
グラフィーラ王妃も、ヘロイーズと同じクズだ。
だが、恩ができたのも事実だった。
目的もなく、ハーヴィーは王妃に飼われ続けることを選択した。
やがて二年ほどぼんやり過ごしていたが、急に王妃の使者から連絡があった。
―――幽閉されている、ヘイスティングズを殺せ。
ハーヴィーはヘイスティングズの幽閉先に足を運んだ。
ヘイスティングズはかつての傲慢な面影はなくげっそりとしていて、ハーヴィーの登場に驚いていた。しかしやがてなぜ彼が自分の元へ来たのか理解したらしい…長い幽閉生活で、当時の己を顧みていたのだろう。殺し方は指示されていなかったので、ハーヴィーはヘイスティングズを一度気絶させてから首を絞めた。
ヘロイーズの申し子として憤ってはいたが、さすがに二十余年で人生を終わらせざるを得なかった彼が哀れだった。
ヘイスティングズを手にかけた後、ハーヴィーは名前と顔を変えて再び王妃のもとで働き始めた。
「助かるわ、メルヴィンとメラニアを手放さざるをえなかったの」
「聞いています。アレクシス殿下の婚約者を危険にさらしたとか…」
「大したことはしてないわ。少し悪い噂を立てようとしただけよ」
「…確かに、あなたにしてはぬるい手でしたね」
王妃は少し口を尖らせた。
この女のことだ、本気で邪魔だと思えば簡単に暗殺者を送り込む。王妃権限で婚約者の令嬢を呼び出し、女としては致命的な怪我をさせることだってできるだろう。なのにパーティーで醜聞を流そうとしただけとは、随分と優しくなったものだ。
「その令嬢、テルフォード女公爵の親友らしいの。他にもテッドメイン宰相やバーンスタインにも目をかけられているわ。…当然、バーンスタインを買っている王太后にもね。派手には動き辛かったのよ…せっかくユージーンが王太子になったのに、王太后の不興を買うのも避けたかったし」
逆に言えば、ホワイトリー伯爵令嬢にそういった伝手がなければ、もっと酷い目に遭わせていたということだろう。その伯爵令嬢はヘロイーズのように王妃を攻撃したことなどない、ただ彼女の息子と婚約しただけ、たまたま力の弱い伯爵家の娘だったというだけなのに。
やっぱりこの女はクズだな…。
そうこうしているうちにグラフィーラ王妃がアレクシス王子の妃に据えたがっていた侯爵令嬢が騒動を起こし、彼女の目論見は崩れた。
アレクシス王子は臣籍降下し、王都から離れた領地でさっさと結婚式を挙げたらしい。
王妃付きに加えられたハーヴィーは、それまでは一度も訪れたことのなかった本館で働くことになった。
王妃と言えどもただ本館で遊んでいるわけではなく、きちんと公務が存在する。大体は外国からの来客の対応だったり、招かれて王都の施設を回ったりするのが王妃の公務だが、重臣会議に出席することはあるし、事務仕事も多少は存在する。ハーヴィーは事務仕事の補佐をすることが多かった。
そうして気づいたのは、グラフィーラ王妃は意外と真面目に王妃業をしているということだった。彼女は隣国の元王女なだけあって、ただ玉座にいるだけでは王妃たり得ないということはきちんと理解していた。そうでなくとも自分を引きずり落さんと狙うヘロイーズがいたのだ。優秀とは言えないまでも、やるべき仕事はきちんとする王妃だった。
しかしこれも王族の生まれゆえなのだろうか、人の心の機敏に疎い人物でもあった。
久々にそれを実感したのが、とある日の王族の夕食の席での一幕だった。
すでにオルティス公爵となったアレクシスが王都を離れてから一年半もの月日が流れている。
「先日、アレクシスから手紙が届いたわ」
デザートと共に出された紅茶にミルクを入れながら、グラフィーラ王妃が話し出す。
ユージーン王太子に向かって話しているようだったが、エステル王太子妃をかなり意識していた。
「アレクシスはなんと?」
「…フィオレンツァ夫人が二人目を懐妊したそうよ」
ユージーン王太子がぴくりと片眉を上げる。
エステル妃はデザートのフォークを持ったまま固まっていた。
「また妊娠したのか?上の子はまだ半年くらいだろう?」
「八か月です、陛下」
ガドフリー国王の言葉に、王妃が訂正を入れる。
アレクシスの長女はルナマリアと名付けられ、大切に育てられているらしい。
「フィオレンツァ夫人は妊娠しやすい体質だったようですわね。でもたて続けの出産は負担をかけるから、無理をしないように返事をしておきましたわ」
「そうか…。それより先に結婚したエステルは妊娠する気配がないというのに」
「…」
エステル妃の顔色がどんどんなくなっていく。
王太子夫妻が結婚して二年が経つ。結婚した当初は17歳だったエステル妃も、もうすぐ19歳だ…ちなみに王太子は今年30歳になる。アレクシスとフィオレンツァの間にあっさり子ができたことで、後継者を望む周囲からのプレッシャーは激しくなっていた。
「ユージーン、そろそろ側妃を取りなさい。私が見繕うわ」
「…まだ必要ありません」
ユージーン王太子は短く答えると立ち上がる。
デザートをそのままに、さっさと一人で退室してしまった。
「待ちなさい!!…もう!」
グラフィーラ王妃は今度はエステル妃を睨んだ。
「エステル…、あなたからもユージーンに側妃を娶るように進言しなさい」
エステルは弾けるように顔を上げる。唇まで真っ青だった。
「こんなことになったのは、懐妊しないあなたの責任でもあるのよ?王太子は後継ぎが必要なの。明日にでも候補の令嬢たちを遣わすから、あなたがユージーンに紹介するのよ。良いわね?」
「…は、はい…」
エステル妃は返事をするのもやっとの様子だ。
それをガドフリー国王も冷たい目で見ている。
息子の妻に、息子に愛人を勧めるように強要する王妃の所業を、当然だと思っているのだろう。
そしてこんな事態になったのは、懐妊の気配がないエステル妃のせいだと信じている。
侍女に支えられながらふらふらと食堂を出ていくエステル妃。
その背中を見ながら、ガドフリー国王はわざとらしく肩をすくめた。
「まったく…エステルにも困ったものだ。もしかして王妃の座に執着しているのかな?」
「ユージーンが甘やかすから驕っているのですわ。王族に嫁いだ以上、側妃は当たり前のことですのに駄々をこねて…」
当たり前のようにエステル妃を貶める国王夫妻に、給仕をしているウエイターや控えている侍女、女官たちからは冷ややかな視線が向けられている。特に女性の中には嫌悪感すらにじませる者もいるのに、気づいていないのは本人たちだけだ。
グラフィーラ王妃の言う通り、王族の、それも次期国王が側妃を持つのはこの国では当たり前のことだ。しかしその側妃を妊娠できなくて悩んでいる正妃に紹介させるなど、嫌がらせとしか思えない。だがこの夫婦は酷いことをしているという認識はないようだった。
翌日、グラフィーラ王妃は本当に側妃候補の令嬢たちを連れてきた。
驚くべきことにすでに結婚している女性もいた…ユージーンの好みに合えば、今の夫と別れさせて側妃に直そうとしたのだろう。もはや光のない目で彼女たちを紹介されたエステル妃は、そのままユージーン王太子の部屋へと連れて行った。
結果は全滅だったらしい。
ユージーン王太子はどの女性にも興味を示さず、部屋から追い出したという。その報告を持ってきたエステル妃に、グラフィーラ王妃は激高した。
「この役立たず!」
扇子を投げつけるが、彼女の侍女がとっさにかばう。エステル妃は微動だにしなかった。
「どうせあなたが邪魔したのでしょう!?そうまでして王妃の座に執着しているの?成り上がりの伯爵家の出なだけあって、あさましい娘ね!」
グラフィーラ王妃がどんなに罵倒しても、エステル妃は人形のように佇むのみだった。怒ることも泣くことも、言い訳もしようとしない。やがて罵詈雑言を尽くしたグラフィーラ王妃の方が根負けし、エステル妃と侍女を部屋からたたき出した。
「…もうっ!どうしたらいいのよ…」
グラフィーラ王妃は頭を抱えている。エステル妃を離縁、あるいは幽閉…と全く解決にならないことをぶつぶつ言っている。どうもこうも、ユージーン王太子の好みの女を連れてくればいいだけだと思うのだが。と、グラフィーラ王妃は不思議そうにしているハーヴィーに気が付いたらしい。
「ハーヴィー、あなたはどう思う?」
ハーヴィーは少し眉根を寄せた。今まで王妃の命令を淡々と受けるばかりで、自分の考えを口にしたことはない。しかしそうも言っていられないような雰囲気だった。
「ずっと疑問に思っていたのですが…」
「ええ」
「王太子殿下の好みの女性では駄目なのですか?」
「好み?」
「失礼ながら、王妃様は側妃候補の女性を、主に身分で選ばれていますよね?」
「当然でしょう!ユージーンは次期国王なのよ?」
「男の立場から言わせていただくと、枕を共にするのなら主に見た目で選びます。あの令嬢たちはかなり大人びていて、王太子殿下の趣向に合わなかったのでは?」
「で、…でもっ、でも…。ならっ、ユージーンはどういった子が好みなの?」
「愚考するに、結婚した当初の王太子妃様では?」
「…」
王妃は目を見開いた。二年前のエステル妃を思い起こしているのだろう。エステル妃は妖精のように愛らしく可憐で、まだ少女のようだった…それはそうだ、実際まだ少女だった。
しかしこの一年で、彼女は一気に女性らしくなった。体つきは丸みを帯び、控えめなドレスながら胸のふくらみがはっきりと分かる。思い返せば、王太子があれほど寵愛していたエステル妃を遠ざけ始めたのもその頃だった。
「ま、まさか…。そんなはずないわ」
「そうですね、…大変失礼いたしました」
その時の会話はそこで終わった。