たぶんぼ―③
留美子は窓を閉め、鍵までかけた。
その横顔と唇が何かを呟いている。彼女は手櫛で忙しなく髪を整えると、耳へ掛け直した。
明らかな異形でないかぎり、耳の形の善し悪しは判断できないし、それ単体に興味を抱く人は少ないだろうが、僕は他人の耳に注意がいってしまう。それは、僕の右耳の上部分が少しだけ欠けているから。インフェリオリティーコンプレックス……そこまでじゃない。少し気になる程度だ。
この耳は、道場での稽古中、魔人のように強い奴と闘って……。
あれは小学五年生のとき。二学期が始まってすぐの頃だった。
勉強部屋にいた僕は、寝転んで漫画を読んでいた。そこへ、窓の向こうから留美子の呼ぶ声がする。
立ち上がって見ると、向かいの窓から彼女が、ちょいちょいと手招きしていた。いつものことだ。
網戸を開けて顔を突き出すと、彼女も同じようにして、言った。
「ちょっと相談っていうか、手伝ってほしいことがあるんだけど。今からすぐに出られる?」
まったくもって嫌な予感しかしない。
「話くらいは聞くけど」
「じゃあ、ちょっと出掛けるから、支度して」
「聞くだけだって言ってんだろ。耳クソが詰まってんじゃねえの?」
「はいはい、詰まってていいから、早くして」
渋々ながらも、付きあってやろうと思ったのは、ただ単に僕が暇だったから。それに、毎日外を駆けまわっていた、夏休みの癖が抜けていなかったのだと思う。
僕は玄関の鍵を掛けて、周囲に留美子を探した。
すぐ出掛けると言っといて、彼女のほうが遅いというのはどうだろう……。誰かに聞いてほしくて、僕は渾身の舌打ちをした。
隣家へ迎えに行って、玄関のドアを開けると同時に留美子を呼んだ。
「おーい、ルミ! すぐに出掛けるんじゃねえのかよ」
「ごめん、ごめん」
留美子は一メートルの竹尺を手にして、すぐ脇の和室から出てきた。
「なにそれ?」
「あとで説明する」
そこへ留美子の母親が、台所から手を拭いながらやって来た。
留美子のおばちゃんは、いつも優しい。顔が似ていなければ、とても彼女の母親だと信じられないほどだ。それを留美子に言うと「う~ん、まぁね」と濁す。何が不満なんだ。
「おばちゃん、こんちは」と僕。
「あんたたち、すぐに出掛けるの? アイスクリームを作ったんだけど、食べてからにしたら?」
おぉ、アイス!
「あとでいい。三十分くらいで戻るから」
僕はぎろりと留美子を睨んだ。なによ、と彼女は竹尺で僕の胸を突く。
男だって、ピンポイントで乳首を突かれたら痛いのだ。たとえば逆に、僕が留美子の胸を突いたなら、マグマのごとく怒りだすくせに……。
まったく、世の中は男女差別に溺れている。
僕は留美子の家の自転車を漕いだ。用が済めばアイスが待っている。となれば、この暑さも前フリのようなものだ。
後ろの荷台で横乗りになった彼女は言った。
「ねえ、学校の向こうにあるゴミ屋敷って知ってる?」
「ああ、あのくっさい家だろ。テレビに出てくるようなのよりは全然マシだけど、夏場にあの家の前は通りたくないよな」
「そこに用があるのよ」
はあ? と驚いた僕を逃がすまいとしたのか、腰へ回された腕に力が入るのを感じた。
僕はちらりと後方から車が来ていないことを確認すると、Uターンした。竹尺でぴしゃりと頭を叩かれて、またUターン。小さく一周しただけだ。
「聞いてよ」と言って留美子は続けた。
それによると、彼女の友達の妹が、その家で飼われている大きな犬に吠えたてられたそうだ。その子が驚いて飛び退ったところへ運悪くトラックが通過して、事故になった。狭い路地だったので、トラックのスピードが出ていなかったため、コツンッくらいで済んだらしいが、そのときに妹ちゃんは転倒して、顔に擦り傷を負った、という話だった――。
「ね、惨しいでしょ?」
「ふ~ん、そりゃ災難。で、それでどうしようって……」と言って、口をつぐんだ。なんとなく留美子がやろうとしていることがわかったからだ。
「だから、あの馬鹿犬に仕返し……教育してやるのよ」
やっぱりかぁ……。
留美子の計画は、犬が眠っている隙にそっと近づいて、頭を叩いて逃げる、という穴だらけで杜撰なものだった。
「ぎゃっひーん、て言わせてやるのよ!」
僕たちはもう五年生だ。そんなのは低学年の男子児童の発想だろ? 女子のほうが精神的に大人だという噂は嘘だったようだ。