04 襲撃
フィオレンツァは目を開けた。
まだ朝早い時間のようだった。だいぶ気分がすっきりした気がする。
この部屋はフィオレンツァ個人のものなので、アレクシスの姿はない。今回のように体調が優れない日や、ちょっとした仮眠を取るときなどは、自分の部屋のベッドで寝るようにしていた。
ここ数日は自室なので、アレクシスはずっと一人寝だろう。ちょっと申し訳ない気分になりつつ、フィオレンツァは庭に面した窓へと意識を向けた。
「…だれか、いる?」
誰かの話し声が聞こえた気がした。こんな早い時間から庭師が仕事をしているのだろうか。
なんとなく気になって、窓に歩み寄って庭を覗いた。
「…あ、」
アレクシス…!
呼びかけようとして、フィオレンツァは固まった。庭の薔薇を前に立っていたアレクシスのすぐ向かいに、ニコールが立っていることに気づいたからだ。ニコールが何か話しかけ、アレクシスは微笑を浮かべながら応対しているようだ。
何を話しているの?
まさか、またフィオレンツァがやってもいないことをやったと言うのだろうか。
ニコールこそが被害者だと、フィオレンツァは加害者だと。
自分を嘘つきだと思っていた家族の腫物を見るような目を思い出す。ニコールの嘘だと分かってから皆は誠心誠意謝ってくれたが、フィオレンツァにはずっと心の傷として残っていた。
あの目をアレクシスにも向けられるの!?
「…いやっ!!」
フィオレンツァは床に倒れこんだ。
「…奥様?どうかされたのですか?!」
どれほど時間が経ったのか、ヨランダの声がした。そして…。
「フィオレンツァ?」
その声を聴いた途端、フィオレンツァの体から汗が噴き出した。顔を上げられない。
誰よりも愛しているのに、その人の目を見られない。
「い、いや…」
「奥様?」
「フィオレンツァ、どうしたんだ?」
「いや!やめて、来ないで!!出て行って!!」
フィオレンツァ自身、どうしてそんな言葉を夫に投げつけたのか理解できない。でもどうしても感情がコントロールできなかった。
「フィオレンツァ!」
「やめて、お願い!!出て行って、アレクシス!!一人にして!」
「…!」
アレクシスが息をのんだのが分かった。
「旦那様…公爵閣下、ここはヨランダに任せましょう。午後になれば医師もやって来ます」
「…」
「公爵閣下、…どうか」
「…分かった」
どうやらザカリーが間に入ってくれたようだった。
アレクシスの気配が遠ざかっていく。
すると急にフィオレンツァは不安になった。
行かないで、アレクシス!
どこに行くの?
もしかしてニコールのところ?
だめよ、だめよ!!
しかし先ほどの激情をあざ笑うかのように、その想いは今度は言葉にはならなかった。
フィオレンツァは己の指一本動かすことはかなわなかった。
そのまま昼が過ぎた。フィオレンツァはベッドに横たわったままだ。
また少し微熱が出て、食事も喉を通っていない。
「私…どうしちゃったのかしら?」
誰もいない部屋でぽつりとつぶやく。八歳の時に前世の記憶を取り戻して以来、ずっと精神的に自分は大人だと思っていた。実際その日からミリウスの世話を一挙に引き受け、女主人となった長姉の補佐もするようになったのだから周囲には驚かれた。
ニコールにブキャナン家との婚約を横取りされた時も、あんな阿呆に嫁がなくて良かった、むしろあのやべー女を引き取ってくれるなんてありがたいと拝んだくらいだ。普通の令嬢なら婚約話が流れれば嘆くだろうに、ルパートの態度をエサに持参金の減額を子爵に提案したフィオレンツァを、さすがの父伯爵も微妙な表情で見ていた。
やがて王都で色んな人たちと触れ合うようになって、自分が間違いなくこの世界で生きているということを意識しつつも、どこか前世の自分が別の角度で冷静に物事を眺めてきた。
ところがこの数日、どうしても自分をコントロールできなくなっている。
怖い…。
こんなことは初めてだ。わけもなく不安になるなどやたら不安定だったのに、最悪なタイミングで悪魔が現れたものだ。
未だにニコールとの間に起こったことは、どう処理をつけていいのかフィオレンツァも図りかねていた。フィオレンツァは前世の記憶を取り戻してニコールの行動を分析するようになってから、彼女がいわゆる「サイコパス」なのだろうと判断している。罪悪感を持たず、善悪の判断がつかない攻撃的な人物だ。
階段から突き落とされたあの日、偶然ベラドンナが現場を目撃したことで彼女の本性は家族に知られることになった。しかし、その家族は誰もニコールが危険人物だということを外には話さなかった…隠したのではなく、単純に信じてもらえないからだ。幼いころから自分の本性を隠し、実の妹を嬲り、しかもまるで被害者の方に非があるように装うということを、十歳そこそこでやってのける少女がいると、誰が信じるだろうか。
フィオレンツァもニコールと関わらない以上はアレクシスに話すつもりはなかった。今回ニコールが訪ねてくると知っても、公爵夫人となった自分に下手に手は出してこないと高をくくっていた。…いま考えれば、あまり深く考えることを放棄していたのだろう。
どうしてもニコール関係になると蕁麻疹が出てしまう。
せめて険悪な関係だということくらいは話しておくべきだったのかもしれない。
「奥様、起きていらっしゃいますか?」
ヨランダの声がして、フィオレンツァは少し体を起こした。ドアが開いてヨランダが現れる。
「お医者様が到着しました。いつもの先生の都合がつかなかったようで、私の判断で別の先生に来ていただきました」
「そう…。分かったわ」
「今から迎えに行ってまいります。…メリッサ、奥様についていて頂戴」
「分かりました」
ヨランダが医師を迎えるために玄関に向かい、新人メイドのメリッサが部屋のドアの前に立つ。フィオレンツァは髪だけでも整えようと鏡台の前に立った。
すると鏡にするりと赤いドレスが映り込む。
「!!」
びっくりして振り返れば、ニコールが音もなく立っていた。
「な…っ、なんで…」
「あの子が入れてくれたのよ」
「…」
フィオレンツァはドアに立っているメリッサを睨む。このオルティス領に入ってから雇った平民の少女だ。
「すみません、奥様…。でも、子爵夫人がとてもお気の毒で…奥様と仲直りしたいとおっしゃられていたので」
金に釣られたり、脅しをかけられたりしたわけではなさそうだ…一番面倒臭い、無視だ、無視。
フィオレンツァはニコールに視線を戻す。やはり対峙するのは避けて通れなかったのだ。
「何をしにきたの…?」
「そんなに構えないで頂戴。私も夫もザカリーとかいう護衛に散々ボディチェックを受けたわ。丸腰よ」
それだけでは信用ならない。素手でも階段から突き落としたり、首を絞めたりできる。
「提案しに来たのよ」
「提案?」
「ルパートはね、そろそろ王都に伝手を作りたいんですって。私も子爵夫人になったのだから、華やかな王都で暮らしたいと思っているの。オルティス公爵夫妻には協力していただきたいわ」
「いやよ、あなたと関わりたくないわ」
「ほら、また!どうしてそんな酷いことを言うの?」
「酷い?どっちがよ?私を殺そうとしたくせに」
「何てこと言うの!?私をずっと虐げてきたのはあなたでしょう?」
「いい加減にして、あなたの嘘にはうんざりよ!早く出て行きなさい!!」
「…私は姉よ。なんてことを言うの?」
「あんたなんか、姉じゃない!私の姉はシャノンとベラドンナだけよ」
「冷酷な子…。先ほどアレクシス様にあなたの本性を話しておいたわ。アレクシス様はきっと私の方を信じて下さるわよ」
「…」
「わがままでヒステリーなあなたの言い分なんて、誰も信用しないのよ」
「…やめて」
「ああ、いいことを思いついたわ。あなた、実家でも女主人を気取っていたわね。この屋敷の仕事は全部任せるわ。その代わり、アレクシス様の夜のお相手は私がするわね。…ふふふ、あの方、年下だけどとっても素敵だわ。きっと私に夢中になるわよ」
「やめて」
「ルパートも私がアレクシス様に気に入られたら愛人になってもいいって言ってくれてるの。ルパートは王都に伝手ができて、アレクシス様は魅力的な私の体を手に入れられて、あなたは大好きな仕事ができる…とってもいい考えだと思わない?」
「やめて!」
フィオレンツァはほとんど無意識に手を上げていた。
ぱんっ、という小気味いい音がして、ニコールが床に倒れこむ。
「きゃああああっっ!!!」
「アレクシスに手を出さないで!出てって、出てって!早く私の世界からいなくなって!!」
「許して、フィオレンツァ!ごめんなさい、もう殴らないで!!」
「何をしている!?」
フィオレンツァの部屋の前に、わっと人が集まった。
「フィオレンツァ、何が…子爵夫人、どうして妻の部屋にいるんだ?」
「あなた…」
「公爵様ぁ!助けてください!!」
素早く立ち上がったニコールがアレクシスの前に駆け寄る。
「気分転換に廊下を歩いていたら、妹にこの部屋に引きずり込まれたんです!彼女は急に私を罵倒し始めて…耐えられなくなって逃げようとしたら暴力を…!」
ニコールはフィオレンツァに張られた頬をさりげなく見せつけながら、さめざめと涙を流す。
「ニコール、どうしたんだ、大丈夫か?!」
「ルパート!」
「その頬は…。フィオレンツァ!実家でニコールに暴力をふるっていたことは聞かされていたが…彼女は仮にも子爵夫人だぞ、君の方が身分が上とはいえ、理由もなく暴力をふるっていい相手じゃない!どう責任を取るつもりだ!!」
「ルパート、いいのよ…。大げさにしてはいけないわ。私は一言謝ってもらえれば…」
「君が良くても僕が許さない!」
…はめられた。
ルパートが王都に伝手を持ちたいというのは真実だろう。だがニコールは馬鹿じゃない…アレクシスの愛人になりたいというのは本気ではなく、フィオレンツァを激高させるために口にしたのだ。
ほいほいと罠にかかったフィオレンツァ自身が、最悪の状況を作り出してしまった。誰でもこれを見れば、ニコールの言い分を信じるだろう。メリッサは主の許可なく部屋にニコールを招いたことを知られたくないから、ニコールと口裏を合わせるはずだ。
「オルティス公爵、彼女の本性を見たでしょう?こんな女あなたに相応しくありません!」
ルパートの声がうるさい。耳の中でわんわん響いてフィオレンツァの脳を揺らしてくる。
フィオレンツァはアレクシスの顔を見ようとしたが、視界が嫌に暗くてよく見えなかった。
アレクシス…。
彼の名前を呼ぼうとしたが、うまくできたかどうか分からない。
気が付いた時には、フィオレンツァは床に倒れ込んでいた。




