いちごミルクは始まりを奏でる。
「あ、あの、よかったら、どうぞ」
黒縁眼鏡の奥で忙しく黒目を左右に揺らしながら、男子生徒は買ったばかりのピンク色をした牛乳パックをわたしに差し出した。いちごマークつきのそれを、確かにわたしは放課後に飲むのを楽しみに眠たい午後の授業を耐え抜いた。しかしながら、わたしより先に購買の自動販売機に到着してラスト一個を手に入れた彼には何の罪もない。
オレンジ色の〈売切〉の文字を見て、つい声を漏らしてしまった。それだけで我慢できず「いちごミルク」とまで呟いてしまったのが執念深そうな印象を与えたのかもしれない。控えめな雰囲気の彼は差し出した手を引っ込めず、わたしに向かって突き出したままでいる。
もしかすると、わたしは今思いがけず渋い顔をしていて、不機嫌そうに見えているのかもしれない。飲みたかったのは事実だけれど別に今日でなくていい。明日だって明後日だって午後の眠たい授業を乗り切る達成感は得られる。それにここの自動販売機の補充をしてくれているのは気前のいい配膳のおばちゃんだ。人気のドリンクはすぐに仕入れてくれるだろう。わたしは敵意がないことを示すため、故意に口角を上げ、首と片手を同時に横に振った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「僕、明日、いちごミルクにしようと思っていたんです。本当は緑茶がよくて、間違えて、押してしまったので。だから、全然、平気なので」
友達とおしゃべりに夢中で余所見していたのならまだ分かる。けど、たったひとりで、しかも端と端に位置している緑茶といちごミルクのボタンを押し間違えるなんて相当なぼんくらだけだ。彼は全くそんな風には見えない。
どうしてつく必要のない嘘を? 赤の他人であるわたしにする必要のない気遣いを? 疑問を巡らせた延長上で、はっとした。
いちごミルクを差し出された瞬間、実はどこか懐かしかった。残暑が去り、涼しい秋風が吹くようになり始めた一年ほど前の今とちょうど同じ時期。友人の唐木田怜と校門で別れ、帰路である河川敷を歩いている途中、わたしは苦し気な泣き声を耳にした。
傾斜の下を覗き込むと、黄色の通学帽子を被った丸い頭部。黒色のランドセルを背負っている小さな男の子が独りぼっちで座り込んでいた。下ろう、そうわたしの脳がわたしに指示を出してる間に、視界には人影が増えていた。うちの学校のブレザーを着ている男子生徒が肩を左右に大きく揺らして男の子の元へまっしぐらに駆けていく。
「どうしたの大丈夫?」
男の子を心配するあまり、その声は少し尖りを持っていたけれど、温かくて優しい。側にいるわたしがそう思ったくらいだから、男の子はきっとまるで包み込まれたような気分だったに違いない。案の定、男の子はぴたりと泣き止んだ。
指を咥える男の子にじっと見つめられている男子生徒は何やら大慌て。普段なら素通りだろうが、どうしてか、わたしは二人のことが気になった。
雑草を足で掻き分けながら近づいていく。男の子は右の膝小僧を派手に擦りむき血を流していた。どうやら助けなきゃの一心で声はかけたものの、男子生徒は処置する術を持ち合わせていなかったらしい。
「あるよ、消毒液と絆創膏」
「えっ」
いきなり声をかけたせいか、男子生徒はかなり驚いた様子でつぶらな瞳をしばしばとさせた。わたしはこのころカフェでのアルバイトを始めたばかりで、慣れない包丁で手を切ることが多かったため、それらをスクールバッグに常備していたのだ。
「ちょっと沁みるかも。我慢できるかな?」
男の子は再び瞳を潤ませながらも、きゅっと口を結んで頷いた。わたしが消毒液を染み込ませたティッシュで傷口を拭き絆創膏を貼ってあげると、男の子は目をこすって涙を散らし満面の笑顔になった。
それから間もなくして、男の子の母親が青い顔をしながらやってきた。ほんの一瞬目を離した隙に男の子を見失い、自らの不注意をひどく責め、万が一を覚悟しながら捜していたのだと。助けられてよかった。二人が無事再会できてよかった。何度も頭を下げてから手を繋いで歩いていく男の子と母親を見送りながらそう思った。
涼風に身体を撫でられ、さあ帰ろう、と身体の向きを変えると男子生徒がまだそこにいた。何やら様子がおかしい。しゃがみ込み、闇雲に雑草を掻き分けている。
「どうしたんですか?」
「あっ、め、眼鏡、落としちゃってたみたいで......そう言えば、見えないなあと」
不謹慎にもわたしは吹き出してしまった。男子生徒の両目が間抜けに数字の三になっているように思えてならなかったのだ。かけている眼鏡がなくなっていることに気づかぬほど脇目も振らず知らない男の子を救おうとしたなんて、おっちょこちょいと優しいがすぎる。
「わたしも探しましょうか?」
「いえ、だ、大丈夫です、自己責任ですのでそれより、あ、あの、これ、よかったら」
男子生徒は鞄の中を漁ると、いちごマークつきのピンク色の牛乳パックを取り出した。助けてくれたお礼だと言う。素直に受け取ったけれど、鞄の中からわたしの大好物が出てくる彼は何者なのだろうと、ちょっぴり心が痒かった。
記憶は完全に甦った。目の前にいる彼が黒縁眼鏡を外したら、あの時の男子生徒の顔になる。赤の他人じゃない。少なくとも、わたしは彼を知っていた。
「あの、もしかして」
いちごミルクを受け取らない代わりに、わたしが一歩、男子生徒に歩み寄ると、ひとりの女子生徒がひょっこり顔を覗かせた。
「あ、美結みっけ」
「怜!」
ただ呼ばれただけなのに見られてはいけないものを見られたような気がして妙にどきりとした。友人の唐木田怜は、気怠げに手を振っている。
「檜山と一緒だったんだ」
「檜山?」
男子生徒を見ると、近づいてきた怜に頭を下げている。怜の口調から彼が先輩ではないと言う新しい情報を得た。
「そっか、美結、知らないか。倫也のバンドの期間限定のベースくんなんだ」
わたしの視線は男子生徒もとい、檜山くんに釘づけになっていた。もう一度差し出されたいちごミルクを受け取って、わたしは檜山くんと言う人にほんの少し興味を持った。
***
家に着いて母親の夕飯を報せる声も無視して、僕は階段を駆け上がった。自室の内鍵をしっかりかけてからベッドに飛び乗り、お気に入りのビーズクッションを抱いて仰向けに寝そべる。
会話を交わしてしまった。そして恐らく気がつかれてしまった。いや、いちごミルクをきっかけに思い出されてしまったのほうが正しいか。あの河川敷の男子生徒が僕であると言うことを。
今日のたった短い時間を思い出すだけで胸がはち切れそうになる。そもそも僕は、彼女を、本城美結さんを、あの日よりもっと前から知っていた。
入学式の日、昇降口で本城さんを見かけた時、身体に電流が走ったような感覚がした。彼女から目が離せなくて、周囲の音が僕の耳に戻ってくるまで数十秒はかかったと思う。理由なんてないし理屈もない、けど可愛いくて仕方がない、それが素直な気持ちだった。それから見かける日も見かけない日も本城さんはずっと僕の心に住みついていて、これが恋なのだと、十六歳にして初めて知った。
とは言え、ひと学年に九クラスもある規模の大きい高校で、教室も廊下の角と角に離れていれば、何かきっかけでもない限り互いを強く認識することはない。
さらに入学して一ヶ月も経たないうちにクラスの目立つ男子連中が本城さんのことを可愛い、狙おうかな、と口にしているのを耳にして僕は冷静になった。僕みたいな地味で眼鏡で引っ込み思案で友達もいないに等しいやつが本城さんに好意を寄せているなんて知れば、本城さん本人だけでなく、周囲も気持ち悪がるに決まってる。
中学同様、高校生活も和やかに過ごすべく当たり障りのない空気のようなやつに徹しようって決めていたじゃないか。そう気持ちを固めて以降、本城さんは僕の心から出ていったと思っていたのに結果その認識は僕の盲目で、彼女はほんの少しの間、あの河川敷での出来事があるまでお出かけしていただけだった。
本城さんのことを好きじゃなくなるのは無理、あの日を境に気持ちを寝かしつけるのは難しくなった。だが、纏わりつく自分のスクールカースト地位に冷静さは失わない。本城さんが誰かのものになるのは時間の問題だと思ったし、その候補に自分が並ぼうとするのは大変おこがましい。けど、誰にも迷惑をかけないのなら許されるのではないだろうか。
それから僕は感情を昂らせず、ひっそり恋心を抱き続けることを遂行してきたはずだった。
高二になってクラスが替わり、高校に入って初めて友達と呼べる友達が出来た。それもまさかのスクールカースト上層部にいるやつで、友達になろうと誘ってきたのは向こうだった。花咲倫也、名前からしてイケメンで本当に格好いいから参る。耳にはピアスがジャラジャラついていて一見いかついが、話してみると他のやつと違って偏見のない性格のいいやつだと分かり、僕は少しずつ倫也に心を開いていった。
倫也が僕に興味を持った理由は単純なようで途轍もなく鋭い嗅覚だった。クラス替えの初日のホームルームで担任の提案により名簿順で自己紹介をやることになった。順番がきたらその場に立ち、名前、元の組、好きな教科、趣味を話さなければならない。たったそれだけでも注目を浴びて話すことが本意でない僕は苦痛で仕方がなかったから、檜山尚人、元九組、音楽、音楽を聴くこと、の四つをかなりの早口で言い切り気配を消すように椅子に座った。
ホームルームの終わりを告げる鐘が鳴るなり、僕を振り返ってきたのが前の席の倫也だった。
お前、ベース弾けるか? それが倫也が僕にかけた第一声。話を聞けば、定期開催している軽音部のライブを五月に控えているのだが、ベースを担当していたメンバーが急に外部のバンドに引き抜かれてしまい穴が埋まらず困っているのだと。
確かに音楽は好きで、特に好きなプロのベース奏者に憧れて小学生の時からずっとひとりでベースを触ってきた。譜面は読めるからやれなくはないし、困っている人のことは出来る限り助けてあげたいとも思う。しかし前述の通り、僕は人前に立つのが苦手で目立つことを恐れていたし、何よりこんなにビジュアルのいい倫也の隣に僕が並んだら陰気臭過ぎてバッシングされ、倫也だけでなくその仲間にも迷惑をかけてしまうと思い、僕はやんわりと断った。
だけど倫也は引かなかった。連日授業が終わる度に交渉してくる彼の驚異的な熱意に、遂に僕は屈したのだ。
けど、その唐突のお陰で僕の高校生活は一年の時とがらりと変わって潤い始めた。倫也が歌う隣で、大勢の観客の前で思いっ切りベースを引っ掻き回して。重なり合う音の中では誰の目も気にせず引け目も感じず、堂々と違う自分になれると気がついた。
ずっと閉じこもってきた暗い殻を破るきっかけを手に入れられてよかったと思っていた。今日購買の自動販売機のところで彼女と八会うまでは。
一度きらきらと輝く場所に足を踏み入れて欲しいものを入手する快感を得ると、人はさらにその先にある夢を求めて欲深くなる。憧れは基本憧れで終わることがほとんどの中、友達との青春を奇跡的に手に入れられた僕は十分に恵まれている。だからこの初恋は綺麗なまま宝箱にそっと仕舞って鍵をかけようと思っていたのに。僕のことを少しでも認識してくれたって思ったら、鍵をかける手が動かなくなってしまうじゃないか。
神様は意地悪だ。どうしてこのタイミングなんだ。僕にはもう、時間がないのに。
***
今日もいちごミルクの味はまろやかで甘い。首や肩の疲労が軽くなるのを感じながら、わたしは昇降口に到着した。
「あーあ」
雨だ。さほど強くはないが、黒色のアスファルトをしとしとと濡らしている。梅雨に入ってから天気は不安定だ。朝のニュースで晴れだと言っていても、夕方にはこうやって気分屋な灰色の雨雲が空を埋め尽くすことは珍しくない。なのに傘を忘れてきてしまうとは、やらかした。
昇降口を出たところでストローを加えたまま棒立つ。ふと、パッケージのいちごマークに視点が合い、黒縁眼鏡の男子生徒の顔が浮かんだ。
檜山くんのことを檜山くんだと認識してから、妙に檜山くんが視界に入るようになった。同じ学年なのに約一年と半年ちょいの間気づきもしなかったくせに、廊下や購買で見かけることが増えたのだ。今までと何が変わったのだろう。わざわざ檜山くんがわたしに合わせてそこにいるはずはないし。けれど彼を見るのは嫌じゃない。不思議なのだが目が合うとほんのり温かい気持ちになって心地よいのだ。
怜や怜の彼氏である倫也からそれとなく聞いた話によると、檜山くんは自ら前には出ようとしない縁の下の力持ちタイプで、決められたことはきちんとこなす根っからの真面目気質。倫也が半ば無理矢理頼んだバンドのベース奏者としても完璧で、奏でる音はヘルプだとは思えないレベルのクオリティらしい。もうすぐある学園祭ライブまでの期間限定メンバーなのが惜しすぎると倫也は顔を歪めていた。
倫也のゴリ押しを、おどおどとしながらも受け入れてあげる檜山くんの様子が浮かんで唇の隙間から笑いが漏れた。怜に何度かライブに誘われたけど興味がなくて断ってきたのを少し後悔する。ベースを弾いている時、檜山くんはどんな顔をするんだろう。ステージに立つ知らない檜山くんを想像すると、胸の奥がもぞもぞして変になる。
「あ、あの、本城さん」
驚きすぎて振り返ってすぐに言葉が出なかった。今の今思い浮かべていた人がそこにいる。少しずれた眼鏡を直しながら、透明のビニール傘をこちらに向かって差し出している。
「あ」
わたしは自分の足元を見て声を上げてしまった。手がやけに軽くなったと思ったら、牛乳パックが落下していたのだ。ローファーの先端を巻き込んで零れているミルキーピンクの液体。こんな日に限ってポケットティッシュを切らしているなんて最悪だ。
いつまで待っても雨は通過していきそうにない。ついでのやけくそで自然洗浄して帰ろうか。
「あああの、僕、ハンカチあります」
持っていたビニール傘を床に落として、檜山くんはズボンのポケットを漁り始めた。
「そんな、大丈夫だよ。自分がぼけてただけだから」
「いえ、僕が急に声をかけたせいで」
「檜山くんのせいじゃないよ。本当に、大丈夫」
わたしの足元で屈み、ローファーを拭こうとしてきた檜山くんを制止しようと慌ててしゃがんだ。目が合って胸がきゅっと狭まる。顔が近い。先に立ち上がったのは檜山くんのほうだった。
「じゃあ、傘を……」
いちごミルクが落下する前に時間が戻る。わたしは檜山くんを見上げて首を小刻みに横に振った。傘は一本しかない。借りたら濡れてしまうのは檜山くんだ。
「で、では、少しここで、待っていてもらえないでしょうか?」
「え?」
「新しい、いちごミルクを」
「尚人!」
檜山くんの言葉を遮ったのは、かん高くて甘ったるい声だった。
同じ学年の菊名優香、女子と言うより女性らしい風貌は高二だと言われなければ分からないほど大人びている。いつもバニラのような香水をつけていて、胸も大きいのに腹は綺麗にくびれているから、同学年先輩後輩問わず虜になっている男子生徒は多い。
そう言えば、バンド好きでよくライブを観にきていると怜から聞いた気がする。そのうちに檜山くんと親しくなったのだろう。下の名前でなんて距離が近くなければ呼ばない。
「美結、まだいたんだ」
「あれ、怜! 倫也も」
雨の日はよく道路が渋滞するが、まるでここはそれみたいに混雑し始め、居心地が悪くなってきた。
「尚人今帰るとこだよね。傘忘れちゃって、入れてくれないかな?」
菊名さんの上目遣いはお世辞なしに可愛い。迫られた檜山くんはたじたじになりつつも、わたしのほうを気にしてくれている。
新しいいちごミルク、もらえたら素直に嬉しかったけど、檜山くんをあんなに困らせてまでもらうべきものじゃない。ただのわたしの不注意なのだから。
「大丈夫、怜に入れてもらうから。菊名さんを入れてあげて」
「何だ、傘忘れてたの。連絡くれればすぐきたのにー」
「先に帰ったと思ってたよ。それに倫也とデートって聞いてるのにお邪魔できないからね」
「と言うより足元、ティッシュあげるよ」
怜はわたしにポケットティッシュをくれた。ローファーだけでなくタイルにまで広がってしまっていたミルキーピンクの液体をしっかり拭き取ってから転がっていた牛乳パックを拾い、ティッシュと纏めてゴミ箱に投げ入れた。
傘を持つ怜を促してそそくさと歩き出す。渋滞し続けるのは本当に窮屈だ。早く進みたい、抜け出したい。
「尚人、また明日なー」
背後で倫也が檜山くんに緩い挨拶を投げると、それに対する檜山くんの返事と共に菊名さんの声も聞こえた。怜が振り向いてばいばい、と手を動かすのに、わたしは首を回せなかった。狭くなっている視野に映るのは灰色の道だけ。
「美結、いつもより歩くの早くない?」
ほんわかしているのに、こう言う時、怜は鋭い。わたしの機嫌はお見通しだ。
「そう? いつもと同じだよ」
意味はないと分かっていても、わたしはとぼけて見せた。倫也が追いついてきたから怜はそれ以上問うてはこなかったけれど、話せたほうがよかったのかもしれない。
家について、玄関先で濡れた靴と靴下を脱いでも気持ちはすっきりしなかった。どうして振り向いて檜山くんと菊名さんに挨拶出来なかったのだろう。自分が分からないのに誰に話したってきっと分かってもらえないから、いちごミルクを堪能し切れず舌が物足りないと嘆いているせいだと思うことにした。
***
やらかした、それはもう全体的に。何をしているんだろうか、いや、何をしたいかなんて分かっていたはずなのに。だけど困っている菊名さんに冷たくは出来なくて、傘を二人に押しつけて僕が濡れて帰ればよかったのだとひらめいた時には遅かった。二兎を追う者は一兎をも得ずとはある意味こういうことなのだろうか。
嬉しい感情とは裏腹に本城さんの前だと意識しすぎて上手く笑えない。無愛想だけでなく、口ばかりの男だとも思われたに違いない。そしてこの期に及んでまだ本城さんによく思われたいと考えてしまうこの欲が情けない。
日ごとに部屋に増えていくダンボールに溜息は漏れてしまう。傘を貸してあげたかった。新しいいちごミルクを買ってあげたかった。ただ眩しいほど輝くあの可愛い笑顔が見たい。
叫びたくなって徐にベースを手にしたその時、携帯電話が鳴った。ディスプレイにはまた明日と先程言っていた主、花咲倫也の名が表示されている。応答すると、用件は学園祭で演奏するセットリストの相談だった。どうしてわざわざ今なのだろう。明日学校で話せばいいことなのに。
「尚人さ、いーの? 美結のこと」
真の目的はこれか。いつから気がついていたのだろう。あまりに高すぎる倫也の洞察力に圧倒され、恥ずかしくなるより冷静になった。
「はい、いいんです。転校したら、もう、会うこと、ないですし。憧れてた、だけなので」
「俺のこともそんな風に思ってんの? 期間限定バンドで組まされただけで、もう会うことないし別にいいやって」
倫也の言葉は僕の胸を殴った。傷んだせいで感情が込み上がる。
「そんなわけない!」
自分でもびっくりした。今のが自分から出た声だとは信じられない。こんなに感情任せな音をぶつけたことは、家族にでさえなかった。
ついこの前までなら誰と離れるのも平気だった。けど今は違う。倫也がいて、本城さんへの想いが膨らんで。だが父親の転勤には家族でついていかなければならない。転校する運命には抗えない。
「俺さ、人を本気で好きになるのに時間の長さがどうたらとか、ちっせえことって関係ないと思う。だからどんなかたちでも伝えたほうがいいんじゃないかな。尚人の想いを美結に。後悔してほしくないからさ、ダチとしてね」
ひとりぼっちだったら絶対素直になれなかった。友達がこんなにもずるい存在だとは知らなかった。そう言われたら本当にそう思うじゃないか。それに、願いだって聞いてやりたくなるじゃないか。
倫也にひとつ交換条件を言い渡して通話を終わらせると、僕はすぐに勉強机に向かった。教科書もノートも開かず用意したのは、一本のシャープペンシルと一枚の白いコピー用紙。秘めたる感情を吐きだせる唯一がここだった。迷ったらベースを鳴らして、心を根底までえぐって想いを書き出すの繰り返し。誰かが僕のうたを歌ってくれる日がくるなんて夢にも思っていなかった。
直接じゃないのは男らしくなくてずるいかもしれない。けれどこれが、不器用すぎる僕が一番後悔を残さず想いの全てを伝えられる方法だ。
好きに理由も理屈もない、本城さんと出会った日に知った。好きだ。僕は本城さんのことが好き。
学園祭当日は倫也の隣で全身全霊を込めて演奏しよう。本城さんに届くように。
翌日、僕は人生最大の勇気を出した。廊下ですれ違った本城さんを呼び止めて、ライブにきてほしいと誘った。
***
檜山くんから学園祭のライブにきてほしいと誘われた。生真面目な顔で頬を硬くしていたから緊張していたのかな。
わたしも緊張した。廊下のど真ん中で他の生徒もたくさん歩いている中、いつも細くて小さな檜山くんの声はその時に限ってえらく響いて、檜山くん本人が一番驚いているように思えた。
タイミングよくトイレにいっていた怜が戻ってきて、「わたしもいくー」と、呑気な声で場を和ませてくれたから変に囃し立てられたりしなくて済んだものの、わたしの心臓はひっそり冷汗をかいていた。ドキ、ドキ、と音がして、これは嬉しいって感情なのかな。
わたしたちに背を向け檜山くんが教室に向かって戻っていくその途中で菊名さんがやってきた。檜山くんの肩にさりげなく手を置くスキンシップ。菊名さんの声が高くて大きいから、ライブの話をしているのが聞こえてしまった。尚人今回曲書くんでしょ? 楽しみ、絶対いくからね。
そう言われた檜山くんの顔はさっきとは全然違って柔らかい。やっぱり嬉しくなかった。心臓が昨日の昇降口に向かってそう言って、冷たくなりすぎた汗を少し乱暴に拭った。
放課後、倫也の練習終わりを待つ怜に付き合い、教室でだらけて過ごすことになった。
二人しかいない空間。ふいに菊名さんが口にしていたことが思い出されてそれとなく聞いてみたところ、檜山くんは演奏だけでなく歌詞を書くのも得意らしく、今回の学園祭ライブで披露する新曲を書いてほしいと倫也が頼んだらしい。菊名さんのあのテンションにも納得だ。だって菊名さんは檜山くんに好意があるから。好きな人の格好いいところはきっと見たいと思うのだろうし、独り占めしたいとも思うんだろうな。
「美結がまさかライブにいくって言うなんてねー」
「わたしが一番驚いてる。まあ、頷いちゃったからね」
怜の目が見れない。もやもやが溜まりすぎているせいなのだろうか。窓の先に広がっている夕空に視線を逃がしてしまう。
「内緒の話なんだけどさ、檜山、学園祭終わったら転校しちゃうんだって」
怜の目をわたしは見た。本当に驚いた時、こんな風に言葉が出せなくなることを初めて知った。だから倫也は頼んだのだ。最後だから、檜山くんとの思い出を作るために。
もやもやはずきずきに変化する。本当は分かっている。おかしいのは檜山くんを檜山くんだと認識してから。檜山くんが視界の中にいっぱいいるようになってから。
「倫也があっという間に懐いたから凄くいいやつなんだろうなって思ってたし残念。もっと早く仲よくなってたら、みんなでいろいろ遊んだりできたのにね」
後悔先に立たず。もしもを言っても仕方がないって分かっているけど、あの河川敷で出会った時、どうしてわたしの心は震えなかったのだ。檜山くんのことがもっと知りたい、そう思った矢先にこんなのは辛い。
もう見れなくなる、もう会えなくなる。嫌だよだって、これが恋する気持ちだって気づいてしまったから。
***
過ぎて欲しくないと思うほど、瞬く間に時は流れる。
迎えた学園祭ライブ当日、朝早く体育館に集合し、最終リハーサルを無事に終えた。
倫也達と別れてトイレに向かう。ひとりになったせいなのか、急に心に不安が渦巻き出した。
ライブに誘った日、本城さんは僕の大好きな笑顔になって頷いてくれた。けどその翌日から、廊下ですれ違っても、倫也や唐木田さんを含めた同じ輪で話していても、どこかぼんやりと浮かない顔をしていることが増えた。僕が輪から離れたあとは普段通りの明るい顔をするものだから原因はきっと僕にある。あとあとになって僕の誘いかたを不快に感じたのかもしれない。それ以外に思い当たる節はないように思っていたのだけれど、僕はふいにあることを思い出し、購買へと足を向かわせた。
ガコン、と転がり落ちてきたそれを手に取りじっと見つめる。仮に今日、本城さんが観にきてくれなくても、僕は想いを込めて全力で弾くだけだ。
「尚人、見ろよ、人すげえ」
あっと言う間に太陽はてっぺんを過ぎ、本番開始十分前に迫った。ステージ袖にいる倫也の手招きに吸い寄せられ、同じように幕の隙間から観客席を覗いて目を見張った。
人影はまだ闇に包まれているが、恐らく観客は今までの中で一番多い。嬉しい反面、元々人前に立つのを好まない逃げ腰な僕が手の汗となり現れる。朝まではあんなに強気でいたのに。
「大丈夫だって。ベタだけどイモだと思えばいいんだよ、美結以外」
分かりやすく無言になってしまっていた。倫也にポン、と肩を叩かれ身体の縛りがいくらかほどける。
僕達はトップバッター。三曲披露するうちの最後の曲が、僕の書いた詞だ。このステージにライトが灯った時、彼女の顔が見えて欲しい。
円陣を組んでから、まだ暗闇のステージに上がり肩からベースをかける。暗くてよく見えないのに、倫也が振り向いて力強く頷いてくれたと分かった。
司会を担当してくれる男子生徒の声がする。カウントダウン、五・四・三・二・一。
幕が上がった。倫也のかけ声に観客席の熱が急上昇した。今までにない数の声援に鳥肌が一気に立つ。
凄い、凄い、観客との一体感にほだされながらベースを引っ掻き回す。一曲目のAメロに入り倫也の隣に寄り添って弦を弾いた瞬間、僕は見つけた。観客席の真ん中辺りに本城さんがいる。熱気は気持ちいいけれど苦しい。呼吸の乱れも今までのライブの比じゃない。だけど僕はこの指先に込める、帰らないで最後まで観て欲しいと。
黄色い歓声が止まない中、アップテンポの曲を二つやり切った。唐木田さんが飛び跳ねて拍子をしているのに対し、本城さんはどこか哀しげな表情を浮かべ静かにステージを見ている。
いよいよ僕が作詞をした曲、倫也達がバラードに仕上げてくれた。想いを届けるには絶好の曲だと思っていたけれど、今の本城さんの顔を見ると曲調の選択を間違えたかもしれない。
だけど笑ってほしい、僕は本城さんの笑顔が好きだから。時は戻せないし止められない。進むしかないんだ、さようならするしかないんだ。
「あー、んー、あー」
倫也の不思議な声がマイクを通って響き、ステージ上の僕達メンバーだけでなく、客席もきょとん、となった。倫也の手先は喉元を触っている。
「いやー、こんなキレのあるライブは久しぶりで、俺もちょっと調子こいちまったわ。喉が......あ、そうだ。実は今日のラストん曲、ベースの檜山尚人が作詞したんすよ。っつーことで」
倫也は傍までやってくると、僕の左手首を掴み高く上げた。
「ラストん曲は、檜山が歌いまーす」
「え」
予想外の歓声に僕の腑抜けた声は吸い込まれてしまった。このたった数ヶ月で周囲が僕に抱く印象は大分変わっていたのだと今更ながらに実感する。
倫也はにやにやしながら僕の立ち位置でギターを軽く鳴らした。
「ちょっと待って下さい。話しと違うじゃないですか」
「えー? そうだっけ?」
スポットライトの当たっている空いたセンターと倫也を僕は交互に睨んだ。
僕が詞を書く代わりに倫也に出した交換条件、それは僕の想いが本城さんに直接的に伝わらないようにしてほしいと言うことだった。あくまでも僕は詞に全てを込めて解き放って去りたかった。直接言って振られて傷つくのが怖いと思っているのも多少はあるが、何よりはこれ以上のあらぬ欲が生まれるのを防ぎたいため。
初めから倫也は、今日ここで、こうして僕を真ん中に立たせるつもりでいたのだ。してやられた。約束を破られたと怒っていいところだが、そうしたところでもう引き下がれる空気じゃない。
ステージ袖に駆け込んでしまいたい気持ちを振り払って、僕は一歩を踏み出した。
詞を書くのは好きだけど、歌については苦手意識が強い。けど、何度も本城さんの笑顔を思い浮かべてこの曲を口ずさんだ。ここに立ったらもう感情のコントロールをきかせられる自信がない。そうか、だから怖かったのか。
本当の答えが分かればもう迷わない。真っ直ぐ先にいる本城さんを見つめて僕はベースをひと掻きした。
「いきます! きいてください!」
***
輝き出したステージ、そこには新しい檜山くんがいた。他に三人も奏者がいるのに、わたしの瞳には檜山くんしか映らない。だってこれが最後。この曲が終わったら檜山くんはこの学校からいなくなってしまう。
隣にいる怜が叫んだ倫也の名に、斜め前から檜山くんの下の名を呼ぶ甲高い声が重なった。菊名さんだ。うさぎのようにジャンプし格好いいを連呼している。前のように変な嫌悪には陥らない。きっと菊名さんの気持ちがよく分かるようになったからだ。
わたしだって叫びたい。檜山くん凄く格好いいよって。だけどわたしは菊名さんみたいに檜山くんと距離が近いわけじゃない。後ろのほうから聞こえてくる女子生徒達の会話にも気持ちはより複雑になる。檜山くんってこんなに格好いい人だったんだね、連絡先聞いちゃおうかな。
わたしは檜山くんの彼女でもなければ友達かも分からないただの人、でしゃばるなんて出来ない。それに今何か言葉を漏らしたら熱くなっている瞼の気が緩んでしまいそうで怖い。
わたしが必死でいろいろなものを堪えている最中、倫也のサプライズ演出は訪れた。
真ん中に立った檜山くんと一瞬目が合った気がして俯いたが、すぐに彼の声に頭のてっぺんを掴まれた。先の二曲とは違うローテンポの繊細なメロディー。ギターとベースの絡み合う切なくて儚い音に目だけでなく胸の奥も刺激される。音色の中に檜山くんの歌声が混ざり込んできた。決して上手なわけじゃないけれど、耳に残る感情だらけの歌いかた。歌詞のテーマである片想いの気持ちを全身を使って歌い上げている。
抑揚が大きくなってきた。いよいよサビだ。視線を一度落とした檜山くんが顔を上げた瞬間、わたしの頭は真っ白になった。
“君のことが好きです”
フレーズを口にした檜山くんと、はっきり目が合った。そのあとも、このフレーズが出てくる度に檜山くんと視線は交わったのだ。これは偶然じゃない? 自惚れたくないのに淡い期待が抑えられなくて、だんだん檜山くんの姿が霞んで見えにくくなる。目だけじゃなく喉元まで焼けるように熱くなった。
こんな歌詞を書けるなんてずるい、こんな風に人の心を揺るがすように歌えるなんてずるい。耐えられないよ。だってわたしも、“君のことが好きです”。
「美結!」
演奏が終わって冷めやらない熱にアンコールの声が沸く中、わたしは怜の声を無視して人の間を割り体育館から飛び出した。
走り続けて辿り着いたのは人気のない購買。学園祭中は閉業するため、しんとしていて別世界のようだ。
喉がからからになっている。涙で失ってしまった水分を補おう。自動販売機の前に立ちブレザーのポケットから取り出した百円玉を入れたその時、バタバタと近づいてくる足音がした。
「ほ、本城さん」
襟元の乱れたカッターシャツに、鼻元のほうにまで黒縁眼鏡をずり下げている男子生徒は息を荒く上げている。
「唐木田さんから、走っていってしまったとお聞きして」
何でここだと分かったのだろう。淡い期待が暴れて意思とは関係なく言葉が漏れた。
「そんな風に走ったら、また眼鏡なくなっちゃうよ」
「あ......あの時も、そう言えば、そうでしたね。気をつけます」
あの河川敷の時の女子生徒がわたしだと、檜山くんも覚えていた。
「あの、これ」
檜山くんは背中に隠していた右手を前にした。いちごミルク、はっとして自動販売機を見ると、ボタンにはオレンジ色の〈売切〉のランプが灯っていた。
「あ、あの日、雨の日、口だけになってしまっていたので。怒って、ましたよね?」
違うよ、怒ってなんてない。わたしが菊名さんに嫉妬して勝手に拗ねていただけなのに、どうしてこの人はこんなに優しいのだろう。ピンク色のそれを受け取った瞬間、何色か分からない感情で胸がいっぱいになって涙が溢れてきてしまった。
これが檜山くんとの最後の思い出。自動販売機のレバーを回して戻ってきた硬貨をポケットにしまった。これ以上多くを望むのは欲張りだ。
「檜山くんありがとう。凄く嬉しい。わたし、これ大好きだから」
ぐすぐすと自分の鼻の音がうるさい。ちゃんと笑えてるかな。いちごミルクに隠して伝えたせめてのいくじなしがわたしなりのお別れの言葉。手を振り背を向けようとした刹那、あの歌声と同じ音がした。
「大好きです」
全身の力が一気に抜ける。それでも手元だけはいちごミルクを落とすまいと必死になった。次に感じたのは途轍もない熱。檜山くんも耳を真っ赤に染めている。
「入学した時からずっと、本城さんのことが好きです。遠くにいっても、ずっと好きです。僕の、彼女に、なって頂けませんか?」
たどたどしくも懸命に紡いでくれた檜山くんの言葉に意地っ張りが溶かされていく。
最後じゃない、思い出にして仕舞い込まなくていいのだ。檜山くんのことをずっと好きでいいのだ。
「わたしも、大好き」
想いは止まらずわたしは檜山くんに抱きついた。檜山くんの腕がわたしの身体を包み返すぎこちなささえ愛おしくて堪らない。
檜山くんと出会って、好きになって、たくさんの初めてを知った。まだまだ足りない。これからわたしのことも、もっとたくさん知ってほしい。
別れは終わりじゃない、ここから始まる。今日のいちごミルクは格別にまろやかで甘く、幸せを奏でていた。
〈了〉