たぶんぼ-③‐2
「おーい、磯野ぉ、野球しようぜ!」
学校のグラウンド横を通るとき、誰かがこんなふうに呼び止めてくれるんじゃないかと思って期待したんだけど、無駄な挙動に終わった。ゴミ屋敷はもうすぐだ。
以前、この路地を通ったときは、ここら辺からもう臭っていたような気がする。風向きか、それとも少しは改善されているのか、意識して鼻で呼吸しても臭わなかった。
ブレーキを掛ける前に留美子は飛び降りた。
周囲をさっと確認して、僕も自転車を端へ寄せた。
そこから歩いて十メートル。屋敷の前まで来ると、やっぱりだいぶ臭い。
私有地との境界になる垣根が鬱蒼と伸び上がっていた。格子状に編んだ竹柵も、所々千切れてしまっていて放ったらかしになっている。ところが、路地に面している外側だけは剪定されていた。ここの住人が刈り込んだとはとても思えない。垣根の背丈は僕たちの肩くらいで、背伸びしなくても奥の家までずっと見渡せた。僕たちは肩を並べて、垣根越しに覗きこんだ。
庭のゴミ袋は積み上げられておらず、蔓に巻きつかれながら、あちこちに散乱しているといった具合。なかには破れて中身が覗いている袋もある。臭いはずだ。
僕は右手に竹尺を持ち、使い勝手を確認するために何度か振り下ろした。
そして、恐る恐る庭へ入っていった。留美子もすぐ後ろに続いた。直線距離にして六メートル。しかし、ゴミ袋が障害物と化し、蛇行を余儀なくさせる。
なぜ僕が実行係になっているのかというと、
「はいコレ。じゃぁがんばって」と、留美子が竹尺を僕に差し出したからだ。
僕は「おう」と受け取って構えた。
すぐに気づいて「なんで、僕がやることになってんだよ」
「なに言ってんのよ、男のくせに」
出たよ……男女差別発言。
「僕はただの付き添いだろ。だいたい、ルミがやるって言うから……」
「シッ! 敵が起きちゃうでしょ」あんた馬鹿ね、と言う顔だった。
肝心の犬は、玄関の右脇にある犬小屋の中にいた。寝そべっている。犬種は警察犬にもっとも多く採用されている、ジャーマンシェパードだ。名前も性別も知らない。たぶん、ゴン太か、ジャネットだろう。嗅覚はヒトの何倍も鋭敏なはずなのに、よくこんな所にいられるものだと思う。もしかして、奴が頭から小屋に突っ込んでいるのは、そのせいなのか? なので、頭部への打撃は無理だ。狙いは尻尾の付け根に変わった。
一メートルの竹尺プラス僕の腕の長さ。なんとか射程距離に入った。
僕は留美子を振り返って(やるぞ)と目で合図を送る。信じられないことに、彼女は安全区域で足を止めていた。
それと、彼女の驚愕の表情。
まさか、と犬小屋を振り返った。
ゴン太がいない? と思ったのも束の間。ゴン太は小屋の中で回転して、頭から飛び出してきた。けたたましく吠えさかり、恐ろしいまでに歯茎を剥いている。
犬は聴覚も優れていることを忘れていた。こいつは、僕が近づくのを嬉々として待ち構えていたに違いない。
咄嗟に竹尺を振り上げた。同時に反転して走り出していた。
背後で、ヒェン、と短い声。竹尺の端がゴン太のどこかを打ったようだ。
ゴミ袋をジャンプ。踏み切った足が滑る。ゴン太が飛び掛かろうとして立ち上がった。
留美子が何かを叫ぶ。
立ち上がろうとしたのではなく、そこまでが奴の行動範囲だった。首のリードが伸びきったのだ。
僕はさっと立ち上がり、ゴン太へ向けて不敵に笑ってやった。
「大丈夫なの?」
留美子が僕の肘を掴んで言った。
「お前ってやつは……」
言いたいことはいくつかあったけど、今は安堵感が勝った。
僕たちは目を交わし頷いた。肩を並べて「来い!」と、みだれ構えで威嚇した。
ゴン太は悔しそうに、僕たちに背を向けて小屋へ戻っていく。リードが結わえてある木の杭を噛むと、スポッと地面から引き抜いた。
ゴン太が僕たちを振り返った。そして、ニヤリと笑った気がした。