たぶんぼー②
留美子は二、三歩進んで顔を上げた。
片手で髪を上げたところで、やっと僕の存在に気づいて歩みを止めた。
ミスった――。
なんでこんな所で、悠長に外を眺めていたんだろう。そもそも、用がある教室は三階にあるのだから、三階の渡り廊下にすれば良かった。いや、歩行距離は同じだから、そこに選択ミスはない。さっさと戻れば良かったという判断ミスだ。
僕は今、とにかく留美子に会いたくないのだ。
しかし、彼女の眼に捕捉されたのなら、もう遅い。彼女は絶対に声をかけてくる。
僕は覚悟を決めて、またA棟に向いた。
そのとき、彼女の胸あたりまである髪が、まるで生き物のように踊り乱れて、顔を斑に隠した。すぐ横の一箇所だけ開いていた窓から、風が吹き込んだようだ。
彼女はむっと口を突き出して、窓に手を伸ばした。
あれは小学校の三年か四年。夏だったと記憶している。
留美子は親から散髪代を貰っておきながら、僕のところへ来て「ちょっと、髪を切ってよ」と言った。
手間賃、口止め料込みで五百円。
とくに用事もなかったので、僕は裏庭の木陰に椅子を出してきて、おっかなびっくり、注文通りにハサミを入れていった。
十分……もっと早かったかもしれない。
布切りバサミはゾリンッゾリンッと、いい音を鳴らして良く切れた。
「こんな感じ?」
僕がハサミに付いた髪の毛をフッと吹くと、留美子は髪を左右に振って、鏡を二枚要求した。
面倒くさい奴だ。
「そんなの自分のうちから持ってこいよな」と言いつつも、家の中へ探しに行った。
持ち運べるような適当なものがパッと見つからなくて、四角いやつと、小さな手鏡しか用意できなかった。
彼女は軽く不平を言ったのち、なんとか工夫して、仕上がり具合を確認していった。
最初のうちは、彼女もうんうんと頷いていた。しかし、僕に鏡を持たせて後ろ髪を確認する段になると、顔色が見る見るうちに変わっていった。何度も、鏡と頭の角度を調整している。
やがて彼女は、パカッと口を開ける。そして、たっぷりと五拍ほどの間があったのちに、泣きだしてしまった。大泣きしながら、椅子を蹴り倒して帰っていった。
僕は、その場であぜんとなって動けなかった。五百円も貰っていない。
ほんのちょっとだけ切りすぎたことは認める。僕と留美子とでは、髪に対する思い入れが違うことも知っている。
それで僕は、その日の夕方に隣の家へお邪魔した。
元々スポーツ刈りだった頭を、さらに丸めて謝りに行った。巷でよく聞く、反省の意を込めてというわけではなく、髪に対しての髪。目には目をみたいな感じで。
じつのところ、僕はあんまり悪いとは思っていない。切りすぎたとはいえ、彼女の可愛さは損なわれていないからだ。けれど、とにかく僕は謝罪した。弁解もしなかった。玄関の上り口で、留美子を前にして深々と頭を下げた。そして(もう、いいよ)という言葉を待った。
しかし、留美子は許すどころか、靴箱の上にあった花瓶を、僕の後頭部へ落とした。
花瓶は僕の頭では割れなかったけれど、そのあと玄関のタイルに落ちて砕けた。
え、死んだらどうすんの?