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悪夢からのリスタート

作者: 神崎みこ

夢。

そう、悪夢をみた。いや、見ている。

子供の頃から繰り返し現れるそれは、妙に生々しく。見るたびに汗びっしょりになって飛び起きる。布団の上で自分の体を確認して、ただの夢だったのだと安心する。

数え切れないほど繰り返される悪夢は、徐々に私を振り回していく。

主に、夢に関する事柄に過剰反応する、という悪癖となって。

だけど、こんなときにこんな場所で起こらなくてもいいのではないか、と頭の片隅で呟いた。

本日、人生初めての気絶をした。

爽やかで、すらっとした背丈をもった、好青年の教育実習生が現れることによって。




「畑山?」


背中に柔らかい感触を感じ、ゆっくりと目を開けたところに声がかかる。

その顔に思わず半身を起こしてあとずさる。悲鳴を飲みこみながら掛け布団を引きずりあげる。体を隠すようにして、それ以上下がれもしないのに壁にぐいぐいと背中を押し付ける。

私の突拍子もない行動に驚いたのか、青年は冷や汗を流しながら固まっている。


「あら、先生、ダメよ、女の子の寝顔を覗いては」


ありがたいのかよくわからない助け船が、養護教員の年配女性から出される。

少しだけ落ち着かせて、周囲を確認する。

真っ白なベッドに周囲をぐるりと遮蔽される布が覆っている。

独特な臭いから、自分が今いるところは保健室なのだと納得をする。

だが、どうしてこんなところに運ばれているのかを思い出すのに時間がかかってしまった。

ゆるゆると頭を働かせている間にも、見慣れた、だけれども知らない青年は固まったままだ。


「あなた、挨拶の途中に倒れたのよ?覚えてる?」

「そう言われれば」


断片的な記憶を手繰り寄せる。

今日からやってくる教育実習生がどういう人なのかと、おもしろおかしくクラスメートたちと話していたことは覚えている。

そして、恐らく今目の前で地蔵のように固まっている男がその人であろうということも。


「夜更かしでもしたの?」


普段健康優良児である自分にとって、このような事態はそれぐらいの原因でしか起きないだろうと推測された。

そう考えるのも無理はなく、曖昧に頷いておく。

本当の理由をいったところで、誰にも理解されない。

そんなことはとっくに実感している。


「あの、先生、ですよね?大変ご迷惑をおかけしまして……」


とりあえず謝罪をしておく。

固まったままだった先生は、ようやく表情筋を動かし始める。


「あ、いや、こちらこそごめん。なんか無神経に……」


一応思春期の女子高校生の寝姿を覗いたことを謝っているのだろう。基本的にたぶん、いい人なのだとは思う。希望に満ちた初日で、女子生徒に倒れられる、などという経験を予測しているはずもない。見てくれは十分に女子生徒、いや、どちらかというと人受けしそうな好青年、なのだろう。

けれども私は「記憶」にひきずられているせいか、どうしても逃げ腰になってしまう。彼が何かをしたわけではない、ということは十分わかってはいるのに、体が言うことを効いてくれない。

わけもなく、ぞくり、と寒気がするありさまだ。


「本当にすみません。もう大丈夫ですから」


精一杯笑いながら答える。

言外にはもうどこかへいってくれ、という願望が隠れているが、根性で押し止める。

間近で見れば見るほど、やはり似ている。

いや、そっくりだ、と言わざるを得ない。

ひんやりとした何かがせりあがる。


「さあ、先生もそんなところで突っ立っていたら、彼女がベッドから出れませんよ!」


気の利かない男の子を諭すようにして、青年が外へと押し出される。

その背中をみて、私はようやく一息つくことができた。


「あのさ、あの、畑山さん?」


首だけをこちらへとむけ、青年が口を開く。

耐えきれずに頬がひきつっていく。


「どこかで、あったことないかな?」


ナンパ男の定番の台詞を吐きだし、先生は養護の先生に背中を叩かれながら追い出されていった。

そして、私は本日二度目の気絶をしたらしい。


親から病院に放り込まれ、精密検査を受けさせられたのは当然かもしれない。

もちろん、体に異常などは見つからなかったけれど。





 ぼんやりと、自分が少し違う記憶をもっている、と気がついたのは幼稚園の頃だった。

すらっと背が高く、優男で笑顔が眩しい青年。

誰からみても好印象を抱かれるはずの青年ほど、私は拒否反応を示していた。いや、たぶん今でもそうだ。周囲は原因がわからず、だからといって青年側に非はない。家庭から外へ出た頃にでたその癖は、行き過ぎた人見知りとちょっとだけ男性嫌いなせいだろう、と判断された。父も兄も、どちらかといえば熊に似ているタイプだったため、小さいながらも幼稚園という社会に出なければ発覚しなかったようだ。

なんとなく、祖母と一緒にみていた二時間ものの推理ドラマのせいとなり、両親はそういうものだと納得している。

どうして小さい子供がそんなものを、といわれれば、いつのまにか祖母と同じ部屋に寝かされるようになり、こども相手に全く遠慮などしない祖母の趣味に付き合わされてしまったせいだ、と答えざるを得ない。

どう考えても、教育上よろしくないものを全く構わず見せ続けた神経はたいしたものではあるし、ある程度まで気がつかなかった実母の神経も大変愉快なものではある。時代を考えれば、母の感情に寄り添わなくてはいけないのだろうけれども、もう平成だろ、という突っ込みを一度はしてみたいものだ。それ以来、さらなる嫁姑戦争へと悪化したのだから子供としてはたまったものではない。

徐々に周囲のことがわかりはじめ、言語能力がついてきてからは、原因を話し出していたみたいではあるが、誰にも相手にされなかった。

もっとも、夢で誰かに殺されるから、その誰かに似た人が怖いのだと言ったところで真剣にとりあってもらえるものでもないだろう。

そんなこんなでそれ以来そのことを口にすることはなかったけれども、私はその夢をみなくなったわけではない。

はっきりと覚えている。

いや、感触すらどこか生々しく「記憶」している。

あの人が、私に手をかけた瞬間を。

見上げた顔は、どこか嬉しそうに歪んでいた。

苦しくて苦しくて。

夢の中の私が、いつも意識を手放すと同時に現実の私が目を開けた。

びっしょりかいた汗をぬぐうようにして首もとを確認する。

なにもなかった、と、あたりまえのことを確かめるようにしながら。






「畑山さん」


授業で当たり前のように指名され、悲鳴を飲み込みながらなんとか返事をする。

数日後に教室に戻った私は、クラスメートからさんざん心配された。体に異常がないことから、首をひねりながらも両親に送り出されたのが今日だ。

まさかこんなに早くエンカウントするだなんて予想していなかった。

いや、自分のクラスに配属された実習生なのだけど。


びくり、と肩をすくませ教科書に落としていた視線を先生へと戻す。

さわやかだろう先生は、ひきつった顔をしてなんとか笑顔をつくろうとしていた。

私が指名されたのは偶然ではない。

単なる出席番号と日付の一致による必然だ。

答えられない自分に、先生が助け船をだす。


「は、畑山さんはお休みしていたからね、ごめん、次の人」


申し訳ないが、先生の視線が次の生徒へといき体から空気を吐き出す。

額からは汗がつたい、あの夢をみたときのようにガタガタと体が震えだす。


大丈夫?


付箋紙に書かれたメッセージを受けとる。

心配そうにこちらをみる斜め前の友人にぎこちなく頷いてみせた。



「ほんとに大丈夫?」


授業が終わり、友人の美咲に声をかけられる。

ようやく視界からあの顔がはずれ、落ち着いて呼吸ができるようになった。


「大丈夫大丈夫、ちょっとあせっただけだから」

「菜々美は男嫌いだから」


幼なじみでもある美咲は、あるタイプの男性が苦手なことを知っている。そういう場面に遭遇すれば、さりげなく自分が矢面にたってくれる優しい友人だ。


「油断したぁ。今年のラインナップだったら絶対大丈夫だと思ったのに」

「まあ、どっちも選べないけどねぇ」


新しいクラスになるたびに、一喜一憂するのは担任の存在だ。私が苦手な男性像は、成人している。当然そのタイプが担任などになったら、一年どうやって過ごせばいいのかわからない。

幸い、そういう運には恵まれていたのか、女性だったり中年以降の男性だったり、容姿が該当しなかったりと、こんな風な目にあったことはなかった。


「苦手なの?格好いいのに」


高校から一緒になったクラスメートがからかうように声をかけてくる。

一般受けしない男性が嫌いなのならば理解も得られやすいだろうが、私の場合は正反対すぎて説明するのも面倒くさい。

まして、夢が起因などというあやふやな原因ではわかってもらう方が無理だ。


「あー、まあ、ちょっとあの手の男の人が苦手っていうか」

「担任も男だよ?同じカテゴリーとも思えないけどさ」


さりげなく毒を吐く。

確かに、メガネで小太りで、けれども人が良さそうな担任は、女子高生受けはしないかもしれない。


「まあ、期間限定だし。がんばれ」


思わず指折り数えてしまう。

その間ずっと学校をさぼってやろうか、などという邪心がわいてくるが、親の顔を想像してやめておく。

チャイムがなって、おしゃべりが中断された。

しんとなった教室に、教科担任が姿を現した。


 断片的な映像をもたらす私の夢は、物心がつく前からしつこいほど繰り返されている。

最後は必ず男が私の首を絞め、意識が薄れていく私に向かって刃物を突き立てるところで終了する。

それを殺される女視点で何度でも。

どう考えても、私がその相手に似た男を嫌いになったところで許されるだろう、と開き直っている。

なぜか音がない世界で、けれども最近になってようやく彼と夢の中の自分の関係がわかりかけてきた。

おそらく、彼と私は恋人同士だったのだろう。

原因はわからないものの、その世界では許されない恋だったのかもしれない二人は、心中を選ぶ。そして、男が彼女を殺し、たぶん男は自ら命をたったのだと思う。

演劇の演目では十分有名な心中というものを、追体験をする。

最初は恐怖でしかないその行為が、今では怒りの気持ちさえ浮かんでいる。

夢の中の私は、本当に望んで殺されたのか?

望んでいたところで、それに安易にのっていいものか?

おまけに、うっすら笑みまで浮かべてやることか?

八つ当たりの気持ちはすでに知らない夢の中の男へと向かっている。

心中といったところで、最初に殺される方にしてみれば、殺人とかわりないじゃないか、と。


結局、その日も同じ夢をみて、恐怖を怒りが凌駕した私は手荒く枕を壁に叩きつけていた。







「帰りたいんですが」

「帰してあげたいんだけど」


震える膝に力をこめながら、教育実習生と向き合う。

あれほど避けてとおっていたというのに、どういうわけかこんな狭い空間で一緒になるだなんて。

数学が壊滅的にだめな私は、担任に呼び出されてしまった。

これ以上赤点を続ければ補習を受けざるを得ないと。

嫌だと瞬間思ったが、今こんな状態になるぐらいならば、夏休み中だって喜んで受けてみせる。


「いいんじゃないですかねぇ、先生帰ってこなさそうですし」


奥さんが産気づいた、という連絡を受けて大慌てで帰宅していった先生がここに戻るはずはない。

どういうわけか、代わりに呼ばれた実習生が私の指導を引き受けたそうだ。

ありがた迷惑どころか、はっきりと迷惑だが。

彼がこの指導室へ入室したとたん、鞄を抱き抱え部屋の隅へと後退した。

反射とはいえ、我ながらなかなかすごい対応だとは思う。

ひきつって、次にはあきれた顔をした実習生は、どっかりと先生の代わりに腰かけてしまった。


「あのさ、僕何かした?」


ぶんぶんと音がなるほど首を横にする。

夢にみた男性、といったところで彼には何も関係がないことを知っている。


「それにしてはちょっとひどくない?」


授業とは異なる、少しフランクな態度をみせる。

こちらが彼の素なのだろう。

そんなことは知ったことではないが。


「すみません、ちょっと男性恐怖症で」


全く違うが、便利な症状を口にする。

友人は、そう判断して納得している。


「の、割りには担任とかは平気だよね」


あなたが嫌いなんです、とは言えなくてとりあえず笑う。


「まあいいけど」


だったら、私の退路を開けてくれ、と心の中で叫ぶ。


「あのさぁ、やっぱりどこかであったことないかな?」


再び、ナンパな台詞を吐き出す。


「ないと思いますけど」


――夢の中ならば何度でも、あなたに殺されてますけど。

私の中ではすでに、彼と彼を同一視し始めている。

爽やかな外見で、けれどもどこか軽さと冷たさを感じさせる。たぶん、こんな厄介な癖がなくとも、私はこの人のことは苦手だろう。

それほど、今までただ忌避してきた男性たちとは違うものを感じてしまっている。


「なんか、懐かしいというか」

「き、気のせいじゃないですかね?」


まったくちっとも、これっぽっちも関係ありません、と本当は声を大にして言いたい。

けど、情けないことに私の膝は震えっぱなしだし、ようやく開いた口からは情けない声しか出てこない。


「それにしても、やっぱりひどくない?」


隅にへばりついたままの私を指差す。


「す、すみません」


それ以上言えなくて口を閉じる。


先生が薄く笑った。

現実では初めて見る表情。

けれども、私は「それ」を知っている。

静かに立ち上がった先生は、こちらへとゆっくりと近寄る。

もう下がれないのに限界まで体重を壁へと押し付ける。

痛みを逃げ出したい気持ちが上回る。隙をついて逃れればいいのに、それすら出来ないほどに私の気持ちが追い詰められる。


「ねえ」


先生の右手が上がる。

ゆっくりと、まるでスローモーションのように私の首の方へと差し出される。

何度もみた、あの夢のように。

体温はまるで活動をしていないかのように下がったままだ。

嫌な汗しか流れていない。

それでも心臓は激しくなっている。

先生の手が私の左肩についたかどうかのタイミングで、私はまた意識を失った。






「畑山さん?」


養護教員の声かけにゆるやかに意識が戻る。

そして、ゆっくりと周囲を確認して、自分がまたやらかしてしまったことに気がつく。


「すみません……」


少しだけ霞がかかったような意識を起こしていく。

彼女の声音は、心底私を心配しているように聞こえる。こんな短期間に健康そのものな体の自分が運ばれれば、あたりまえかもしれないけれど。


「あ、美咲」


教員の隣には美咲が腕を組んで見下ろしていた。

どちらかというと心配というよりも怒りにかられているかのような表情だ。

そして、視界の端っこに例の男が正座をしていた。

声を上げないようにして後ずさる。


「だから、先生、苦手だから出てけっていったじゃない」


ぞんざいな物言いで、美咲は怒りをあらわにしている。


「だいたい、男性恐怖症だって言ってる菜々美にちょっかいかけるって、どういう根性してるわけ?」

「ちょっかいかけたというわけでは」

「どっかで会ったことない?なんて安っぽい口説き文句みたいなもん吐き出しといて、よく言うってーの」


表層的な行動だけみれば、全くその通りな先生は見る間にしおれていく。

それをかわいそう、という暇もなく、私の心臓はヒートアップしている。

そして、私の反応をみてあっという間に先生は追い出されていった。

無意識で深く息を吐き出し、養護教員と美咲の二人から意味深な視線をうける。


その後、教育実習生に「何かをされなかったのか」ということを中心に、質問攻めにあった。

ときには優しく、時には鋭く。

けれども、そんなものは全くない私は、やっぱり曖昧にへらへらと笑ってやり過ごすほかはなかった。






「夢?」


じろり、と美咲がこちらをにらみつける。

確かに私はある種の男性が苦手ではあるが、こんな顕著な反応を示したことはない。だからこそ、長い付き合いの美咲がこういう反応を示すのはあたりまえかもしれない。

ファストフードの店で、美咲の尋問に答えながら、私は長年秘密にしていた夢の話をぽつぽつと語っていた。

ハンバーガーとポテトを目の前にした美咲の尋問がとっても怖かった、というのもあるが。


「なんか、ずっと昔からみててさ、で」

「先生がその男にそっくりだと」

「まあ、そんなとこなんだけど」


疑わしげにこちらを見る美咲の表情は、見慣れたものだ。

幼い頃の自分が、親兄弟に説明をして変な子を見るような目で見られたときよりもはずっといい。

美咲は、私が本当に心底、ある種の男性が苦手だということをリアルで見てきたせいもあるかもしれない。


「……生まれ変わり、とか?」

「うーん」


私自身は前世のそれだ、とどこかで確信してはいるものの、一般的に生まれ変わりだとかいうものが存在することには懐疑的だ。けれども、私自身の「記憶」だけは信用している。

ちぐはぐだけれども、そんなところだ。


「じゃあ、先生もひょっとすると生まれ変わりとか」


半分ぐらい納得したのか、少し冷えてしまったハンバーガーに美咲がかぶりつく。それをみて、私もおずおずと手を出す。

安心するような慣れた味に、少しほっとする。


「どうだろう」


なんとなく、私の夢が「前世の記憶」だということを前提に話が進んでいく。


「今はどう?まだ怖い?」


さすがに私に近寄らなくなった先生は、きちんと仕事をこなしているようだ。

彼が担当する授業には魂を飛ばしてあまり記憶がない。地を這う成績が、もっと悪化しそうなことには目をそらしておく。


「怖い、っていうか、なんというか」


こんな風に肯定から始まる会話をしたことがなくて、ふわふわした気分になる。

誰も、私の言うことなど聞いてくれる人はいなかった。

カウンセリングを紹介され、その人たちは確かに私のことを否定せずに聞いてくれた。

けど、それだけだった。

私の夢はなくならない。

やっぱりあの人は夢の私の首を絞める。

けれども、それは今の私とは関係ないことだ、ということだけを強く認識することで、私はカウンセリングにかかることをやめてしまった。

一定の成果はあったのかもしれない。

恐らく、彼らの中で私は病名がついた患者だったのだろう。


「……、今はなんかむかついてる」


以前から少しだけ感情の変化が出てきてはいたけれど、美咲と話すことでしっかりと言語化された。

どこか肩の荷が下りる、とでも言うべきなのだろうか。

否定せず、肯定をしてくれて、なおかつ前を向いて話してくれる美咲との会話は、どんな治療よりも効いているのかもしれない。


「むかつく?」

「そう、なんかむかつく」


言葉にすれば、腑に落ちる。

私は、少し前から夢の中の彼に怒りを覚えている。

それは、小さかった頃にはなかった感覚だ。

ただ恐怖におびえ、布団をかぶっても光景が消えてくれないそれは、恐怖の対象でしかなかった。

姿の似ている男性に、恐怖感を覚えてしまうほどに。

けれども、今はその感情よりももっと強い感情が支配している。


「心中って、合意でも無理心中でも、やっぱ殺人じゃない?」

「……あー、まあ」


物騒な単語が飛び出しながらも、目の前の食料は消費されていく。

程よい塩味が効いたフライドポテトを口に運びながら、会話を進めていく。


「って思ったら、なんか怖いっていうより腹がたつ。事情なんて知らないしさ」


許されない関係、だったのではないかと推測はしているけれども、私の夢ではそれまでの関係性は表示されていない。

二人の着ている衣装の違いだとか、若奥様風な女性と、どこかちゃらついた男、というのは俯瞰的に見ている自分でもどこか違和感を覚えるほどだ。


「そう思うと、なんか怖いっていうのとは違うような気がしてきた」


まだあの手の男性が苦手なのは事実だ。

けれども、以前のようなおびえ方はしなくなったような気がする。


「よくなってるのか、悪くなってるのかわかんないねぇ、それ」

「まあ、そうなんだけど」


そのまま、会話は他愛もない話へとうつっていった。

私は、私の心が随分と軽くなっていたことを実感した。





「あ、畑山さん!思ったんだけど」


息を切らせるかのような勢いで、教育実習生の彼が近寄ってくる。

私の前に、すかさず美咲が入り込み、視界を遮断する。


「で、何の用?先生」

「君に用があるわけじゃないんだけど」


どこからどうみても優等生風だった先生の表情が変わる。

どこか皮肉めいた笑みを浮かべ、容赦なく私に夢の中の彼を想起させる。

こちらを見下ろす視線を、思い切って見上げる。

先生の目と、はじめてまともに焦点があう。

その色に、そして表情にやっぱり私は記憶がある。


「私に聞かせたくない話なんて、先生にはあると思えないんですけど?」


にこり、と笑いながら美咲が答える。

先生は、侮蔑を含んだ笑みを浮かべる。

爽やかで、好青年だった先生の像とかけ離れていく。

外見から寄ってくる女生徒を上手くいなし、わからないところを聞きにいく真面目な子達の情熱に程よく応えていた先生とは思えない。

ただ、なんとなく、確かに胡散臭いところはあったにはあった。

それが、私の夢からくる偏見ではなかったのかもしれない。


「舌打ち、だなんて、ちょっとよくないと思いますが?」


無意識なのか、舌打ちをしていた先生をすかさず美咲が咎める。

間近で、そんなことをしてしまう大人というのにリアルでは出会ったことがなかった自分も驚く。

美咲を盾にしてしまったことは、悪いとは思う。

けれども、腹が立って、何かをいってやりたい、と思う理不尽な心と、やっぱり怖い、と思う弱虫な心で、私の中はむちゃくちゃだ。八つ当たりをするべきではないし、だからこそ、私は美咲の背中に隠れてしまう。


「だから、おまえには関係ないって、言ってんだろ」


先生からは、聞いたことがない柄の悪い声が低音で繰り出される。

これが、ひょっとしたら本質なのかもしれない。

そんな風に思って、美咲と一緒に一歩下がる。

すかさず距離がつめられる。

先生の手が、美咲の右肩にかかり、乱暴に彼女を排除しようとする。

彼とまともに対峙してしまった私を、美咲が慌てて両腕に抱えるようにして先生から隠そうとする。

当初はじゃれ合い、にもみえた私たちの動きに、周囲が不穏な空気を察知しながら集まっていく。

ギャラリーの視線が多くなったにもかかわらず、先生は本性が出っ放しだ。


「だから、邪魔だって言ってんだろ」


無理やり美咲の腕を掴み、私から離そうとする。

けれども美咲は、顔を顰めながらも私を解放はしない。


「だから、言いたいことがあるのなら、ここで言えばいいじゃないですか」


何度目かの舌打ちの後、先生は突然美咲の首を絞めようと手を伸ばした。

力をこめようとした瞬間、大きく顔を左右に振り、ゆっくりとその手を下ろした。


「ごめん」


生徒の好奇心の中、先生は何も言わずに去っていった。


「なんなわけ?」

「……わかんない」


当事者も理由がわからず、結局このやりとりは曖昧なままに終わってしまった。あれこれ聞かれはしたけれども、何もわからない私たちも、首をかしげるほかはなかった。







「畑山さん」


唐突に、思い出したくない人間が目の前に現れ、混乱する。

当初の爽やかそうな笑顔のまま、教育実習生だった彼が私の進路を塞いでいた。

普通の日曜日に、美咲たちと待ち合わせをすべく、私は家の玄関を出たところだ。

同じような戸建てが並ぶ典型的な新興住宅街の中に、我が家はある。正直なところ、同じような家ばかりで私でもたまに迷子になりそうな場所だ。

そんな場所に、一度も私の家を訪れたことのない人間、しかも訪れる理由のない人間が現れるのは言葉にもでないほど驚くものだ。

彼のほうはそんな私の葛藤など知らずににこにこと近寄ってくる。

あれ以来、あまり例の夢はみなかったものの、それでも彼は自身のせいではないけれども、私にとっても恐怖の対象だ。理不尽だとはわかってはいるけれど。


「……何かご用ですか」


搾り出してようやく口を開く。かすかに掠れた声は、それでも意味のある言葉をつむいでくれている。


「いい忘れたことがあってさ」


後ろ手にドアノブをもつ。

幸い、家の中には両親がいる。

ただの元実習生にどうしてこんなに恐怖心を感じているのかはわからない。

以前の私の偏見から来るそれ、とは違う別の種類の何かがせりあがってくる。


「俺たち、やっぱり出会ってるよね?」


首をかしげてみせる。

私は夢の中で会っているけれども、それが彼にとっても真実だとは思っていない。

あんなものはでたらめで、一方的で、彼にとっては何も関係のない話でしかありえない。

そう、思い込みたい一身で精一杯とぼけた顔をする。


「やっぱり、っていうか、思い出したんだ」


ぞくり、と全身に鳥肌がたつ。


「だから、忘れ物をね、とりにきたんだよ」


彼はにやり、と笑いゆっくりと両腕を上げた。

そして、私の首筋にひんやりとした指先をかけた。


「い、いやあああああああああああああああ」


力を込める寸前に、全力で大声を上げる。

震える両足を叱咤しながら、お腹の中から思い切り。

以前の私ならばきっと、大人しくなすがままになっていたのだろう。

恐怖に支配され、そして震えていただけの私だったのなら。

けれども、美咲と話して以来の私は前にはない「怒り」を内包していた。

おびえよりも怒りによって、私は行動に移すことができた。

自分のみを守るべき最小限の手立てを。


ぐい、と力を込められ、声が止まる。ぐぅという息が吐き出されるけれども声にはならない。

けれどもすぐさま開けられた玄関から飛び出してきた父親によって、先生はあっけなくのされていた。

あまり痛みが残らなかった私はへたり込み、やっぱりかけつけてくれた母親に縋りついた。


夢はみなくなった。

というよりも、絞められる寸前に相手の男に右のこぶしをつきたてられるようになってから、そんなものは見なくなった、というのが正しい。

こんなに綺麗に夢の内容が変更できるのならば、どうしてもっと早く出来なかったのか。

出来ていたら、こんなことにはならなかったのかもしれないのに。

うらみに思いながらも、現在は変えられない。

結局、先生は教職の道を諦めたようだ。

私の首を絞めたことと、それをとめるために手を出した父親。

怪我の度合いがどう考えても先生の方がひどく、色々心配した私は被害届などは出さなかったのだけれど。

怒り心頭の父親は吠えていたけれども、魂が抜けたようになった彼をみて、もう大丈夫だと勝手に判断してしまった。

なんというかつき物が落ちた、というのはこういうことを言うのかもしれない。

私に言ったことも覚えていないし、どうして私のところに来たのかも覚えていないようだ。

それが、確かだと判断する方法はないけれど、少なくとも嘘は言っていないように思えた。


彼が、生まれ変わりなのかはわからない。

私の夢が過去の真実だったのかもわからない。

確かめようのない二つの出来事は、奇妙な具合に絡まりあい、触発され、あんなことが起こってしまった。

それも、本当に明らかにすることなど出来ないのだけれど。


夢を見なくなった私は、特殊な男性嫌いも克服した。

私は、まっさらな妙な記憶のない「私」として、歩いていけるようになった。

ただの、畑山菜々美として。

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― 新着の感想 ―
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