唇を噛む者
鐘楼の建っている広場近くの宿屋。
そこで寝泊まりしているフィーユは、部屋から窓越しに振り続ける雨を眺めていた。暗い雲を見て当分雨は止みそうにないなと思い、じろりと室内に視線を移して口を開く。
「バルバール…いつまで寝てるつもりですか。いい加減にベッドから降りてください。」
傭兵としての服装に身を包んでいるフィーユは、壁際にあるベッドに歩み寄り、呆れた顔でバルバールを見下ろした。
「あぁン? なんでも願いを2つ聞くっつー約束だゼ。ベッドを好きに使うのが1つ目って言ったろーが。」
別にい〜だろっ。と言い放ち、バルバールは頭の後ろで腕を組んで瞼を閉じたまま欠伸を漏らす。フィーユは俯いて額に指先を当てながら、溜息を吐いた。
昨夜、パンを食べた後に宿屋に帰ろうとしたフィーユは、見回りついでに連れてってやるとバルバールに言われて宿屋まで2人で来た。明かりを持たず闇雲に逃げていた為にフィーユは現在地も分からず、松明を持っているバルバールと一緒の方が早く帰れると思ったからだ。
『 あ〜…報酬はどうすっかな〜。まぁ、大したことしてねェし……1日分の食事代と、俺の願いごとを2つ聞くだけで良いゼ。』
お得だゼ〜と言われて了承したフィーユは、どんな願いか内心ドキドキして身構えていたが、1つ目をベッドの使用に使ったことに拍子抜けした。
雨が降り始めて、バルバールは雨宿りついでに宿屋に居座り続けていたのである。
「っあ〜〜リグレットが来るかもしンねェし、そろそろ孤児院に戻るかぁ…。」
腕を伸ばして気だるそうに上体を起こしたバルバールは再び、ふあああ〜っと大きな欠伸を漏らす。それを見てフィーユも欠伸が出そうになったのを、口をキュッと結んで耐えた。耐える時に目に力が入り、睨まれたと思ったバルバールは、頭をかきながら小さく舌打ちする。
「タクトと貴方は孤児院出身でしたね…よく行くんですか?」
「あ? …まぁ、な。孤児院は俺にとって宿屋みてーなもんだよ。」
へっと小さく笑ったバルバールに、フィーユは眉をひそめる。孤児院を宿代わりにするなんて、お金を浮かせて女遊びに使うのかと思ったフィーユは、不愉快そうにバルバールを見つめた。ギシっと軋んだ音を立てながら立ち上がったバルバールは、床に置いていた胸当てを付けて剣を腰に下げると窓に歩み寄り、振ってンな〜。とげんなりした表情で外を眺める。
フィーユは室内の中央にある椅子に座り、丸テーブルの上に置いてあるボトルから、ワインをカップに注いで一口飲む。テーブルの下には空のボトルが数本置いてあり、その殆どがバルバールが飲んだものだ。
「…タクトはこの間、孤児院の子たちにお菓子を買って持って行ったそうですよ。」
女遊びよりも使うことがあるでしょうと思いながら遠回しに言ったフィーユに対して「へ〜。俺の口には入らなかったな…。」とバルバールは残念そうに返した。それを聞いて、はぁ…とフィーユは肩を落とす。
「フィーユさん。お客様がいらしてますよ。」
扉が叩く音がして、部屋の外から宿屋の女将に声をかけられた。すぐに行きます。とフィーユは返答して持っていたカップをテーブルの上に置くと、立ち上がって部屋から出ようと……
ガシッ!と扉の手前で突然バルバールに腕を掴まれたフィーユは、振り返って怪訝な顔をした。
「…その、『客』っつーのは、大丈夫な奴か?」
あれだけ兵から必死に逃げていたフィーユに、何か複雑な事情があるのだろうと察していたバルバールは、窓の外から宿屋の前に豪華な馬車が止まっているのを見て咄嗟に引き止める。バルバールが手を離すと、2人の間に暫し沈黙が続いた。
……バルバールが、私を心配してくれてる?
目を伏せたフィーユは、そんな訳ないと頭に浮かんだ考えを打ち消すように軽く首を振って、室内にあるクローゼットに歩み寄った。
「もしかしたら、私を連れ戻しにきたお父様かもしれません。それなら、このドレスと装飾品を突き返してやりますよ。」
傭兵には不要な物ですから…と言って小さく笑むフィーユに、バルバールは目を丸くする。笑っている顔を初めて目にして、そんな顔もすンだな…と思いながら、まじまじと見ていた。その視線に気づいてムッとした表情になったフィーユは、昨夜着ていたドレスと装飾品を手に持ち、部屋を出る。
……今のうちに外に出とくかぁ…。
ボトルをカップに注がずに煽ったバルバールは、プハァ〜と息を吐いて口元を乱暴に手の甲で拭うと、床に置いていた袋を肩にかけて部屋から出た。
……その『お父様』って奴が、もし部屋に上がってきたら面倒そうだ。
俺はいない方がいいだろうし、あの調子なら大丈夫だろっ。とフィーユの笑みを思い出して首をポキポキと鳴らしたバルバールは、女将に一泊した分の宿代を払い、裏口から外に出て雨の中を孤児院に向かって歩き出した。表に止まっていた馬車の中で話をしていたフィーユは、バルバールが出て行ったことに気づかないまま馬車を降りると宿に入る。
その手には、ドレスと装飾品を持ったままだ。
重たい足取りで厨房に向かったフィーユは、宿屋の主人と女将が止めようとする声を無視して、火の付いている竃の中にそれらを投げ入れる。
女将が、なんて勿体ないことを…! と悲鳴のような声を上げているのも構わずに、無言のままフィーユは燃えるそれらを、魂のない人形のような表情で見つめていた。その表情を見て女将は一度口を噤み、恐る恐る口を開く。
「……そ、そういえば…お連れは宿代を払って、出て行きましたよ…。」
表情を変えないままフィーユは「そう…」と無機質な声で返すと「しばらく…いえ、もう私は戻らないから…」と言葉を続けて、腰に下げていた袋を女将に手渡す。中身はフィーユの持ち金、全てが入っていた。
部屋に戻って扉を開けたフィーユは、誰もいない室内を見回して…唇を噛む。
私物を特に置いてなかったフィーユは、クローゼットにかけてあったマントを手に取って羽織ると、宿の前で止まったままの馬車に乗り込み、緩やかなスピードで馬車は進みだした。
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次話、ルミナス視点になります。




