梅ちゃんとの出会い 2
「で、お約束通りの不登校ってやつさ。別に学校なんて通わなくても知識の収集は家でもできるし、貪るように本も読めるし。まあ知っての通り僕はちょっと賢い子供だったからお勉強にはあまり不安はなかった」
「そんな時、ウメちゃんに出会ったんだ。母さんが体調を崩して入院したんだ。もともとあまり丈夫な方じゃなかったから風邪をこじらせたんだ。それで家政婦としてうちにやってきたのがウメちゃんだった」
「英語ができるという条件でハイリネン家に派遣されたウメちゃんこと梅川さんは50代半ばの家政婦だった。姉さんはすぐになついたし、僕も手のかからない良い子を演じるくらいは楽勝だった」
「母さんは入院、父さんは仕事、姉さんは学校。日中、不登校の僕とウメちゃんがふたりで過ごす時間は長かった」
「手のかからない良い子な僕だけど、従順というより慇懃無礼なガキだったね。ウメちゃんも決して作り笑顔で僕のテリトリーに土足で足を踏み入れるようなことはなかった」
「僕とウメちゃんが仲良しになれたのは納豆のおかげだよ」
アーロンは懐かしそうに過去を振り返った。
不登校だったアーロンは家族のいない時は梅川さんが作ってくれた昼食を自室でとることにしていた。梅川さんはそれを父親にチクることもなく、温かい心づくしの洋食を黙って部屋まで運んでくれた。
ある日、昼食を早めに食べ終わったアーロンがトレイに乗った食器を返しに行くと、キッチンがえも言われぬ臭気に満ちていた。
それはキッチンテーブルの隅で梅川さんが食べているものから発生しているようだった。
「梅川さん、なに? このひどいニオイは」
「あらごめんなさい、アーロン。もう食べ終わったのね。デザートはアイスクリームにする? 果物がいい?」
「デザートはいらないけど梅川さん、何か腐っていますよ」
「ああ、これね。これは納豆と言って大豆が発酵したものよ」
「そんな腐敗したものを食べたらダメですよ。お腹こわしますよ。僕だけちゃんとした食事をして梅川さんは腐敗したものを食べるなんていけません」
「優しいのね、アーロンは。でもこれは伝統的な日本の食べ物なのよ。私は好きなの」
アーロンはひどい腐敗臭を放つそのおぞましい豆の成れの果てをおそるおそる覗き込んだ。
白っぽい粘液でコーティングされた一粒一粒の大豆が互いに糸をひいて腐っていた。
「これは絶対ダメです。ヒトの食べ物ではありません。家畜だって食べません」
「それが意外とおいしいのよ。アーロンも食べてみる?」
「いりません」
「体にもいいのよ」
「いらないって言ってるじゃないですか!」
思いがけない大声にアーロンは自分でも驚いた。これまで梅川さんが自分に対して何かをしつこく勧めたり無理強いすることなんてなかった。いつも心地よい距離感を保ってくれていたことにアーロン自身いつしか甘えていたのかもしれない。
アーロンの思いがけない拒絶に梅川さんも驚いた。
「ごめんさなさいね。私もこちらで納豆をいただくのは控えるわ」
心から申し訳ないという表情で梅川さんは9歳の少年に詫びた。
「いいえ、僕は自室で食べますから梅川さんはどうぞ遠慮しないでください」
アーロンは焦っていた。感情を表に出した自分が恥ずかしかった。学校でも家族の前でも常に冷静で無感情という鉄の鎧を身につけていた。そうでもしないとアルビノという先天的な色素の欠損と共存できなかったからだ。
「いいえ、これから納豆は自宅で食べるから大丈夫よ」
梅川さんはにっこり笑って続けた。
「本当にごめんなさい。自分が好きだからって無理強いしてしまったの」
アーロンの中で何かが崩れ始めた。
「だからっ! ここで食べてもいいって言ってるじゃありませんか! 食べてください! 毎日食べてください」
「アーロン?」
「じゃあ僕も食べますから! 一緒に食べますから」
アーロンはテーブルの上の腐臭を放つおぞましい豆を梅川さんの箸を握ってかきこんだ。
「ウェ!」
たちまち納豆はさっき食べたばかりの未消化の昼食と一緒にフロアにぶちまけられた。
アーロンは口元を吐瀉物で汚したまま床にへたり込んだ。その目には嘔吐によるものか、別の原因によるものか本人にもわからない涙が膨れ上がっていた。
「アーロン! 大丈夫?」
梅川さんが駆け寄ってきた。
「ごめんなさい。床を汚してしまった。梅川さんの仕事を増やしてしまった」
アーロンの目からポロポロ涙がこぼれた。人前で泣くのはどれだけぶりだろうか。
一度流すことを許された涙は、本人の意志を無視して堰を切ったようにとめどなく流れた。
「いいのよ、アーロン。お掃除が仕事ですもの。それより大丈夫? 少し横になる?」
うなずくアーロンに優しい視線を送りながら梅川さんは彼の部屋までつきそってくれた。それでも梅川さんは一定の距離を保つことを忘れなかった。
「着替えここに置くわね。汚れた衣類はドアの外に出しておいてね、お水を持ってくるわ」
9歳の子供の着替え中でも部屋を出るという梅川さんの配慮がありがたかった。思春期にはまだ少し早いが、物心ついた頃から人とは違う色素の欠損による白磁のような肌を他人に見られるのが何より嫌だった。
ノックの音がした。
「入ってもいいかしら? お水持ってきたわ」
「はい……」
着替えたアーロンはベッドに腰掛けていた。
「気分はどう?」
「はい、大丈夫です」
「よかった。お腹すいたら声かけてくださいね。お水ここに置くわね」
「あの、梅川さん」
「はい?」
「アルビノって日本語でなんていいますか?」
「先天性白皮症、または先天性色素欠乏症よ」
「日本人にもいますか?」
「いるわよ。知り合いにも……」
何かを言いかけて梅川さんは言葉を飲み込んだ。
「さあ、服洗っちゃいましょう。天気がいいから夕方までにすっかり乾くわ」
部屋を出ようとする梅川さんの足が止まった。後ろから白くて細い両腕が腰に回されたからだ。
梅川さんはアーロンの腕に自分の両手を優しく重ねた。しばらくそのままの姿勢を保ってから梅川さんはアーロンの手を軽くポンポンとたたきその腕を外した。背後で鼻をすする音が聞こえた。