壁男
私の中にはある種の壁がある。
それをなんと称するかは分からない。
ひどく曖昧で、触れる事も出来ない不可視の壁は、しかし厳然と私を囲むように存在している。
他者と自己を隔てる壁。
四方八方十六方、幾重にも連なるその壁を砕く事も、飛び越える事も私はできない。
私は閉鎖的な人間で、他者に対して過剰なまでに友好的に接する事で自己の防衛を図っていた。
それが災いして、いや、そのような言い方は妻に悪い。
功を奏して、妻子を持つ事ができた。
妻との馴れ初めは、私のこの性格に関係無く、寧ろ私のこの性格に付随する形で妻が付いてきているわけであり、今回の話にはさして影響しないので省かせて頂く。
今、私がこうしてペンを取り、誰に見せる訳でもない文章を書き起こしているのは、言うなれば一種のけじめである。
何かの心変わりが無い限り、私は二度とこのような事を書く事はあるまい。
今、私にペンを握らせたのは、妻でもなければ、あの大事な、愛らしい娘でもない。
埃を被った、巨大な一枚の壁に半ば化石の様に埋まっていた、一人の男である。
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寒い日だったのを覚えている。
私はコートの襟を立て、息を吐く度に身の内から温もりが消えていくのを少しでも抑えようと奮闘していた。
日は山の背に沈み、空は東から順繰りに蒼く、冷たく染まってゆく。
コンクリートから剥き出しにされた鉄筋から錆の匂いが漂う。
私が暮らすのは『街』の外にある小さな一軒家だ。
私は努めて『街』の方を見ない様にしながら、その円周部を一定の距離を保ちながら歩く。
吹きさらしの廃墟に、ごうっと風が吹いた。
身を縮めてそれに耐える私の耳に、何やら風のものではない、獣が呻く様な声が混じっているのが届いた。
私はハッとして辺りを見回すが、それらしき影はない。
しかし、声は一向に止む気配を見せず、苦悶の声を上げ続ける。
私はふと、視界の端で何かが蠢くのを感じた。
目を凝らして見てみるが、何やら貝の様な物が『街』を囲む巨大な壁に張り付いている様に見える。
声の発生源はそれの様に思われた。
その貝は二本の触角を風になびかせるようにゆらゆらと揺らしながら、何かを嘆く様な哭き声をあげている。
私はちょっとした好奇心と恐いもの見たさでそれに近づいた。
少し行って、それが貝でないのが分かった。
殻のように見えたものは、煤けて黒くなった皮膚で、その生き物は背を丸めて壁の方を向いていた為に貝のように見えたのだ。
また少し行くと、触角だと思ったものが一対の腕、或いは脚であるのが分かった。
ああ、もし仮に過去の私がもう少し知的であれば、もう少し保身的であれば、その時点で踵を返して立ち去ったであろう。
しかし、私はそのどちらでもなく、嘆かわしい事に愚かであった。
私は一歩、また一歩それに歩み寄ると、何を思ったのか、今思い返すと驚く事に、それに声をかけた。
その時には、それが獣などではなく、全身が焼けたように黒く煤けてはいるが、人であるという事が分かる程度に、それは人の形をしていた。
私が近づいている事を知ってか知らずか、それは尚も呻き声を上げ続けている。
「大丈夫ですか」
私はそう言った。
流石に幾分動揺していたらしく、声は震えていたが、確かにそう言った。
そして、私の声を聞いたそれはぴたりと声をあげるのをやめると、ゆっくりと丸まった背を伸ばして、見上げるようにこちらを見た。
煤けた体とは対照的な真っ白な目が、黒い顔から浮かび上がるようにこちらを見つめた。
あぁと、嗄れた声がそれのひび割れた唇を割って漏れ出た。
じっとりと嫌な汗が全身から噴き出したのを覚えている。
しかしそれは、まっすぐとこちら見つめる目のせいではない。
それが体を伸ばしたが故に見えてしまった。
そう、あれは、言うなれば生えていた。
その、人の形をしたものは、『街』を囲むセメント材の壁からまるで草木の如く、上半身だけを生やしていた。
木が根をはるように、壁に下半身を埋めたそいつは、しかし、ぎょろりと動く目玉と、時折掠れた声を唇が紡いでいる事から生きているのは確かだ。
私はそれ以上その場に一秒もいたくはなかった。
しかし、私の脚はまるで棒にでもなったかのように、じりじりとしか動かない。
必死に脚を動かそうとする私を見ながら、それは口を動かした。
「お前はわたしじゃないのか」
老若男女の判別もつかない、そんな不気味な声が、掠れ掠れで届いた。
私はその問いに首を横に振った。
掠れた声に見合わぬ力強い眼差しが私を貫く。
「あ、貴方は何なんだ」
私の問いに、その人物はぐるりと目を動かすと、掠れた悲鳴をあげた。
「わ、わたしはわたし、わたしの中に、わたしとわたしと、わたしとわたしと大勢のわたしが」
そこまで一息に言い切る。
「ちがう! わたしは、わたしがわたしの中に」
支離滅裂になりながら、その“人”は叫ぶ。
その時には私はもう完全に腰を抜かし、その場に尻をついていた。
私は目の前で頭を抱えながら、焦点の合わない瞳が揺れ動くのを、強張った顔で見ていた。
「ここはユートピアなんかじゃない!この『街』は!この壁は!わたしがわたしじゃなくなる!」
私はこの異常事態において、過度の恐慌状態が一周回って精神を安定させたらしく、その人の一言に心を奪われた。
「ここが、この『街』がユートピアじゃないって……どういう事ですか」
その人は私の声に反応すると壁を指差して語る。
「ここは!こいつは街なんかじゃない!バカでかいわたし自身だ。 この中に、わたしの中に無数のわたしが……わたしは、誰だ?ちがう!わたしはわたしだ!お前じゃない!」
その人はしばしそうして意味の不明瞭なやり取りを一人で続けたが、やがて急に平静を取り戻した。
「私は、私はここを作った平野啓介だ」
今まで誰の声とも分からなかったその声は、年配の男のものになっていた。
その眼は疲れ果て、今にも永遠に閉じてしまいそうな危うさがある。
「ここは、人々が手を取り合って過ごせる楽園になるはずだった……」
男はそこで眼を閉じ逡巡する。
「違った。 人々の為のシステムだった筈が、いつの間にかそのシステムに人が組み込まれていた。 人が他者との垣根を越えた時、真の平穏が訪れると思っていたが……そうじゃない」
私には男の言葉の意味が分からなかった。
「人と人の垣根が消えた時、個人は集団の為の歯車でしかなくなる。 前提が間違っていた」
私は彼の話を無言で聞いているしかなかった。
そうする以外、何も意味をなさないように感じたのだ。
「今も私の中に別の私がいる。 魚の群れのように私の中を動いているのが分かる。 彼らはもうじき元の自己さえも失い、真の意味で一人の人間となるだろう。 ここは、今ではその誕生を待つ子宮でしかない」
男はそう言うとうっと唸る。
私は男がゆっくりと瞼を閉じるのを、ただ呆然と見ていた。
やがて、男は再びゆっくりと眼を開ける。
その瞳に私は見覚えがあった。
あぁ、あれはまるで、そう愛しの――――
「おとうさん?」
黒い手がわたしの頬に伸びる。
私はその手が触れるか触れないかのところで飛び上がると、一目散に逃げ出してしまった。
ひどく暗かった事以外に周りの様子は覚えていない。
あれが本当に娘だったのかどうかすらも分からない。
しかし、そんな事はどうでもいいように思えた。
あれが私の娘であったにしろ、他の誰かの子であったにしろ、少なくとも、あそこには妻と娘と、その他大勢が同時に存在し、それらが一種のシステムとして、集団という“個”を生かすための装置となっているのだ。
今ならば分かる。
私の持つ心の壁は、自我と呼ぶのがふさわしい。
他者と己を隔てるその壁は、壊しても、乗り越えてもいけない。
その壁を乗り越えた向こうに待つのは、自己の消失だ。
あの男は、一度壁の向こう側に踏み出し、しかし、自我を捨て去ることはできず、半端な融合体として壁と一つになってしまった。
自我という壁からこちら側に戻ることもできず。 さりとて、一度目覚めてしまえば二度と集団のシステムの中には帰れない。
そして妻や、愛しい娘、私の友人達が犇めくあのおぞましき混沌を内包した巨大な壁の一角で、彼は今日も嘆き続けているのだろう。
本作は町田雪彦様との同題短編となっております。
よろしければそちらもご覧くださいorz