ルミナスは、足を踏み入れる
一連の会話を全て聞いていたかのような声に、私は自身の足下の影に視線を向ける。
「リヒト様…客室にいなかったんですね。」
【ああ。わたしはルミナスの影の中にいる。姿を見せよう。】
足下の影がソファの背後まで伸びて、影の中からゆっくりとリヒト様が姿を現した。
「わたしの食事は、朝と夜だけで良いと言っておくべきだった。いらぬ手間をかけたな。」
リヒト様が歩きながら話すと「いえ、大丈夫でございます。」とお父様の声が耳に入る。
見れば、お父様は苦笑いを浮かべていた。
そういえばリヒト様がどんな魔法を使うか、お父様に教えてなかった。オルウェン王と同じ影を使った魔法を見て、争いがあった時の事を思い出したのかもしれない。
リヒト様は私の隣に自然な動作で腰を下ろした。
……狭い。隣を見るとイアンは予測していたのか、ソファの端に寄っていたため、私も横に体をずらす。
「ずっと影の中にいたんですか?」
「その方が何かあった時に、すぐにルミナスを助けれるだろう。」
私が質問すると、リヒト様は顔色を変えないまま答えた。「リヒト様…まさか、夜も影に入ってませんよね?」とイアンが疑うような視線をリヒト様に向ける。
「入っていたぞ。寝てる時が一番無防備になるから危険だしな。安心しろイアン。ルミナスとイアンが夜の営みをする時は、すぐに戻る気でいた。」
さらりと答えたリヒト様に、私はギョッとする。
私はリヒト様に教わりながら、影の中に入ったことがある。影移動は頭に思い浮かべた人物や物、影のある中に入って移動が出来る。それでも瞬間移動とは違って、移動できる範囲は狭い。外からは分からないけど、入っている影にまるで目や耳が付いているように影の中からは、外の声や景色が分かる。
「―――る、ルミナスの寝顔をずっと見てたんですか!? うらや…じゃなくて!……それに、夜も…っ…しませんから! 」
イアンが再び顔を真っ赤にさせながら声を上げた。
……羨ましいって言おうとしたのかな?
イアンは視線を彷徨わせて、私と視線が合うとバッと顔を逸らす。リヒト様は無表情で話すから、冗談なのか本気なのか、よく分からないけど…。
「……リヒト様、気持ちはありがたいですけど…せめて夜は寝て下さい。…寝顔を見られるのは嫌です。」
「そうか。すまなかった…。」
リヒト様の耳にかけている黒髪が、さらりと前に流れた。俯いてしまったリヒト様を、私は顔を覗き込むようにして見ながら微笑みかける。
「リヒト様。領内で見てみたい場所や、やりたい事はありますか?」
話題を変えた私に対して「特に無いな。」とリヒト様は即答した。……ん〜…どうしようかな…。
「日中は影に入ってても大丈夫ですけど、良かったら一緒に行動しましょう。今日広場で食事をしたのも見てましたよね? 次は同席してほしいです。」
私がニコリと笑うと「…分かった。それなら、日中だけ影に入っている。」と言って立ち上がり、私の影の中へと戻っていった。
……まぁ、影の中でも一緒に行動してることになるのかな。
とりあえず夜に影の中にいないなら良いかと思った私は、成り行きを見守っていたお父様の方に顔を向ける。
「お父様。リヒト様は大丈夫ですわ。」
「…そのようだな。」
手のこぶしを口に当てて小さく咳払いをしたお父様は、視線を下げて私の影を気にしているようだった。影の中から見られているのは変な感じがするのかも。私は慣れたけどね。グラウス王国にいた時もリヒト様が何度か私の影から出てきた事があったし。
……話も終わったし、そろそろ行こうかな…あっ。
私は退室する前に、お父様にまだ話していない事があったのを思い出す。
「お父様。広場で色々ありましたけど…お金を持たせてくださったお父様のお陰で買い物が出来ましたし、食事も出来て楽しく過ごせました。ありがとうございます。」
広場の事を報告しなければと最初に頭にあったけど、お礼をまだ述べていなかった。隣に座るイアンに目配せすると、イアンは腰に下げた貨幣の入った小袋を外そうとし……
「返さなくて良い。そのまま持っていろ。滞在中また必要になるかもしれないだろう? …そういえば、野菜が城に届けられたと聞いたな。」
お父様の好意に甘えて、小袋はイアンに預けたままにする。また広場には行きたいと思っていたから、もしかしたら買い物するかもしれない。
「ありがとうございます、お父様。野菜の事ですが…わたくしは厨房に行き、料理長と話がしたいと思っております。」
「厨房に…? 」
お父様は眉間に皺を寄せて、怪訝な表情をした。
「試したい事があるんです。もし上手くいけば食事の時に出ると思いますわ。」
私がニコニコと機嫌よく話すと「まさか…ルミナスが料理をするのか?」と言って、お父様は頰を引きつらせていた。
「魔法を使うかもしれませんけど…わたくし、グラウス王国でも料理の経験があるんですよ。」
失敗したけど…とは言わない。「それなら良いか…」とお父様は、独り言のように呟いた。
「…ダリウス様。ルミナス様に、アイリス様の話をしてもよろしいでしょうか?」
それまで静観していたフリージアが口を開いた。
お父様が頷いたのを確認すると、フリージアが「アイリス様も厨房に一度だけ立った事がございました。」と言ってお母様の話をし始める。
「お母様は料理が上手だったの?」
今まで一度もお母様の話を聞いた事がなかったから、私は嬉しさに胸を弾ませながら尋ねた。
「刃物の扱いは、とてもお上手でしたが…味付けに失敗されておりました。」
フリージアはお母様の側にいたのだろう。懐かしむような目を私に向けていて、セドリックとお父様が相槌を打ちながら、柔らかい笑みを浮かべていた。
お母様も私と同じような失敗をしたみたいだ。
刃物を扱えない私の方がダメダメだけど。
滞在中にお母様の話をもっと聞かせてほしいと、私はお父様と約束を交わして、執務室を後にした。
「イアンは客室で休んでても良いよ?」
「…いや、俺も付いていく。」
廊下を歩きながら、隣にいるイアンが不安げな表情で私を見てくる。刃物を使うことはしないと言ったのに、イアンは気が気でないようだ。
フリージアも私達に付いて来ようとしたけど、用事が済めば部屋に戻るから大丈夫と告げて、引き下がってもらった。
……フリージアの目があると緊張しちゃうんだよね。
きっとルミナスが苦手意識をもっていたからだろう。背筋が無意識に伸びてしまう。
「あら、マーガレット。もしかして、わたくし達が来るのを待っていたのかしら?」
「はい。ルミナス様が厨房にお越しになる事は事前に聞いてましたし、侍女頭からもルミナス様の側にいるよう指示を受けております。」
マーガレットは灰色の瞳で真っ直ぐに私を見つめて、その表情は魔法を目にした後でも恐れを抱いてる様子はなく、むしろ生き生きとしているように見える。厨房は一階の一番奥側にあり、入り口の扉の前にはマーガレットが私達を待ち構えていた。
フリージアが随分とアッサリ引き下がったと思ったけど、マーガレットがいるのが分かっていたからだろう。それでも打ち合わせをしたのは、私が魔法を見せる前の筈だ。
「…そうだったのね。」
私が笑みを浮かべると、マーガレットも薄く笑みを返してくれた。扉を開けてもらいながら、私は厨房へと一歩足を踏み入れる。




