前世と今
「ヒッヒッフーヒッヒッフー……」
まずは落ち着こうと、前世でリラックス法といえば…と思い出しやってみる。地下室でうずくまったまま、ひたすら落ち着け落ち着け…と自分に言い聞かせながら。出産の時にするものだが、少しは冷静になってきた気がする…あくまで気がするだけだが。前世で使用したことはない。
前世では出産はおろか結婚していた記憶はなく、それどころか、彼氏がいたこともない。
「私…いつ死んだんだろう…」
いつ死んだか、なんで死んだかは思い出せない。
でも名前や年齢、その時夢中になっていたゲームの事は思い出せる。
橘 薫 30歳 会社員
高校を卒業してからずっと働きづめで、30歳をむかえ、実家から結婚はまだか…彼氏は…とグチグチ言われていた。自分からあまり人と交流しなく、一人でいることが多かった。漫画やアニメを観るのが大好きで、彼氏も30年間できたことはない。
好きな声優のアニメが乙女ゲームであるのを知り、初めて乙女ゲームをやったが…見事にハマった。
徹夜でスチルを集め、次の日会社に遅刻をしてしまうほど。
私がハマった乙女ゲーム「光は君だけに」
通称「ヒカキミ」サンカレアス王国、王都にある学園が舞台で、ヒロインの男爵令嬢が攻略対象と恋をする、恋愛シミュレーションゲームだ。そしてヒロインの敵、攻略対象との恋を邪魔するのが、ルミナス・シルベリア侯爵令嬢。
ルミナスは黒い髪がストレートで腰まで伸びており、つり目な銀の瞳、綺麗だが少しキツめな印象で、スラリとした手足に出るところはちゃんと出ている……
ちなみにヒロインはピンクの髪がフワっと膨らんだボブヘアーと水色の瞳。身長が低く、庇護欲がそそられる愛らしい印象だ。
攻略対象は第三王子・騎士団長の息子・宰相の息子・獣人国の第一王子
そして隠しキャラが一人いたはず……
「あれ?隠しキャラ…誰だっけ?」
思い出せない。もしかしたら、隠しキャラを攻略する前に死んだのかな。
前世の記憶を取り戻したが、もちろんルミナスとして生きてきた18年間の記憶もある。
でも言葉遣いや物事の考え方は橘 薫が前面にでている。ルミナスの精神がなくなったわけではなく、すっぽりと薫が包み、受け入れた感じだ。
ゲームで私は、悪役令嬢でヒロインの敵だ。ヒロインをいじめ、暗殺未遂で投獄、悪役令嬢が殺されるルートもあった。
ゲームをしていた時はそれで納得していたが、今の私は納得いかない。
婚約者の第三王子のことを、私は凄く大好きで学園で王子と仲良くしているヒロインに嫉妬し、他の令嬢とともに嫌がらせをした。でも嫌がらせといっても、王子に対して馴れ馴れしくするな、と忠告したり令嬢達のグループに入れなかったりしただけで、暗殺未遂や物理的なことはしていない。
牢屋に入る前のことを思い出す……
ルミナスにとって、人生で一番最悪な日だ。
その日は、学園の卒業パーティーの日だった。
婚約者であるマーカス・フォン・サンカレアス第三王子。緑の髪に緑の瞳で、国一番の美貌をもつといわれている、母親似の美しい顔立ちをしている。
パーティーでは彼にエスコートしてもらえると喜んでいたが、マーカス王子は隣に男爵令嬢のクレア・モリエットを連れていた。
それだけではなく、ダンスもクレア嬢と踊り、ルミナスにはパーティー中近づきもしない。
周りもその様子に一体王子はどうしたんだ、と囁きあっているが、パーティーが終盤にかかった頃、マーカス王子がルミナスに近づいてきた。
クレア嬢とともに。
そしてルミナスに向かって、お前との婚約は破棄してクレアと私は結婚する!と一方的に言われたのだ。
パーティーの会場内は騒然とし、なんとかパーティーに出席していた国王がその場は収めて、解散となった。ルミナスはマーカス王子と話がしたかったが、王子は国王に連れられ帰ってしまったので、話はできず。
自分もとりあえず屋敷に帰ろう…と帰り支度をしていた時、クレア嬢の従者から、手紙を受け取った。
《二人だけで内密に、お話ししたいことがあります。》
クレア嬢からの手紙を見た瞬間、ルミナスはすぐに外に向かった。 誰にも言わずに一人で。
手紙には、屋敷では使用人や他の目もありますので馬車の中でお話しましょう。と書いてあり、クレア嬢が用意していた馬車に乗り込んだが、馬車に乗ってすぐ、何者かに薬を嗅がされ眠ってしまったのである。
「………クレア嬢に嵌められた…のかな…なんだか、ヒロインじゃなくてあっちが悪役令嬢みたいなことしてるし……」
はぁ―……と、深いため息がでる。
「……とにかく、ここから逃げないと…」
自分は牢屋の中にいる。辺りをキョロキョロと見回すが枷を付けられ、牢屋の中にいる今の自分にあらためて詰んでるなぁ…と思い知らされる。
ルミナスは身体能力が高いわけでも、魔法が使えるわけでもない。記憶を辿っても、ルミナスは魔法を使ってる人を見たことはなく、代々国の王だけが使えると聞いたことがある。
せめてもっと前に前世の記憶を思い出していれば、この状況を回避することもできたかもしれないが…
なんの打開策も思いつかないまま、扉が開く音に気付き慌てて横になり、寝たふりをする。
「まだ眠っているのか…少し薬がききすぎたか…」
男の声がして、叫びそうなるのを必死で抑える。
スミス・モリエット男爵。
クレア嬢の父親だ。
目を閉じていて姿は見えないが、何度か貴族が集まるパーティーで話かけられたことがある為、わかる。
モリエット男爵には悪い噂が多々ある。
それを思い出し、ゾッと悪寒がする。
「…起きたときどんな反応をするか…泣いて叫ぶか、ここから出してと懇願するのか…クレアや王子達に向けての罵声が先か…」
男爵の気持ち悪い笑い声が聞こえ、ルミナスの体が強張り、鎖の音が地下室に響く。
「…ん?起きたか…?」
しまった…!後悔をしても、もう遅い。
男爵が一歩ずつ近づいてくる。
「反抗するようなら、調教が必要だからなぁ…」
体がガタガタと震えて、また鎖の音が地下室に響く。
もう寝たふりも意味はない。
くるなくるなくるな――…!
ルミナスが必死に心で叫んでも、男爵の歩みは止まらない。牢屋の鍵を開ける音、男爵の鼻息が聞こえてきて恐怖する。
いやだ…いやだいやだいやだ―…!
自分の心臓の音がうるさい。
男爵が鍵を開けて中に入ろうとした時、ルミナスはなんとか男爵の隙をついて牢屋から逃げれないか考える。しかし足も枷をつけられ、鎖で繋がれた状態で満足に動けるはずがない。
でも、なんとか―…そう思い体に力を入れて立ち上がろうとするが、目を開けた瞬間体が固まる。
男爵はすでに自分の目の前に立っており、右手に見える鞭が目に入ったからだ。
「グフフ…ルミナス…お前はもう私のものだ…」
男爵はそう言い、ルミナスに触れようと手を伸ばす。
心臓の音がうるさい。
体の震えが止まらない。
こわいこわいこわいこわい―…
男爵がルミナスに触れた…
その瞬間
男爵の前からルミナスの姿が忽然と消えた。