06 怪物に喧嘩を売った夫婦
ニコールから引き離された後、ルパートはしばらくぎゃんぎゃん吠えていた。だが、ひたすら冷徹な視線を向けるだけのアレクシスに、やがて口を閉ざしてしまう。拘束は解かれているものの、さすがに現国王の息子に掴みかかる度胸はないらしく、おろおろと所作なさげにしていた。
アレクシスはふうっ、とため息をつくと、ザカリーが用意した椅子に腰かける。当然ルパートの椅子はない。これまでルパートが公爵であるアレクシスと同じテーブルにつき、気安く話しかけることができていたのは、フィオレンツァの縁ゆえに許されていたからだ。そのフィオレンツァをルパートがないがしろにするのなら、アレクシスも何も譲る気はないという意思表示だった。
アレクシスが椅子に腰かけてすぐ、四十代半ばの男が部屋に入ってきた。
銀の盆に紙の束を乗せていて、それをアレクシスの前に差し出す。アレクシスは黙ったままそれを取り、ルパートを無視しているかのようにゆうゆうと弄び始めた。
「あ、…」
ルパートは話しかけようとして、しかし賢明にも思いとどまった。アレクシスが身分を理由に一線を引いた以上、ルパートの方から話しかけることはできない。しばらく沈黙が続き、さすがに耐え切れなくなったルパートが再び口を開こうとしたところで、ようやくアレクシスが紙の束から顔を上げた。
「方々に借金があるみたいだね」
「…!」
ルパートの顔にはっきりと恐怖が浮かんだ。実の父も、そして勘のいいニコールですら気づいていないのに。
「どうして知っているんだ?って顔に書いているね。…もちろん調べたんだよ。君たちがこの屋敷に来るずっと前から。…ああ、君がニコールの話を鵜呑みにして、フィオレンツァとの婚約話を蹴ったことも知っているよ。それに関してはありがとうと言うべきかな?おっと…話がそれちゃったね」
アレクシスは笑みがどんどん深くなるが、比例してルパートの顔色は白くなっていく。従者の男は表情を変えないが、ザカリーは背筋が寒かった。
「いくつかの投資に手を出して…しかもこれなんか明らかに詐欺じゃない?成人して自分の口座を持ってから、随分派手に借金したみたいだね」
「…」
「ブキャナン子爵家は裕福だから、爵位を継げばどうにかなると思った?」
ルパートは弾かれるように顔を上げた。瞬きも忘れてアレクシスを見上げている。
「…前子爵、自分の父親を何らかの方法で…病気にして隠居させたんだろう。今の反応を見るまではもしかしたらニコール夫人の仕業かもしれないと思っていたが…彼女なら確実に息の根を止めるだろうからね、…やっぱり君か」
「ど、どうして…」
ルパートはそこまで言って、あとははくはくと口を開け閉めするだけだった。アレクシスに完全に威圧されている。
「君のことを調べてたって言っただろう?最初は前子爵の病気を疑っていなかったよ…でも借金の存在とその額を知って、もしかしたらってね」
「…」
「子爵位の貴族税、結構重いだろう?ブキャナン前子爵はうまく領を経営して利益を出していたけど、君の借金を帳消しにできるほどの額ではない」
「…」
「そんな時、ニコール夫人が公爵夫人になったフィオレンツァに会いに行こうと言い出した。ニコール夫人は彼女自身の思惑から、どうしてもフィオレンツァに接触したかった。そして君はこれ幸いと彼女の計画に乗ったわけだ…フィオレンツァの弱みを握って、金をせびるつもりだったのかい?」
「…」
「その様子だと、ニコール夫人の話を信じていたわけだ。フィオレンツァは姉に暴力をふるう邪悪な女だって。…まさかそれが弱み?」
アレクシスは鼻で笑った。そんな話は吐いて捨てるほどある。だいたい子爵が公爵夫人を貶めるようなことができるとでも思っていたのだろうか。田舎の村の井戸端会議でもあるまいに。
「はっきり言っておく」
アレクシスは立ち上がると、いつの間にか跪いているルパートの頭を鷲掴みした。
そのまま乱暴に引き上げ、自分に視線を合わせる。
「僕と僕の妻に二度と近づくな。今度僕たちの目の前に現れたら…生きていることを後悔させてやる」
「あ…あの…、でも…」
「口答えするな。お前の返事はイエスだけだ」
「…、……かしこまりました」
アレクシスはごみを捨てるかのようにルパートの頭を放る。ルパートはもはや跪くことすらできずにひれ伏すのみだ。
再び椅子に腰かけたアレクシスは、いくつかの書類を手に取って、ルパートに見えるように掲げた。
「…?」
「この借金、肩代わりしてあげようか?」
「え、…!」
ルパートの目に光が戻った。期待しているというよりは、純粋に驚いている。
すると先ほど書類を持ってきた従者の男が、ルパートに一枚の紙を差し出した。
「これは…」
「二度と僕たちに近づかないこと、オルティス領に許しなく踏み入れないこと、そして…子爵夫人を幽閉し、入れ替わりに前子爵を本邸に呼び寄せること。それを必ず実行するという念書だ。それにサインすれば、今ここでこの借金を肩代わりしてあげる。…どうする?」
ルパートは差し出された念書を何度も何度も読み返した。確かにアレクシスが言った通りのことが書いてあるだけで、損をすることがなさそうだ。
「か、書きます。サインします」
すると従者がペンを差し出したので、ルパートは自分の署名を一番下に入れた。
それを見たアレクシスも書類にサインする。ルパートの借金を自分が肩代わりするというものだ…さらにその書類にルパートがサインを書き入れ、契約が完了した。
若干表情が明るくなったルパートだったが、アレクシスはまだまだ解放する気はない。
「言っておくけど…念書の内容を反故にしようだなんて思わない方がいいよ?」
「ま、まさか…。約束は守ります」
「君って騙されやすいんだよね。ニコールに騙され詐欺に騙され…。自領に戻ったら、またニコールの口先に惑わされて彼女を野放しにするんじゃない?」
「そんなことはありません…」
「信用できないから、僕の秘書…このダリルがブキャナン家まで同行するよ。ニコール夫人を幽閉し、前子爵を呼び寄せるまで見届けさせるから」
「いくら公爵閣下とはいえ…子爵領のことに口を出すなどと横暴過ぎませんか?」
「横暴?まさか!僕はとっても心の広い公爵だよ」
アレクシスはにっこりと笑い、そしてさらに一枚の書類をルパートの鼻先に突きつけた。
「!!」
「この借金のこと、ニコール夫人にばらしてもいいんだけど?」
「そ、それだけは…!」
全く話が読めないザカリーだけが首を傾げる。まだ借金があったのか?
「この額も結構いってるね。ニコール夫人に気づかれないまま返せる?…彼女を幽閉しておいた方がよくない?」
「…」
ルパートが縋るような目をアレクシスに向ける。
アレクシスはそれを見て、満足そうに目を細めた。
アレクシスが部屋の中に入ると、厳重になっているニコールの拘束に眉をひそめた。椅子に座らされ後ろ手にされた状態で、ほとんどぐるぐる巻きにされている。
どういうことか見張りの男に問うと、ニコールはこの部屋に連行されてしばらくして、ご不浄に行きたいと言い出した。同行すると、何と彼女は見張りの隙をみて逃げようとしたという。すぐに捕まえたものの、どこに隠し持っていたのかナイフを所持していた。
しかも逃げようとした先は公爵夫人…つまりフィオレンツァが休んでいる部屋だったため、拘束する必要があると判断して現状があるという。
「そうだったのか…ご苦労様」
アレクシスはため息をつくと、ニコールの前に椅子を用意させて座った。
ニコールはさすがに観念したのか、アレクシスに媚びる様子もなく、じっと彼の緑の瞳を見返していた。
「君のことを誤解してたよ」
唐突なアレクシスの台詞にニコールは首を傾げる。
「誤解?」
「…僕に色仕掛けでもしようとしているのかと思った」
「ああ、今朝の庭での一件ですわね」
ニコールはくすっと笑う。
今朝、フィオレンツァに贈る花を選んでいたアレクシスのもとにニコールは突撃した。
精一杯媚び、でも位が上の公爵にぎりぎり失礼がないように気を付けながら、彼の愛想笑いを引き出した。アレクシスの気を引くためではない、自室の窓から様子を窺っていたフィオレンツァに見せつけるためだ。
「誤解していたということは、私はあなたに気があるように見えました?…だったら私の演技力も捨てたものじゃないわね」
「…そんなにフィオレンツァのことが嫌いなのか?君の妹だろう?」
「嫌い?…まさか!むしろ大好きですわ。あの子の苦しんでいる顔、悲しんでいる顔、痛みに耐えている顔を見ていると幸福になれます」
「そうか。フィオレンツァを苦しめるのが好きなんだね。そのためだけにここに来たのか」
「…まあ、半分はそうです」
アレクシスは緑の瞳を眇める。ニコールの笑みは深くなる。
「ホワイトリー家と、フィオレンツァと共倒れなんてとんでもないと思っていました。だからルパートと結婚したんです。…でも、あの子がいない毎日は潤いがなかった…。やっぱり私の人生にはフィオレンツァが必要なんです」
「…」
「どんな形でも良かったの。あなたが私という気味の悪い姉を嫌がってフィオレンツァと離婚すれば、あの子をブキャナン家に連れ帰って飼ったし、囲い込もうとすれば弱みを握ってこの家の中に寄生しようと思っていたわ。…でも、その様子だとどちらもできなさそうね」
「ルパートと契約したよ。借金を半分肩代わりしてやった。もう半分を払うのは君の幽閉が条件だ」
「…あら、大変」
台詞とは裏腹に、ニコールはあまり焦った様子がない。誠実とは程遠いルパートがその条件を守り切るのが難しいことを知っているのだ。折を見て、彼を口で丸め込めば出てくることができると思っている。
「もう一つ条件を付けた…前子爵を呼び戻しておくようにとね」
「…」
ニコールの顔色が初めて変わった。
「前子爵は今回の事態を知れば、簡単に君を解放しようとしないだろう。僕がいいと言うまで喜んで君を幽閉すると思わないかい?」
「…」
「あともう一つ。ルパートには妾を取るようにアドバイスしておいたよ。子爵家は妾の子でも後継ぎになれるから、君は出る幕はない」
「そんな…」
「本来だったら実家の父上が出てきて君への扱いが不当だと主張し、離縁させるなり一度実家に戻すなりするはずだろうが、君に限ってそれはない。…理由は、言うまでもないよね?これまでの君の行いの結果だ」
「嘘よ!」
「ルパートと君には今すぐこの領地を出て行ってもらう。…その椅子はプレゼントするよ」
「うそよ、うそよ、うそようそよ、嘘よ!!!」
アレクシスが合図すると、ザカリーと見張りの男がニコールを椅子ごと持ち上げる。
このまま馬車に詰め込もうというのだ。
「やめて、お願い!私からフィオレンツァを奪わないで!!」
「フィオレンツァは僕の妻だ。お前なんかの玩具じゃない」
「いやよ、フィオレンツァは私のよ!ずっと私のだった!私にあの子を返して!!」
「…早く連れて行ってくれ」
ザカリーたちはニコールを担ぐと足早に部屋を後にする。ニコールは暴れているようだったが完全に椅子に縫い付けられているために大した抵抗にはなっていないようだ。
そのまま窓に向かって馬車を凝視する。屋敷の者に追い立てられるようにルパートが乗り込み、しばらくしてニコールが運び込まれた。まだ何か喚いている。声は届かないが、言っていることは何となく想像できた。
「…お前のは、愛じゃない」
虐げる対象に執着することは、相手への愛情ではない。ニコールには愛情なんてないのだ。
つい先ほどまで…この部屋に入るまでのアレクシスは、どうしてニコールのことを相談してくれなかったのかとフィオレンツァに若干腹を立てていた。自分はそれほどまでに頼りにならないのかと。
しかし実際にニコールと話してその腹の内を見て、何となくフィオレンツァの気持ちが分かったような気がした。ニコールという存在を言葉で表すのは難しい。
心にぽっかりと底の見えない穴が開いているような。人間というには色々と欠落している、別の何かのような。その内を覗こうとすれば引き返せなくなりそうな、ぞっとするものを感じさせる女。
一日対峙しただけのアレクシスでさえこうなのだ。
幼少から近くにいたフィオレンツァは、ずっとニコールに振り回されて怯え続けていたのだろう。
あれをどう説明すればいいのか。どう気をつけろと忠告すればいいのか。確かに悩むところではあった。
四年後、ルパート・ブキャナンには妾に迎えた女性との間に後継ぎの長男が誕生する。
さらに二年後、ルパートは病気療養を理由に当主の座を降り、幼い長男に当主の座を譲ることになる。
ちなみにルパートの正妻であるニコール夫人に関しては、ある時期から記録が途切れ、どこでどのように過ごしてどのように亡くなったのか分かっていない。
ニコールのざまぁが甘すぎると思われる方がいると思います。彼女は別の話でまた敵役として再登場させられないかなと考え中なのです。少しぼやっとした顛末に納得いかない方もいらっしゃると思われますが、どうか今回はこんな感じでご勘弁ください。




