06 選定
ばたんっ。
予習のために読んでいた本をものすごい勢いで閉じたフィオレンツァに、侍女のヨランダは目を瞬いた。彼女の髪をブラッシングしていた手を止めて、鏡に映る顔をのぞき込む。フィオレンツァの顔色は、赤くなったり青くなったりとせわしなく変化していた。
「フィオレンツァ様、大丈夫ですか?もしかして具合でも悪いのですか?」
「な…な…な…なんでもないっす!」
「ないっす?」
ヨランダはフィオレンツァの専属になってから二ヵ月以上経つが、これほど動揺している彼女を見るのは初めてだった。
「その本に何か書いてあったのですか?今日の授業の予習ですよね」
「え、あ、…ちがっ、違うよ!?いや、違わないけど、でも違う!!そんなわけない!」
「…あの」
戸惑っているヨランダに、フィオレンツァはようやく我に返ったようだった。
「ご、ごめんなさい、ヨランダ。ちょっと思い出したことがあって動揺しちゃって…。続けてくれる?」
「わかりました。今日はたまには下して巻いてみましょう」
「…」
ヨランダが話しかけているが、再び上の空になったフィオレンツァは右から左へと聞き流していた。
「…というわけで、贈り物には様々な意味があります。一番手軽で意味が伝わりやすいということで、花が一番ポピュラーです」
今日の教室には花の香りで溢れかえっていた。百合やライラックなど、香りの強い花が花瓶に挿してある。
「中でも、薔薇は色や本数、さらにつぼみの状態か花が開いているかで意味が細かく違います」
薔薇…。フィオレンツァが思い出しているのは、数か月前にある人からもらった薔薇の花束だ。本数は覚えていないが、全て赤い薔薇だった。
―――二人に会えると聞いて、庭師に作ってもらったんだ。
作ったのは庭師…。ということは、彼はただできた花束を何も考えずに渡したのではないだろうか。12歳の男の子が花言葉まで考えるか?
「フィオレンツァ・ホワイトリー!聞いていますか?」
「はぁいっ!!」
名前を呼ばれ、フィオレンツァは思わず椅子から立ち上がった。
バーンスタイン夫人は一瞬眉をひそめたものの、眼鏡をかけ直してフィオレンツァを真っすぐ見つめる。
「赤い薔薇を殿方からプレゼントされた時の意味を答えなさい」
「あ、赤い薔薇…」
また頬が熱くなっていく。真っ赤な顔をしたフィオレンツァに、バーンスタイン夫人が戸惑った顔をした。
「赤い薔薇、の意味は…『熱烈な恋』です。殿方から女性に渡す場合は、交際を申し込んだり、すでに恋人である相手に婚姻を結びたいと告げるときに…その…」
「フィオレンツァ嬢、もしかして体調が悪いのですか?」
「い、いえっ…。問題ありません」
「そうですか。答えは合っています。座ってよろしい」
「はい…」
へなへなと椅子に座りこんだフィオレンツァを、スカーレットたちが心配そうに見つめていた。
「フィオレンツァ、今日はどうかしたの?」
授業が終わると、早速パトリシア、ロージー、スカーレットに囲まれた。
「先ほどはお顔が赤かったようですけど…無理をされていたのではなくて?」
「体調管理もできないのなら、早く部屋に帰って休みなさいよ!目障りなのよっ」
「ご心配おかけしてすみません。…本当に大丈夫ですわ」
「ならいいのだけれど」
フィオレンツァは心配してくれるスカーレットたちに申し訳ない気持ちになりながらも、どこか気恥ずかしくなる。12歳の男の子のプレゼントに気が動転していたなんて、思い返してみてもどうかしていた。
大丈夫、あれは偶然だ。もし赤薔薇の意味を知っていたとしても、きっとフィオレンツァをからかっただけなのだ。
「…あら、もうエステル嬢は帰ってしまわれたんですね。ご挨拶しそびれました」
見回せば、エステルとスーザンはすでに教室を出た後のようだった。するとスカーレットとロージーが顔を見合わせる。
「エステル嬢ならきっと…スーザン嬢から逃げているんじゃないかしら?」
「スーザン嬢?今度は何してるんです?」
男だけでなく女まで追いかけ始めたのか?確かにエステル嬢は愛らしいけれども。
「ロージー嬢が偶然見たらしいのだけれど…」
「ええ、お馬鹿令嬢がエステル嬢にしつこく話しかけていたのを見たのよ。心配になって後でエステル嬢に確認したけど、一緒に買い物に行こうとか、お茶会に誘ってくれないかとか、どうも仲良くしたいってアピールしてたみたいよ」
「そうなんですか?私たちにあんな態度を取っておいて、エステル嬢には馴れ馴れしくするなんて何を考えてるんでしょう」
フィオレンツァと同じくスーザンの動きを今知ったパトリシアは不快げにしている。
「エステル嬢も嫌がっているみたいよ。あのお花畑と親しいなんて噂が立ったら碌な目で見られないでしょうから。最近は授業が終わると同時に挨拶もそこそこに席を立って、屋敷の馬車へと一直線よ」
「心配ですね…」
「大丈夫でしょうよ。護衛を増やしたようだし、パルヴィン伯爵の耳にもスーザン嬢の噂は届いているはずだわ」
そういうロージーは、恐らく事態に気が付いてすぐにエステル嬢の家に警告をしたのだろう。口は悪くても根はやさしい女性だ。ロージーが言うのなら大丈夫だろうな、とフィオレンツァたちがほっこりしていることを、当のロージーは知らない。
そのままフィオレンツァたちは、しばらくおしゃべりをしてから解散した。
出会って、一緒に勉強をするようになってから五ヵ月。王子たちの妃となるべく勉強をしているスカーレットたちとは一歩引くつもりだったフィオレンツァは、すっかり彼女たちに馴染んでしまっている。
決してこの時間が永久に続くと思っていたわけではない。
しかし四人揃う授業がこの日が最後になろうとは、誰も想像していなかった。
「薔薇の意味、やっと気が付いたの?二ヵ月もかかってやっと?」
声を裏返らせるアレクシス王子に、ヨランダは頷いた。
「はい。今日の授業の科目が異性への贈呈品でしたので、花言葉に関する項目があったようです」
「その…どうだった?」
アレクシス王子が身を乗り出してくる。いつもは10日に一回ほど設けられる、フィオレンツァに関する報告。だが今日のフィオレンツァの慌てぶりを見たヨランダは、すぐに本来の主人であるアレクシス王子に報告をする必要があると判断して連絡を取っていた。
「随分動揺しておいででした」
「いやその、…嬉しそうだった、とか」
「嫌がってはおられなかったようです」
「他にないの?」
「…そう言われても。驚きの方が強かったようです」
「本当にそれだけ?本当は…」
「まあまあ、殿下」
さらに身を乗り出そうとするアレクシス王子を後ろからブレイクが制する。どうやらアレクシス王子のフィオレンツァに対する想いは、二ヵ月経っても募る一方のようだ。
「フィオレンツァ嬢はまだまだ王宮にいるのですから、焦る必要はありませんよ」
「…これからまた王宮は荒れるだろうし…不用意にフィオレンツァ嬢に近づけないじゃないか」
口を尖らせるアレクシス王子。ヨランダはアレクシス王子とブレイクの会話の裏をきちんと読み取っていた。
「王宮が荒れる…ということは、とうとう上の殿下たちのご婚約者が発表になるのですね」
「ああ。もともと今日のうちに呼び出すつもりだったからそちらから連絡してくれて良かったよ。少し早いけど、今日の夕方にも候補のご令嬢の家の当主に通達される。すでに内定してから一ヵ月近く経っているからね。これ以上引き延ばしても仕方がないということだろう」
フィオレンツァはその報告を、呼び出されたバーンスタイン夫人の部屋で聞かされた。
「もう決定なのですか!?まだ五ヵ月ですよ?」
「すでに一ヵ月前から内定していたそうです。これ以上選ばれなかった令嬢を拘束すれば彼女たちの婚期にかかわると重臣の一部から進言があり、明日の通達となりました」
「…」
「ユージーン第一王子にはエステル・パルヴィン伯爵令嬢が、ヘイスティングズ第二王子にはスカーレット・ティンバーレイク公爵令嬢が婚約者として選ばれました。明日からの授業にはロージー・スピネット侯爵令嬢とパトリシア・テッドメイン侯爵令嬢は参加しません」
突然の話にフィオレンツァは絶句し、同席しているスーザンは何を考えているのか曖昧な笑みを浮かべていた。心なしか部屋の外が騒がしい気がする。おそらくは王子の婚約者決定の話が早くも流れ出て、使用人たちが騒いでいるのだろう。
「すでにパトリシア嬢たちには…」
「先ほど候補のご令嬢の家の当主が集められ伝えられたはずです。ご当主からご息女へ通達があるでしょう」
「…そうですか」
「この決定はすぐに王宮内に広がるでしょうが、あなた方から不用意に話題にしたりしないように。いいですね、スーザン嬢」
「はい。分かりましたわ」
「フィオレンツァ嬢も」
「承知しました」
「よろしい。明日の授業は予定通り行います。以上です」
「失礼いたします」
「…失礼いたします」
挨拶をして、バーンスタイン夫人の部屋を辞す。そのまま自室に戻ろうとしたフィオレンツァだったが…。
「やっぱりゲームの通りだわ。スカーレットが悪役令嬢なのね」
スーザンのその言葉に顔を上げる。彼女はわざとフィオレンツァに聞こえるように言ったらしい。視線が合った。
「…今のはどういう意味?」
「わかってるんでしょう?ここがゲームの世界だって」
「何言ってるの?『悪役令嬢』って何?スカーレット様の義弟にありもしないいじめを話していたらしいわね。あなた一体何を考えているの?」
「…あら、本当に転生者じゃないの?」
「転生者?」
フィオレンツァは瞳を瞬いた。自分のほかにもいるとは思っていたが、まさかのスーザンがそうなのか?しかしそれにしてはわけのわからないことばかり言っている。自分のように日本人ではないのかもしれない。
「私の質問に答えて。あなたはこの王宮で何をするつもりなの?スカーレット様を陥れようっていうのなら許さないわよ」
「…ふん」
フィオレンツァは目尻を吊り上げるが、スーザンは興味をなくしたように彼女から踵を返した。その後姿を睨んでいると、後ろに控えていたヨランダが近づいてきた。
「フィオレンツァ様、スーザン様と何をお話になっていたのですか?」
「…さあ?彼女の話すことは良くわからないわ」
「『悪役令嬢』って聞こえましたが」
「スカーレット様をそう呼んでいるらしいの。スカーレット様にいじめられているなんて嘘をでっち上げたりしているのよ」
「噂には聞いていましたが…子爵令嬢が公爵令嬢に喧嘩を売るようなことをよくできますね」
確かに、スーザンの行動は自殺行為にも思える。スカーレットがあまり気にしていないから目こぼしされているようだが、公爵令嬢を貶めておいてただで済むと思っているのだろうか。ティンバーレイク公爵は王位継承権があるので公職についていないが、それゆえに貴族の中でも抜きんでた存在である。いくらアプトン家が裕福とはいえ、子爵など吹けば飛ぶような存在だ。
そういえば、彼女は「ここがゲームの世界だ」と言っていた。
「ゲーム…そんなわけない。ここは現実の世界よ」
翌日、第一王子と第二王子の婚約者が決まったという通達が正式なものとして出された。
妃教育が始められた当初は公爵令嬢であるスカーレットの取り合いになり、彼女を得られなかった方にはスピネット侯爵家のロージーが宛がわれるのだろうと思われていた。しかし予想とは大きく外れた人選に、社交界はその日から大騒ぎとなった。全く注目されていなかったパルヴィン伯爵令嬢で、一番幼いエステルが第一王子の婚約者として選ばれた。そして手に入れれば王位継承に有利になると思われる大本命のスカーレットは第二王子が手に入れた。側室派が何らかの工作をしたのだ、いいやエステル嬢が幼いながら他を押しのけるほど優秀だったのだ、とか様々な憶測が流れる。
そんな中、正式に王子の婚約者となった二人の令嬢が改めて王宮の西館に通い始めた。
妃教育も、次期王宮付き教師の教育も、大詰めを迎えつつあった。
フィオレンツァに乙女ゲームの知識はありません。そのおかげでスーザンの行動の意味が本気で理解できず、スーザンには敵(転生者)認定されませんでした。




