侍女頭は、願う
142話 フリージアが涙を流した後の、フリージア視点の話になります。
涙を流したのは、いつぶりだろう。
ルミナス様の前で、これ以上醜態を晒してしまわないように、わたくしは急ぎ足でその場から離れる。
ルミナス様の言葉を聞いて、嬉しさのあまり自然と口角が上がりそうになるのを必死に堪えた。
侯爵家に仕える侍女頭として、常に自分の周りには人目があると意識している。
………アイリス様にルミナス様のお声を届けられたら良いのに……
歩みを止めないまま指で目に溜まる涙を払うと、わたくしは真っ直ぐに前を見据えて、城内に戻るために中庭を歩き続けた。
わたくしは子爵家の三女として産まれ、母親の厳しい教育を受けながら育った。両親に甘えたことも、優しい言葉をかけてもらった記憶も無い。
『 誠実であれ 』
母親が何度も口にしていた言葉が、今でも強く頭の中に残っている。わたくしが婚期を逃していると、父親からの打診で侯爵家の侍女として働くことになった。
『 私はアイリスよ。貴方の名前は? 』
ダリウス様に案内された先には、室内の窓辺にひっそりと佇む女性がいた。それが、わたくしとアイリス様との出会いだ。窓から入る風でなびく絹糸のような長い黒髪に、白く透き通るような肌。シンプルなドレス姿のアイリス様は儚げで美しく、その姿にわたくしは目を奪われた。
『 あれだけ望んでいたのに…どれも色褪せて見えてしまう。 』
お召し替えの時にアイリス様が不意に呟いて、その表情は、とても悲しげだった。
ドレスや装飾品に目を向けないアイリス様は、憂いを帯びた表情と寂しげな微笑みを浮かべることが多く、わたくしは心の中で何を想ってアイリス様が、そのような表情をするか気になっていた。
アイリス様のお世話をしていた侍女頭の女性は、素性の分からないアイリス様を怪訝に思っていたけれど、わたくしはアイリス様の素性を特に気にすることは無かった。
誠心誠意、侯爵家に仕えるのが……今のわたくしの存在意義だと思ったから。
ブライト様が産まれて、アイリス様は乳母の手を借りずに自分で育てたいと言って子育てに励んでいた。この頃のアイリス様は、とても幸せそうな表情を見せるようになり、ダリウス様はアイリス様をいつも気遣っていた。アイリス様は誰隔たりなく優しく接し、いつしか城内の中心にはアイリス様がいて、皆がアイリス様を慕うようになっていた。
『 子供はなんて愛らしいのかしら。…ねぇ、フリージア…貴方にも母になる喜びを知ってほしいわ。 』
生涯独身でいようと思っていたけれど、アイリス様の言葉とダリウス様の計いによって、わたくしは密かに想いを寄せていた相手と結ばれて、マーガレットが産まれた。侍女も続けさせてもらえる事になり、日中マーガレットは乳母に託して、わたくしはアイリス様の側にい続けた。
アイリス様の出産は産婆の女性とダリウス様が室内に残り、他の者は入れない。何もお手伝いできない事に歯痒く思いながらも、入ってはならないとダリウス様が仰るのだから、わたくし達使用人は従うのみだ。
『 アイリスは…亡くなった… 』
ルミナス様の産まれた日。
ダリウス様の悲痛な顔と重く沈んだ声に、自分の目と耳を疑った。
美しく、優しいアイリス様。
使用人達にも優しく接してくれたアイリス様。
貴方様は…わたくしに、子を成す喜びを教えてくれた。
アイリス様に、もっと、もっと…お仕えしたかった…
アイリス様が亡くなった頃に夫を馬車の事故で亡くし、わたくしは心に穴が空いたような感じがしたけれど、悲しみに耽ることなかった。自分には、侯爵家の侍女としてやるべき事があるのだから。
『 私を産まなければ、お母様は亡くならなかったのに! 』
ルミナス様の言葉が、深く胸に刺さった。
そんな言葉を…口にしてはならない。
アイリス様は、ルミナス様をお腹に宿していると知った時から、会える日を心待ちにしていた。
わたくしは、その時ルミナス様を抱きしめることしか出来なかった。ダリウス様は理由を教えてはくれないけれど、アイリス様に関することを一切ルミナス様に話してはならないと、使用人達に厳しく仰っていたのだから。
「マーガレット。イアン王子とルミナス様が戻られる前に食事の準備を…」
城内の廊下を歩いているマーガレットとすれ違い、わたくしは声をかける。するとマーガレットは足を止めて「はい。既に準備は整えてあります。後はお戻りになり次第、食事の配膳をするのみです。」と返して再び足を進めた。ルミナス様方が戻るのを、城の入り口で待つのだろう。
わたくしはルミナス様方の事をマーガレットに任せて、ダリウス様の元へ向かうべく執務室へと向かって足を進める。
マーガレットの表情や声は、最近明るくなったように感じる。まだ侍女として未熟な所もあるけれど、マーガレットは……わたくしにとって自慢の娘だ。
自分の母親にされてきたようにマーガレットに厳しく躾をしてきたけれど、マーガレットは弱音1つ吐かなかった。幼い頃にマーガレットが高熱を出して一日だけルミナス様の側を離れて休みをいただいた事がある。
『 もっと休みを取ってもいいんだぞ? 』
ダリウス様の言葉に対し、わたくしは丁重にお断りした。マーガレットからしたら、わたくしは酷い母親なのかもしれない。幼い頃は寂しい思いをさせた自覚もある。
けれど、ルミナス様の側を離れたくは無かった。
自分がアイリス様の代わりになれるとは思わない。
そう思うのも恐れ多いことだと分かってはいるけれど……
ルミナス様の成長を見守るのも、わたくしの務めだと思っていた。
わたくしがアイリス様に惹かれ、生涯の主として心に想ったように、今のマーガレットもルミナス様に惹かれているように見える。もしかしたら、ルミナス様の側で仕えたいと思っているかもしれない。
以前のルミナス様は、わたくしの言葉にも周囲にも目を向けず、耳を傾けようとしなかった。
ルミナス様のお力には目を見張るものがあり、心境にどんな変化があったのか分からないけれど……
『 わたくしは今とても幸せよ 』
その言葉を聞けて、わたくしの心が満たされたような気がした。
「おや? もしや…泣いていたのですか?」
「……何を馬鹿なことを…」
目が曇ってるようね。と内心動揺しながらも素っ気なく返せば、セドリックは目尻の皺を寄せて笑みを浮かべる。執務室の扉の側に立っていたセドリックにダリウス様はどうされているか問えば、今ブライト様と2人きりで話をされてると答えられた。
「いい加減に眼帯を外したらどうなの…」
「フリージアを想って付けたのですが、長年身につけていると、すっかりこれに慣れてしまいましたからね。」
セドリックが眼帯にそっと手を当てる。
その姿を見てわたくしは軽くため息を吐いた。
セドリックの灰色の瞳は、両方見ることが出来るのに…何度わたくしが言っても、セドリックはわたくしの亡き夫…セドリックの兄が付けていた眼帯を外そうとしない。
亡き夫が眼帯を付けていたのは、幼い頃から片目が悪く、内側に寄っていた瞳を隠すためだ。
夫が亡くなってから自分が兄の代わりを務めると言ってわたくしに求婚してきた当時は驚いた。
セドリックの家系は代々侯爵家に仕えているけれど、独身で子を成すことがなかったセドリックは、従者のルカに執事としての仕事を教えている。今はルミナス様方の側に付いているけれど、普段はブライト様の側に付いているルカは、物覚えが早く、将来有望だと前にセドリックが話していた。
「わたくしの愛する人は生涯、夫ただ1人だと決めています。」
セドリックの隣に立ち小声で告げれば、フッと柔らかい表情をしたセドリックが、わたくしを見つめる。
「もちろん承知してますよ。私の愛する人も…フリージアただ1人と、心に決めていますから。」
兄弟揃って、わたくしの何処に魅力を感じたのか…正直今でも分からない。
けれど
亡き夫も、セドリックも……わたくし達の志は、常に同じであると信じて疑わない。
アイリス様とダリウス様の宝である
ブライト様とルミナス様の幸せを……
心より、願っております。




