たぶんぼ-③‐3
ゴン太のくわえた杭が地面に落ちるのと同時に、僕たちは体を翻した。ダッシュの一歩目は、わずかに留美子のほうが速かった。
留美子は入ってきた門のほうへ。僕は真後ろへ真っ直ぐ……垣根で行き止まりだ。
動物は複数の獲物がいる場合、一番弱い者を確実に仕留めにかかるという。僕のほうが演武の成績はいいのに、ゴン太はこちらに狙いを定めたようだった。
ゴミ袋を二つ飛び越えたとき、僕の尻に何かが触った。間髪入れずに、耳にシャーペンで突き刺されたような痛みが走った。それでも、ここで倒れるわけにはいかないし、頭を庇ってしゃがんでしまえば、それこそ終わりだ。犬畜生に降参のタップは効果がない。
僕は迫りくる垣根をびよーんと飛び越えるイメージを強く持って、おもいきりジャンプした。
アスファルトへ汗が落ち、それで蒸されるようだ。
目を開けると、アスファルトの地面が縦になっている。
ああ、あちぃ……。追っ手の足音を探る忍者のような恰好で、僕の耳は地面についていた。
腰を揺すってくる手の主は留美子。見上げると、顔をぐしゃぐしゃにして僕の名を叫んでいる。
どうやら、垣根に足を引っ掛けて、頭から落ちてしまったらしい。犬の鳴き声は続いていたが、垣根を越えてまでは追って来ないようだった。
ふいに留美子が遠ざかっていった。
コラコラ、こんな所へ置いていくなよ。
立ち上がろうとして、膝を支えると手が滑った。半ズボンから下は、赤くヌルヌルとしていた。
「後ろに乗って!」
なんだ、自転車を取りに行っていたのか……。僕はぐっと立ち上がって荷台に跨った。
「ちゃんとつかまっててよ! すぐそこの病院へ行くから!」
僕は無言で留美子の体に腕を回し、背中に額をつけた。女子の後ろに、乗せてもらっているのが恥ずかしくて、顔を伏せたのだ。彼女の背中が見る見るうちに赤く染まっていく。ペダルを漕ぐたびに、彼女の背骨からゴリゴリという軋みが、僕の額に伝わった。
派手に出血していた脚は大したことはなくて、問題は耳のほうだった。流れ込んだ血のせいで、鼓膜がふやけ、その周辺が炎症を起こしているらしい。それでしばらくは聞こえないそうだ。
それに関しては、いずれ治るならべつにいい、と思った。
参ったのは外観だ。食われたのか、引っ掻かれたのかはわからないが、とにかく、少し千切れているらしい。だいぶ腫れているし、縫合したばかりなので、耳は包帯に覆われている。痛みはない。麻酔が効いているのだ。しかし、自分で確認できないことが、余計に不安を増幅させた。
あらかたの処置が終わり血液を採取されているときに、血相を変えて病院にやって来たのは、留美子のおばちゃんで、処置室から出ると、待合のベンチに留美子と並んで座らされ、こっ酷く説教をくらった。
普段、ニコニコとしているおばちゃんが怒ると、迫力がある。片方しか聞こえなくても、入ってくる恐怖は同じだった。看護師さんが助け舟を出してくれなければ、もっと長引いたことだろう。
その後、僕はおばちゃんの運転する車で帰宅した。留美子は自転車だ。
おばちゃんが車庫入れの最中に、うちの母ちゃんが自転車に乗って家の前を通った。パートからの帰りだった。
「誰にやられたの?」
母ちゃんは僕を見るなり、そう言った。
ヒトに危害を加えた獣は、ややこしいことになるらしい……。
僕が薬を飲んで寝ている間に、警察とゴミ屋敷の住人が来て、母ちゃんと留美子のおばちゃんが対応にあたったそうだ。
結論から言えば、ゴン太は御咎めなし。こちらが悪戯しなければ、こんなことにならなかったはずなので、処分しないでやってくれ、と母ちゃんが言ったそうだ。
夜になって、僕は振らつく頭を抱えて一階へ下りていった。
話を聞いていた父ちゃんは、僕を見るなり怒鳴った。
「何だってそんなことをしたんだ!」
「だって、ルミが……」
「留美子ちゃんがどうしたって?」
父ちゃんは訊くと同時くらいに、左斜め下からのビンタを放つ。
僕は半回転して、崩れ落ちた。
あーれー、そんな御無体な。それに、いちおう怪我人なんだけど……。