イアンは、深呼吸を繰り返す
ルミナスが全身を侍女達の手によりピカピカに磨かれていた頃、男湯の方ではイアンとリヒトがそれぞれ黙々と体を洗い終えて、湯に浸かっていた。
着替えなどの手伝いは全て断って使用人には下がってもらったため、風呂場内には2人だけだ。
「隣ではルミナスが入ってるぞ…」
覗きたかったら、魔法で穴を開けてやろうか? と真顔でリヒトが聞くと、ザブンっ!と勢いよくイアンは湯の中に顔を突っ込んだ。
「……俺を犯罪者にしたいんですか…? 」
「冗談だ。」
濡れた髪を払うように左右に首を振って眉をしかめるイアンは、リヒトの言葉にうんざりしたような顔でため息をつく。
「そういえば…影移動するのが、うっかり遅れて見てしまったが…イアンはキスをするのが下手だな…。」
再びイアンは顔を湯に沈めて、心の中では声にならない悲鳴を上げた。
……迂闊だった。日中はリヒト様が影の中にいるんだもんな…。ルミナスがあんまりにも可愛くて…………
夜じゃないとダメか…と考えながら、イアンは湯の中から顔を出して腕を前で組む。ルミナスは会話のキャッチボールができていないと一時悩んでいたが、イアンの脳内はルミナスで常に埋まっている。脳内比率は出会った頃と何ら変わらずルミナス100%だ。
日々の鍛錬も、ルミナスを守りたいと想うからこそである。アルを気にしているのは、野放しにしておいて良いと思えない相手であるのと、ルミナスに害をなす恐れがある者は徹底的に排除すべきと考えているからだ。
「女性の風呂は長いから…わたし達の方が先に上がることになるな。」
リヒトの言う通り、この時まだルミナスは体を磨かれている最中であった。2人は湯から上がるとリヒトが洗浄魔法で綺麗にした服にそれぞれ着替えて、ルミナス達が上がるのを待つことにする。
使用人に別室へと案内されることになり廊下を歩いていると、アーチ状の窓からは広々とした手入れの行き届いた木や生垣の植えられている中庭が見える。
薄暗くなってきた中庭はひっそりと静まり返っており、日が暮れるのが段々と早くなってきた…とイアンは思いながら、リヒトと並んで廊下を歩く。
案内された別室に入ると、室内にはアンジェロ、スティカ、シルフォード、王子達三人がソファに座っていた。事前に部屋に入る前から使用人に王子達がこの部屋にいる事を聞いていた為に驚かなかった二人だが、シルフォードを目にしてイアンは僅かに眉をひそめる。ルミナスが子供好きと分かっているからこそ、見た目が可愛らしくとも油断ならない気がして、イアンはシルフォードに苦手意識をもっていた。
三人が座る正面のソファにイアンとリヒトが腰を下ろすと、使用人がテーブルの上にグラスを二つ置き、ワインを注ぐ。アンジェロは使用人達を下がらせると、リヒトに対して跪こうと立ち上がってスティカとシルフォードに目配せしたが、不要だ。とリヒトに淡々と告げられソファに座り直した。
……スティカ王子は、ビクビクし過ぎじゃないか?
リヒト様が目の前にいて緊張するのは仕方ない。執務室で威圧的だったリヒト様に対して、魔人の存在を知る者としては恐れを抱いて当然だ…と思いながら、グラスを手に取り風呂上がりで乾いた喉を潤すイアンは、三人を見ながら軽く息を吐く。
アンジェロ王子は表情が僅かに硬くなっていて、シルフォード王子は普通だが……スティカ王子は小刻みに体が震えていて、ずっと俯いている。
時々前髪を指でいじりながら顔色が悪いように見える姿は、まるで追い詰められた小動物のようだ。
「……なんだか…甘い香りがしますね。」
何の香りでしょうか? と尋ねながら、シルフォードがニッコリと笑みを浮かべた。
「…きっと薔薇の石鹸の香りだ。ルミナスが持たせてくれた物で、明日も使えるように風呂場に置いてきたから…使っていいからな。」
「ありがとうございます。お風呂に入るのが楽しみです。」
イアンの返答に満面の笑みを見せたシルフォードは、カップを口に運んで紅茶を嗜む。
なんで王子達は俺たちを待ち構えるかのように、この部屋にいたのだろうか…と疑問に思ったイアンがアンジェロ王子に質問すると「国王陛下から滞在中の皆様の身の回りのことを任せられています。部屋でお過ごしになって、何か不都合が無いか聞きに参ったのです。」とアンジェロは穏やかな表情で答えた。なら、残りの2人は…と気になったイアンが再び疑問を口に出すと、嫌がるスティカの手を引いているシルフォードと廊下で出会い、この部屋まで来ることになったとアンジェロから教えてもらう。
……兄として弟に振り回されるのはどうなんだ…?
イアンがスティカに視線を向けると、視線に気づいたスティカは肩をすぼめて、顔を横に逸らした。
「…特に無いな…快適に過ごさせてもらってる……」
リヒト様は? とイアンが尋ねるとリヒトは「大丈夫だ。」と一言返してアンジェロはホッと安堵の息を吐いた。リゼを怒らせた件があった為、言葉を慎重に選ばなければ…と考えるアンジェロは、リヒトに話しかけるのを躊躇していた。
誰も言葉を発することなく、室内がシン…と静まるなか刻々と時間だけが過ぎていき、その頃ようやくルミナス達が風呂から上がっていた。イアンとリヒトが別室で待ってることを使用人から聞いたルミナスは、マナと王女達より先に、急ぎ足で廊下を進む。
「……待たせて、ごめんなさい。」
はぁ…と呼吸を軽く乱して頰を赤らめているルミナスの姿に、室内に薔薇の香りが充満しているような、甘い空気が漂う。
「……ルミナス…様…お風呂はいかがでしたか…?」
ソファに歩み寄ってくるルミナスにアンジェロが尋ねると、「とっても気持ちよかったわ。」と耳に髪をかけながら照れたような笑みを浮かべたルミナスに、室内にいた数名が、強い衝撃を胸に受けたような気になっていた。
一人でのんびり浸かるのも良いけど、みんなでワイワイしながら入るお風呂は楽しいな…と思っているルミナスは、王女達と友達になれて何より嬉しかった。
「…るっ、ルミナス……マナは?」
振り絞るように声を出したイアンは、風呂上がりのルミナスを他の男達の目から隠したいという独占欲に駆られながらも、なんとか平静を装って質問する。
「実は……」
そうしてルミナスは、自分が先に来た理由を話し始めた。要はお菓子を食べすぎたからお腹が空いていないため、ディナーを欠席しに言いに来たのである。風呂に浸かって燃焼されるかと考えていたが、大して変わらなかったのと、自分達を待っていると知って先に伝えに来たのであった。ちなみにマナにディナーを欠席すると着替えをしながら伝えた時は、えーっ!私はまだまだ余裕ですよ〜っ! と素っ裸のまま、オッサンみたいに腹をポンポン叩いていた。
「ルミナス様。実は僕も紅茶を飲み過ぎてしまって…お腹が空いていないのです。部屋まで話をしながら歩きませんか?」
立ち上がってルミナスの側に歩み寄り、エスコートするようにシルフォードが、そっとルミナスに手を差し出す。抜け目ない奴だな…! とイアンは心の中で思いながら、本当にお腹が空いていないのかと疑いの目をシルフォードに向けた。
「…ええ、一緒に歩きましょう。」
城に着いて入口の前でのやりとりが頭を過ったルミナスは、くすりと微笑みシルフォードの手を取る。
後から来たマナとリリアンヌ、メイシャも室内に入ってきて、ソファに座っていた面々が立ち上がって移動しようと……
「…スティカ王子。手を見せていただけないかしら?」
前髪をいじりながら俯き気味のスティカは、突然ルミナスに声をかけられて、ビクリと肩が跳ねる。
ルミナスは、シルフォードと握っていた手を離して二、三歩足を運ばせると、スティカの目の前に立つ。
周りが、どうしたのか疑問に思いながら成り行きを見守っていると、ルミナスはスティカの手を優しくつかみ、手のひらを上にして自分の方へと引き寄せた。
「―――っ〜〜!? なっ、な、なに…どっ、ど…どうされ……っ……」
プルプルと体を震わせているスティカは、突然の出来事に理解が追いつかなく、パニック寸前になっていた。ルミナスがスティカの指を見ながら…汚れていたみたいだから、気になったの。と言って、ニコリと微笑む。その言葉にハッとしたスティカは、慌てて手を隠そうとしたが…それは不敬だろうかと考えて手を引くことを躊躇した。
スティカの指の腹には黒ずんだ汚れが僅かに付いていて、その手で前髪を触っていたために髪にも汚れが僅かにだが付いていた。注意深く見なければ気づくことは無かっただろう。しかし前髪をいじって俯いているスティカが気になって見ていたルミナスは、その汚れに気づいて手を見せてもらったのである。
「…綺麗にしてあげるわ。」
ゆっくりとした口調で話したルミナスは、スティカが怯えないように、そっとスティカの手を包み込むように両手で握りながら、魔法を行使する。
スティカは…震えが止まっていた。
スティカ自身もよく分からない感情が胸の内にあり、ただ、ただ、間近にいるルミナスに見とれていた。人と目線を合わせるのが怖いと感じて、いつも俯き気味なスティカは、この時ルミナスと初めて視線を交わした。呆然しているスティカの手を離したルミナスは、綺麗になった手と髪を見て満足そうに微笑むと、近づいてきたシルフォードの手を取り、再び扉に向かって歩き出す。
「スティカ、ルミナス様にお礼を…」
アンジェロがその場で立ち尽くしているスティカの側に行き小声で囁くと、我に返ったスティカが慌てた様子で「―――るっ、る、ルミナス様っ……あっ、あの……っ…」精一杯に声を振り絞るスティカに、ルミナスはふわりとワンピースの裾を広げながら振り向いて、にっこりと優しい笑みを浮かべた。
「皆さんと今夜はディナーをご一緒できずに残念ですけれど…明日のパーティーが、とても楽しみだわ。」
おやすみなさい。と挨拶をしたルミナスは、シルフォードと共に使用人や護衛の者達を引き連れて廊下を歩いていく。マナはリヒトに、ディナーはどんな美味しいものが出るんですかね〜と楽しそうに話しかけていた。腕を前で組みながら少しムッとした表情のイアンは、頰を赤らめて自分の手を大事そうに胸に当てているスティカに視線を向けている。王子と王女達は、無言のまま、ルミナスの後ろ姿を見つめていた。
…………………
……………
ディナーを終えて部屋に戻ってきたイアンは、蝋燭の明かりが灯されている室内で、寝室に向かって歩みを進める。ベッドの側に剣を立てかけて、隣の寝室と繋がる扉の前に立つと、深呼吸を繰り返す。
……どうする!? 行くか…いや、もしかしたら寝てるかもしれないな。だが、夜しかルミナスと触れ合えないし……き、キスだって……!!
うろうろと寝室を歩き回り、扉の前で足を止めてはルミナスへの想いを巡らせていた。




