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たぶんぼー④‐2

 床の掃除が終わり、各々がストレッチをしているところへ、館長のジジイが現れた。

 その御仁は、出入り口でおもむろに一礼し、神棚を仰ぎ見て口元をムニャムニャと動かし始める。

 その様子がどんなにおかしくても、僕たちは笑ってはいけなかった。顎の先をチャッカマンで(あぶ)ってやれば、さっと燃え広がりそうなほどカスカスに乾燥した御仁だが、こと礼儀に関しては相当うるさいのだ。


 その館長が、みんなの方へ向き直ったところから、老若男女混合での基礎反復練習は始まった。

 受け身から入り、突き、手刀、足刀と決まった型通りの流れ。約三十分をそれに費やすことになる。一挙手一投足に気合っぽいものを込めるので、真面目一本やりの不器用な奴は、それだけでヘロヘロになる。


 その最中、突然、筋肉ゴリラ師範代の咆哮が飛んだ。

榊原(さかきばら)! やる気がないのなら、とっとと帰れ!」

 留美子が名指しで叱られたのは、本日すでに二回目だ。彼女は、たった今起きたかのように、慌てて掛け声を張った。

 

 十分間のインターバル中、留美子の体調を気遣う者の囁きがあちこちから上がっていた。僕の隣にいた高校生も彼女のほうを見やり、首を捻っている。それから、ちらっとこっちを一瞥してきたので、

「(ルミが怒られることは)べつに珍しくないでしょ」と、僕は言った。

 高校生は、眉を微かに上げてニヤついた。勝手に合点がいったように頷くと首の汗を拭いだした。


 それからしばらくして、師範指導に入った。段持ちの上級者から大まかに分かれて、グループごとの指導が行われる。それが終わった者からペアを組み、今度は剛法と柔法の乱取りが始まる。師範指導で享受した事柄を忘れないうちに試すのだ。

 するとそこへ、また剛毛ゴリラが怒鳴った。

「榊原ぁ、集中しろ! ぼさっとしていると怪我をするぞ! 相手のことも考えてやれ!」


 いつもの留美子ならば、師範指導と、この乱取だけは、人一倍張りきるのだが……。

 普段のようにS気を出しすぎて怒られる、といったパターンとは違う。留美子を知っている者なら、今日の彼女は明らかにおかしい、と感じたことだろう。

 道場の雰囲気が、もう一段階変わったのは、あまり動かないはずの館長が、のっそりと留美子に近づいて行ったから。

 それで、何人かは横目で様子を窺っていた。

 そうなると、筋肉剛毛がまた唸りを上げる。


 壁にほど近い一角で、館長はムニャムニャと顎を上下させていた。その傍らで、留美子は嫌なそうな表情を隠さずに、頭を垂れている。

 この道場に長い者は経験済みだが……館長様の粘つく口は、超臭い。あの至近距離だと一種の拷問、あるいは自殺教唆。

 それで少し同情的になっていると、僕は突然、腕を取られて引き倒された。完璧に肩と手首をきめられ、腹ばいで身動きができなかった。


「おい、カツオ。嫁さんが心配なのはわかるけど、格上相手に余所見すんなって」

 近くにいた何人かがクスクスと笑う。

 今日の乱取り相手になった高校生は、僕の頭をゴシゴシと撫でて背を向けた。


――おのれぇ、誰がカツオだ!


 その高校生に突っかかっていき――返り討ちに遭い――粉砕され――時間が経つのを忘れていたところへ号令がかかった。

 道場内のあちこちで、ホウッと息が吐かれた。それは本日の一通りを終えた合図、鎮魂行の始まりでもある。

 鎮魂行とは、お寺でいうところの座禅。

 道着を正しながら、いち早く整列しなければならない。そして、呼吸を整えるのも(はばか)られるほどの静寂の中、筋肉クソゴリラがいつものように竹刀を手にして、僕たちの間を練り歩き始めた。


 留美子の心が虚脱している原因は、今日の北里先輩の告白事件のことに他ならない。いや、僕にはそれしか思い当たらないといったほうがいいか。


 あれから――北里は留美子が返事を寄こす前に、

「……だから、真剣に考えてみてほしい」などと言い残し、長い脚で颯爽(さっそう)と去っていた。


 もちろん僕は、まだ教室の中にいた。廊下側の内窓から二列目の席だ。窓は開いていたので、丸見えというか、モロ出しというか。他の観覧席にいた数人も、急にざわめきを取り戻したようだった。

 その場で一人残された彼女の視線は、あろうことか北里の背中を追っているように見える。こちらには背を向けられていたので確定できないが、そんな(たたず)まいだった。

 留美子のくせに悩んでいるような感じが、妙に腹立たしい。


 そこへ、トントンッと床を叩く音――。回想と静寂はいとも簡単に破られた。

 警策(きょうさく)代わりの竹刀が、これから打たれる者の背後で鳴る。あまりにその音が近くだったので、僕はそっと薄目を開けた。

 犠牲者は、やっぱり隣の留美子だ。

 筋肉剛毛クソゴリラの決定に反論することはかなわず、無言の説教が痛そうな打音を轟かせた。

 続いて、隣……。


「え、なんすか?」

 頭をコテッと後ろへ倒して、僕は師範代を見上げた。

「磯野、お前はついでだ」

 言い終わるや否や頭を起こされ、肩首にズンッとくる。ほぉお……ナイス理不尽。

 

 これも、すべて北里が悪い!


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