02 宰相子息は〇〇の兄
その日、フィオレンツァはパトリシアの招待を受けて、テッドメイン侯爵家のタウンハウスへと招かれていた。いわゆる女子のお泊り会である。
しかしお泊り先が問題だ。タウンハウスと言えど舐めてはいけない。なにせパトリシアの御父上、テッドメイン侯爵はこの国の宰相閣下なのだ。国を動かす重鎮とその家族が滞在している屋敷がただのお屋敷なわけがない。屋敷の周りにはぐるりと塀が張り巡らされ、門には武装した門番がいる。
屋敷というよりは城。城というよりは要塞である。迎えによこされた馬車でこの要塞に入っていく時に、監獄に連行される罪人の気分になったのはここだけの話だ。
「よくいらして下さった、フィオレンツァ嬢。私はダン・テッドメインと申します」
「妻のポーリーナですわ」
玄関から客間に通され、迎えに来たパトリシアと話していたのだが、なんとそこへ侯爵夫妻が挨拶に来たのでびっくりする。テッドメイン侯爵は口ひげがダンディーなイケオジ。侯爵夫人は穏やかで上品な顔立ちがパトリシアそっくりだった。
フィオレンツァは動揺しながらも、とっさに淑女の礼をする。
「お招きいただきありがとうございます。ホワイトリー伯爵家の四女フィオレンツァと申します」
「以前は娘を助けていただいたとか。本当にありがとうございます」
「とんでもないことでございます。大したことはしておりませんのに、ドレスを融通していただいてむしろ恐縮しておりました」
「丁寧なお礼のお手紙は受け取っておりますわ。ホワイトリー伯爵様は良いご息女に恵まれましたこと」
あの授業初日の日にパトリシアを助けたお礼だということで、テッドメイン家にはドレスを何着か譲ってもらった。自前の数着のドレスを使いまわすつもりだったフィオレンツァは本当に嬉しくて、パトリシアに直接礼を言ったのはもちろんだが、侯爵家宛てに溢れる感謝の手紙を書いた。すると後日、「ご丁寧にありがとうございます。」という返事とともに、さらにドレスが十数着送られてきたのでかなり慌てたものだ。
「パトリシアは少しおっとりし過ぎていて親としては心配でして…。あなたのようなしっかりしたご令嬢と友人になったということで安心しておりました」
「私は…ただの田舎者ですわ。むしろ私の方がパトリシア様に色々教えていただいています。これからも良い関係を築けて行けたらと思っております」
「まあ、本当に控えめで賢そうなお嬢さんですこと」
「今日はゆっくりしていって下さい。また夕食の席でお会いしましょう」
テッドメイン夫妻が客間を出るのを見送ってから、フィオレンツァはパトリシアに向かって唇を尖らせた。
「パトリシア…ご両親がいらっしゃるのなら前もって教えて頂戴。すごく緊張したじゃない」
「ごめんなさい。ちゃんと紹介するつもりだったのよ。でもフィオレンツァが到着したって聞いたら、二人とも勝手に客間に入って来ちゃって…私がいつもあなたの話をしているから気になったみたいね」
「いつも話してるって…。変なこと話してないわよね?」
「うふふ…。秘密」
そんな話をしながら、まずはパトリシアの部屋へと向かう。今日の訪問は特に目的はなく、夕食をいただいて、時間の限りたわいない話をして、一日泊まらせてもらい、翌日に帰るつもりだ。
二階にある彼女の部屋へ向かう途中、エントランスホールが少し騒がしいことに気づく。二人で顔を見合わせ、そっと様子を窺った。
「困るのよ、クィンシー。そんなことを急に言われても」
そう言ったのは、さきほどフィオレンツァに慈愛の眼差しを向けていたテッドメイン夫人だった。にこにこと笑っているが、声音にどこか棘がある。
「なぜですか、母上?一人分くらい夕食の席が増えても問題ないでしょう」
「そういう問題ではないのよ。だいたい、彼女はどこのご令嬢なの?私の記憶違いでなければあなたの婚約者ではないわよね?」
「彼女は…ヘイスティングズ殿下に頼まれているのです。王子殿下のご命令を無下になさるのですか?」
「クィンシー。私は彼女がどこのご令嬢なのか?と聞いたのよ?この家は宰相を務めるお父様のお屋敷…王子殿下の気まぐれで得体の知れない方を入れるわけにはいかないの」
「得体が知れないなどと…!彼女はアプトン家のスーザン嬢です。ヘイスティングズ殿下から身元を直々に預かったのです!無礼は許されませんよ」
スーザン・アプトン!!?
ま た あ ん た か ! !
フィオレンツァとパトリシアはほぼ同時に天を仰ぐ。
おお神よ。どうしてこの日この時この場所に、彼女を遣わしたもうた。
「…パトリシア、侯爵夫人と言い争っているのはどなたなの?」
「クィンシー・テッドメイン…私の四歳上の兄よ。王宮で官吏をしているの。最近仕事が忙しいからって王宮に入り浸っていたみたいだけど…やっぱりスーザン・アプトンが原因なのね…」
二人で声を潜めたまま会話を交わす。会話から察するに、クィンシーは突然スーザンを連れて帰ってきて中に入れてほしいと交渉しているが、侯爵夫人に拒否されているようだ。ここでフィオレンツァが出てきて、しかも今日はこの屋敷に泊めてもらうと知れば絶対に話がややこしくなる。身を隠しているのがベターだろう。
「あ、あの…侯爵夫人、初めまして。私、スーザン・アプトンです。クィンシー様とは仲良くさせていただいています」
「…」
「わ、私実は…王子妃になる教育を受けているんですが、他のご令嬢たちに嫌がらせをされているんです!だから、ヘイスティングズ様やクィンシー様は私を心配してくださっているんです」
「…」
他のご令嬢とはパトリシアも含まれるのだろうか。侯爵夫人の周囲の温度がどんどん下がっているのが分かる。すぐ隣にいる執事さんの肩ががたがたと震えていて非常に気の毒だ。
「だから、その…今日、泊めていただければと…」
「お断りするわ」
「…え!!?」
「母上?」
「あなたのことは良く知っていてよ、スーザン嬢。私の大事なパットに火傷を負わせて、あの子はあわや傷物になるところだったのに、謝罪の一言もなかったんですもの。忘れたくても忘れられないわ」
「あ、あれは…!誤解です!パトリシア様の方が紅茶をこぼしたんです!」
「目撃者がたくさんいるのに、あくまでとぼけるのね。しかも婚約者のいるその馬鹿息子に必要以上にくっついて、突然うちに現れて泊めてほしい?寝言は寝てから言いなさい」
「ひどい…!」
「母上、スーザンは純粋な良い子です。パットとのことはきっと何かの間違いで…」
「お黙り、馬鹿息子。最近婚約者が連絡が取れないと嘆いていたけど、こんな子に骨抜きにされていたなんて情けない。その娘ともども出ていきなさい」
「母上!」
「あんまりです!クィンシーは息子じゃないですか!母親としての愛情はないんですか?もっと彼のことを、彼の本当の才能を見てあげてください」
「スーザン…っ」
スーザンは胸の前で手を組み、あのうるうるした目で侯爵夫人を睨んでいる。
クィンシーはそんな彼女を見て感動しているようだが…。
「…本当の才能って何?」
「…あとで話すわ」
フィオレンツァとパトリシアは相変わらず柱の影に隠れてこそこそと成り行きを見守っている。気分は忍者でござる。
でも一番の忍者は夫人の隣から動くことが叶わない執事さんだろう。もはや存在が希薄になっている。…立ったままお亡くなりになってないよね?
三人はその後も平行線の会話を繰り広げること20分。しかし侯爵夫人の「泊まりたいというのなら、外泊許可は取ったんでしょうね?」という台詞が決定打となった。明らかに挙動不審になったスーザンを見逃さなかった侯爵夫人が、「バーンスタイン夫人に確認しましょうか?」と止めを刺した。無言で逃げるように去っていったスーザンをクィンシーが慌てて追いかけて行く。完全に気配が消えたことを確認してから、ようやくフィオレンツァとパトリシアは柱の影から出てきた。
「お母さま、お疲れ様です」
「あら、パット。もしかしてずっと隠れていたの?」
「はい。フィオレンツァがここにいることにスーザン嬢が気づいたら、厄介なことにしかならない気がしたので」
侯爵夫人はその言葉に頷く。
「全く…あんな娼婦にいいように転がされて…」
「お、お母さま…。娼婦って」
「婚約者のいる殿方に必要以上にくっつくなんて、貴族令嬢ではありえないわ。あんなのが王宮専属教師になろうなんて世も末ね」
「大丈夫ですわ。バーンスタイン夫人の後継者になるのはフィオレンツァしかいません」
「い、いえ…私は」
「私もフィオレンツァ嬢の方が優秀だし、王宮専属教師に相応しいと思うわ。でも、ヘイスティングズ殿下がアプトン子爵令嬢を気に入っているのも間違いないみたいなのよ。それを利用しようとする人もいるみたいでね…」
さすがは宰相夫人、王宮の内情に詳しい。
フィオレンツァもうすうす感づいていたが、バーンスタイン夫人はすでにスーザンを見限っている。だがトラブルの種であるスーザンをさっさと追い出したいバーンスタイン夫人に対し、周囲が待ったをかけているようなのだ。ヘイスティングズ王子が気に入った令嬢を手元に置いておきたいから…という我が儘のように思えるが、どうもそんな単純な話でもないらしい。宰相夫人が言葉を濁しているところを見ると、高貴な身分の人の思惑が絡んでいるようである。
「クィンシーもどうしてあんな子になってしまったのかしら。ちょっとバイオリンを褒められたくらいで」
「バイオリン?」
もしかして、さっきスーザンが言っていた「彼の本当の才能」だろうか。パトリシアの方を見ると、困り顔で肩をすくめていた。
「クィンシーは第二王子の元で働いているのよ。そこでスーザン嬢と会う機会が多かったらしくて…。最初は『随分馴れ馴れしい令嬢だ』って言ってたくせに、ある日突然『彼女は素晴らしい』『彼女は純粋で心優しい人だ』って褒め出したの」
どういうことか聞き出したところ、彼女はクィンシーがバイオリンを趣味にしていることをどういうわけか知っていて、そして聞かせてほしいと強請ったのだそうだ。そしてリクエスト通り聞かせてやると「あなたのバイオリンの音色は素晴らしいわ。きっと音楽の神様に愛されているのね」とべた褒めしてきたという。
「お兄様のバイオリンはそんなに上手なの?」
「確かに上手よ。5歳から弾き始めて、『神童』なんて呼ばれていたこともあったらしいわ」
「それは音楽の教師のお世辞よ」
厳しく付け加えたのは宰相夫人だ。
「上手だし、才能もそこそこあったと思うわ。でも音楽一本でやっていくほどのものでもないし、何よりそんな根性がある子じゃないのよ」
「クィンシーも一度は音楽の道を諦めて、今は父の後を継ぐべく王宮に仕えているわ。でもスーザンに持ち上げられて、最近また音楽をやり直したいって言い始めたのよ。お父様も説得しているけど、最近は『僕は本当は父上の後を継ぎたいわけじゃなかった』『本当の僕を分かってくれるのはスーザンだけだ』って口答えする始末で…」
どうやら、官吏の仕事は嫌々やらされている、音楽の道を無理やり閉ざされたと不満が爆発したらしい。スーザンめ、何してくれてんだ。クィンシーもクィンシーだ。高位貴族の家に生まれて恵まれた環境で育った以上、将来は民のために働かなくてはならない。貴族としての特権だけ享受しておいて、音楽の才があったから夢のためにそれを伸ばしたいだなんて勝手すぎる。それは貴族の身分を捨ててから言える台詞だ。
「…いっそのこと、音楽団に半年ほど放り込んだらどうです?」
「え?」
低い声で言ったフィオレンツァに、パトリシアと宰相夫人が目を剥いた。
「ほら、あるでしょう?都市をあちこち移動しながら音楽を披露する楽団が。音楽一つで生きるということがどういうことか、身を以て思い知ればいいんですよ」
そして貧乏を知れ。ああいった楽団はどれほど稼いでも、だいたい高価な楽器のメンテナンスなどに金が消えていく。自分のことは自分でしなければならないし、移動ばかりしているのでホテルのベッドで寝られる機会は少ない。野営も当たり前で、かなり過酷な環境だと聞いたことがある。本当に音楽を愛し、音楽に身を捧げる覚悟をした人でないと耐えられないだろう。さきほど宰相夫人はクィンシーには根性がない、と言っていたのもそういうことだ。
「フィオレンツァ…。結構過激ね」
「そう?なんだか腹が立っちゃって…。こんなに恵まれた家に生まれて、素晴らしいご両親とパトリシアみたいな可愛い妹がいるのに、それに感謝することもなく、自分の都合だけ口にするなんて…貴族としての自覚が足らないと思うわ。そんな方と王宮で同僚になるかもしれないなんて嫌よ」
そう言ってぷりぷりと怒るフィオレンツァを、パトリシアが困ったように、けれども嬉しそうに見た。
すっかり長居してしまった宰相夫人の前を辞し、ようやく二人でパトリシアの部屋へと向かう。そんな二人を見送りながら、宰相夫人の目はらんらんと輝いていた。
その後、パトリシアと一緒にケーキを食べたり本を読んだりしてすっかり機嫌を直したフィオレンツァは、テッドメイン家の夕餉に招待してもらい、楽しい時を過ごした。翌日に王宮へと戻り、また勉強に追われる日常に戻る。なのでそれ以来、パトリシアの夢見がちな兄のことはすっかり忘れていたのだが…。
クィンシー・テッドメインの名前を久々に思い出したのは、二ヵ月ほど経ってから。領地の父からの手紙でだった。曰く「宰相閣下から『お宅のフィオレンツァ嬢とうちの嫡男をお見合いさせたい』って使いが来たけどどういうことなの!!?」とのこと。
仰天してパトリシアに確かめたところ、何とフィオレンツァが言った荒療治を、宰相夫妻が本当にやってのけたという。あのお泊り会の翌日クィンシーに官吏の仕事を休ませると、バイオリンといくらかの金だけ持たせて国内を中心に活躍する楽団に放り込んだらしいのだ。もちろん腐っても宰相子息なので、事件に巻き込まれて身柄を利用されないよう護衛は付けていたが、そのことを本人には知らせなかったらしい。案の定過酷な環境にクィンシーは一週間で音を上げたが、宰相に事情を説明されていた楽団長は、半泣きの彼を一ヵ月しっかりと拘束してこき使った。そして這う這うの体で戻ってきたクィンシーはバイオリンを処分し、両親にこれまでのことを深く謝罪したそうな。
一週間って…。本当に根性なかったのね。
心を入れ替えたクィンシーは両親とは何とか和解したものの、婚約者の侯爵令嬢とは破局しかけたらしい。彼がスーザンにうつつを抜かしていたことが相手の親にばれ、親子揃って謝罪に行ったものの話が揉めに揉めて婚約破棄寸前だったそうだ。宰相閣下がホワイトリー伯爵にお見合いの提案をしたのもその頃だろう。しかし結局お相手の令嬢がやり直すことを希望し、相手の親も女性側に不利が多い婚約破棄にはリスクがあると判断して婚約は続行になった。
「ホワイトリー伯爵様にはすでに謝罪と経緯を説明する使いを出しているわ。きっと行き違いになったのね」
「…私抜きで話を進めないで頂戴」
「ごめんなさい、私も兄が婚約破棄しそうなことは知ってたんだけど、両親が次の相手にあなたを考えてるなんて知らなかったの。でも残念だわ。あなたと義姉妹になれるところだったのに」
「パトリシアには悪いけど、あんな夢見がちな男の人嫌よ。スーザン嬢にころっと騙されるところも信用できないわ。きっと結婚したところですぐ浮気されちゃうわよ」
「母もそう思ったからこそ、あなたに義娘になってほしかったんじゃないかしら。フィオレンツァならあのふわふわした兄をきちんと操縦できると思ったのよ」
「操縦って…」
フィオレンツァはそんな話をしながらも、パトリシアの家族の問題が解決したことを知りほっとするのだった。
「クィンシーが突然王宮の仕事を休んだと思ったら、別の部署に配置換えになるなんて…。しかも話しかけても無視されるようになっちゃうし。もうっ!どうしてゲームとは違うことばかり起こるのよ!第二王子しか攻略できてないじゃない。…やっぱりフィオレンツァのせいなの?あんなキャラ、ゲームにはいなかったもの」




