たぶんぼー①
快音を響かせているのは野球部で、眠りを妨げたのはブラスバンド部だ。
常時二十三度に設定管理されたドーム内は、快適な睡眠を約束してくれる。僕は、長さが二メートルはあろうかという天体望遠鏡の足元で目覚めた。
この高校の屋上には、地学部が所有する天体望遠鏡があって、コンピューター制御により、任意の天体を自動追尾できるようになっている。その他にも、よくわからない設備が並んでいる。そのすべてを隠すように、この建屋はドーム型をしていた。そして、二人もいれば満員という狭さだった。ドーム全体が回転しているのだが、ゆっくりすぎて体には感じない。
もちろん、ここは関係者以外立ち入り禁止だ。
もとい、屋上じたい地学部員と、教職員しか立ち入れないようになっている。……と、そのはずなのだが、僕が弁当を食ったあと、ふとした思いつきで上がってみると、なぜだか屋上の鉄扉には鍵がかかっていなくて、ドームにも労せずに入ることができた。うっかり屋さんは、どこにだっているものだ。
さて、周囲の雰囲気からして、午後の授業は終わってしまっている。ならば、ここからはさっさと退散しなければならない。地学部の奴らがデータ取りに上がってくるからだ。
あいつらはなにかというと、すぐに先生を呼びにいく。自分たちで、なんとかしようという気がないようなのだ。それが部の伝統なのか誰かからの教えなのか、僕は知らない。うちのクラスにも二人(三人だったか?)いるが、友達づきあいはない。
僕はドームから出て、屋上から四階へ下りた。
とりあえず一旦教室に戻らなければ、鞄を取りに行かなければならなかった。
教科書なんてものは机の中に置きっぱなしでいいが、スマホと体操着と弁当箱はそうも言ってはいられない。寝足りないような、なんともすっきりとしない頭に湿気た布団を被されたような、そんなどっしりとした面倒臭さがあった。
教室のあるA棟へ行くために、渡り廊下をいく。あちこちから聞こえていた部活の声が少し大きくなった。四階の渡り廊下には誰もいない。
いったい何時頃なんだろう? まだ三時台だろうか。四時……さすがにまだ五時にはなっていないだろう。思うと同時に左腕をクッと伸ばして手首を見たけれど、腕時計がない。失くしたんじゃないとは思う。去年にスマホを買ってもらってから、腕時計はしたりしなかったりだから。
僕は三つ目の窓の所まで来ると、そこから外を窺った。
この地点の縦ラインからだけ、正門の時計が見えるのだ……といっても、さすがに四階からだと角度的に厳しい。べつにこんな所から、目を凝らしてまで時刻を確認する必要はない。そんなことはわかっている。……まぁ、不定期の視力検査みたいなもので、同じことをしている奴をたまに見かけるのだ。
「えっと」西日が反射する窓を開けて、手で庇を作った。「にじゅう……ん?」よく見えない。
溜息――。
窓を閉めた。悔しくもなんともないので、さっさと諦めて、A棟へ向かった。
そしてA棟に入ろうかというときになって、僕の鼓膜を女子たちの声が震わせた。
どこから? と視線を左右に走らせる。女子たちの話し声は、目の前の階段を上ってきているようだ。この距離で聞こえるのは、僕の聴力のせいなのか、彼女らの声量のせいなのか、微妙なところだ。
やがて姿を現したのは、俺と同じクラスの二人と、隣のクラスの留美子だった。
上からチラリと見えただけだが、知っている奴というのは、ぼんやりながらもだいたいでわかるものだ。
僕は今来た渡り廊下に出て、彼女らをやりすごそうとした。
「留美子さぁ、帰宅部なんてやっているから、先生にいろんな役を押しつけられるんだって。あんたもどこかの部に所属すればいいのよ」
「そうなんだけどね。あたしさ、道場へ通っているから、部活とか始めても、しょっちゅう休まなきゃなんないんだよね」
「まぁ、それは知ってるけど……」
「それならさ、ウチんとこへ入りなよ。同好会だったら両立できんるんじゃない? ぜんぜん似合わないけどさ」
三人が体を曲げて一斉に笑う。
「ん~、今さらだよ。下っ端をすっ飛ばして二年からだと、ほら、いろいろあるんでしょう?」
「そりゃ、多少はね」
「でも留美子だったら大丈夫な気がする」
「なにそれ。どういう意味よ」
また三人は笑いあった。
僕が渡り廊下をB棟付近まで戻って振り返ると、彼女らが細かく手を振りあっているところだった。
二人はおそらく囲碁将棋同好会の教室へ。そして、留美子はこちらを向いた。
なんだよ。放課後にB棟へ行く用事なんてあるのかよ。
思わず唾を飲み込んだ。彼女の姿が見えた時点で、僕の肩には力が入っている。何気に外を眺めていたかのように顔を背ける。
留美子は真っ直ぐに伸びた脚で、渡り廊下へ踏み入ってきた。
膝上何センチなんて短い丈の女子が多い中、彼女のスカートは膝頭をきっちりと覆っている。膝に傷があるのを気にしているのだろう。
僕にも同じようなところに傷がある。僕らだけじゃない。あの道場へ通っている者は、たいてい膝とか肘に、ミミズ腫れのままで固着したような一生傷ができるのだ。打撃の傷、受けの傷、失敗の傷、いろいろだ。
脚といえば、あれだ。
あれは小学二年になったばかりの春。
大きすぎるランドセルには、まだ艶があった。そんな荷を背負わされて、えっちらおっちらと下校中のことだ。家が隣で同い年、クラスまで一緒だったので、その頃はまだ留美子と一緒に帰っていた。ちなみに、手は繋いでいない。小学校に上がってから、なぜだかいつも彼女は僕より半歩だけ前を行く。
「ねぇねぇ、シンちゃん。あそこで光っているのって何だろうね?」
留美子が橋の上から小川を覗きこんで言った。
彼女は腕をいっぱいに伸ばして指を差している。だけど僕には、彼女がどれのことを言っているのかわからなかった。
橋を渡りきった所から回り込み、彼女について土手を下った。
「ほらぁ、その手前の」
僕は、しゃがんで小川を覗き込んだ。
「こぉぉ」こお? 「しゃうっ!」
僕は頭から小川へ落ちて、さらに前転した。――うお、冷たい!
彼女が僕のランドセルを蹴ったのだ。
水嵩は僕の太ももあたりまでしかなかったけれど、見事に一回転したので、全身がもれなくびちょびちょになった。
蹴られる意味がわからない……。
「ちょっとルミちゃん、いきなりなにすんだよ!」
留美子は我慢できないといったふうに噴き出し、川縁で笑い転げていた。
呆ける僕をよそに、ざっと風が走って辺りの草花を順々に揺らしていく。
風邪をひいて熱が出たら、どうすんだよ。
その後、僕がごわごわに波打った教科書を、一年間使い続けたことは言うまでもない。