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第47話:小さな恋のメロディ(後編)

今日も晴れていた。

夏よりも輪郭のはっきりした風景が、すでに正月のようなたたずまいを見せている。

秋とはいえ、すっかり冬のにおいのする朝である。

寒い。その肌を突き刺す寒気の舞い降りる季節ということもそうだろうが、川と言うのはもともと風が冷たいものだ。

そう、美衣奈は今、厚木を流れる相模川のほとりに腰を下ろしていた。

川の水は誰に命令されたわけでもないだろうに、皆、同じ動きで流れていく。いつまでもいつまでも、水は絶えることなく、とまることもなく・・・そんな様をぼんやり眺める美衣奈は、敬二郎を待っていた。

琴の葬儀も終わり、どちらともなく、この場所で会う約束をした。ちなみに火葬場はすぐ背後にある。

もうあれから5日も、何の練習をしていない。練習などできるわけはなかった。琴の、自分のなによりも憧れだった琴の、そのまぶたが二度と開かぬところを見てしまったのだ。あれから2時間がたった後であった。

傷を見せぬためか・・・目と口以外は包帯が巻かれ、一瞬、別人ではないかと疑ってみたりもした。でも・・・間違いはない。少し気の強そうな眉や目のラインは他の誰にも見まごうはずはない。

美衣奈は泣いた。

・・・彼女の眠る病院のベッドの脇で音も無しに崩れる彼女がこんなに泣き喚いたのは、きっとピノが生まれたあの日以来・・・。

でも今日、今・・・もう、涙は出ない。何か、アミがかかったかのような、不鮮明な感情が、美衣奈の気持ちを鈍くしていた。

「美衣奈」

声が、した。

もう一人の抜け殻がやって来た証拠だ。

「おはよう。浅海君」

そして、最近は目を合わせるだけではにかんでいた彼女が、こんなに冷静に彼を迎えたのも、久しぶりであった。

「どうだった?」

「うん・・・警察の奴等、逃げた車ばっかり気が行っちまって、俺のことはいいみたい・・・」

というか、例の目撃者という人がそればかりを強調したために、警察は敬二郎をろくに取り調べもせずに、「彼女が乗っていた原付を、暴走車がひき逃げした」事になっているようだ。

だが正直、そんなことはどうでもいい。警察に裁かれようが裁かれまいが・・・琴に対しての自分の罪が購えるとは到底思えない。

実際、筆者は彼自身にさしたる罪があるとも思えない。しかしそんな理屈などどれほどの意味を持つ?

~琴は死んだ。自分の運転していた原付の上で~

・・・圧倒的な事実の前に、いかな理屈も言葉もあまりに小さい。

身のよじれてしまいそうな、だがそれに甘んじることさえも許されないような無限の後悔にさらされたまま、彼は暗くよどんだ出口のない奈落をさまよっているのである。

「俺が殺したんだ・・・」

空が青い。秋の雲がその空のキャンパスに彫刻のような造形を紡ぎ出している。

「あああああああああああ!!!!!」

そんな静かな空気には、おおよそふさわしくない絶叫が、一瞬、風を引き裂いたかのように見えた。

だが、自然は大きい。男の悲痛のいななきなどは刹那にして受け止めて、まるですべてを許してしまったかのように一瞬で消し去ってしまう。

その空を恨めしそうに睨む彼の胸中では、まだ、琴が笑っていた。

美衣奈の隣に、彼は座った。そういえば、彼のほうが美衣奈にあわせて座ったのはこれが初めてかもしれない。

そして二人は、しばらく川辺の一部となる。

「・・・・・・」

水の音だけが耳に心地よい。

その音の任せるままに耳を楽しませながら、美衣奈はそんな敬二郎に、自分を重ねていた。

・・・今なら彼の気持ちが良く理解できる。

ピノが消えて記憶が戻ったのは、もしかしたら今日この日の彼の気持ちを汲むためなのではないかと思うほど・・・。

自分の起こした事故が父を、母を奪った。哀しいんじゃない。悔しいんだ。自分はその悔しさを一人で乗り越えることができなかった。

自分はあの時、何が必要だったのか・・・。

それが、今の美衣奈には分かる・・・。

「浅海君・・・」

美衣奈は一度起ちあがり、彼の背中のすぐ後ろで、膝を折る。

そして・・・柔からく、しかしきつく、敬二郎の背中を抱きしめた。


恥ずかしさは、不思議となかった。あの日、自分にはピノがいた。今の彼にそれが必要なら、自分がなればいい・・・彼女のその行動は、あるいは「母性本能」に近いのかもしれなかった。

・・・静かになるのは何度目だろう。

一つに重なった彼女のすべてが、彼になにかを呼びかけていく。

美衣奈の吐息が、心臓の鼓動が、その肌の暖かさが・・・。

静かな、生命の音が、彼を、細く照らす一条の光となる。

「美衣奈・・・」

彼女の名を呼ぶ彼の声は震えていた。

涙だ。美衣奈が泣き崩れた時さえ、一粒の涙も流さなかった彼が、泣いていた。

「ありがとう・・・。やさしいんだな」

川の音に泣きじゃくる子供のような鳴咽が混じる。

「俺よ・・・」

溢れる涙を、もうぬぐおうともしない。彼は続けた。

「・・・ずっと好きだったんだ・・・・・・琴スケさんのこと」

美衣奈の目が一瞬、大きく見開かれる。

「好きで・・・好きで・・・ちょっとでも一緒にいたかったんだ・・・。欲張りすぎたよな・・・あの時、迎えになんて行かなくたって、琴スケさん、間に合ったんだよな・・・馬鹿だよ俺・・・本当に馬鹿だ・・・」

言葉の最後を待たずして、敬二郎の肩に、真珠のような大粒の涙が2,3こぼれる。

美衣奈だった。

もう枯れたはずなのに・・・十分に泣き尽くしたはずなのに、とめどなく溢れてくるあついものをどうしても抑えられない。理由は知れている。でも、その涙がまさか自分に向けられているものとは、彼は知るまい。

「なぁ美衣奈・・・でも俺・・・琴スケさんが死んじまったことなんて・・・信じられねえよ。目ぇつぶってみろよ・・・ほら・・・いるだろ?」

美衣奈はもう、この抱きしめていた両腕を離して、一人で泣き崩れていたかった。

でも・・・それをしたら、もう二度と・・・彼を抱きしめる自信はない。もちろん、向こうが抱きしめてくれる可能性も、もう、ない。

美衣奈は彼の言葉に応えるように、さらに強く抱きしめていた。涙が止らない。

「琴スケさん・・・本当に・・・もう・・・」

・・・彼がこんなに彼女を愛していたことを、どうしてずっとあんなに近くにいて気付かなかったんだろう・・・。

「うん・・・あたしにも見えるよ・・・先輩・・・笑ってるよね・・・」

「そっか・・・よかった・・・」

「浅海君・・・」

・・・どうして、ずっとこんなに近くにいて、あたしの気持ちに気付いてくれなかったの?

「ん・・・?」

どうして・・・気もないあたしに、あんなに優しくしたの・・・?

・・・・・・しかし、それを振り払うように一度だけ、左手で涙をぬぐう。そして、

「・・・・・・がんばってね・・・。音楽とか、辞めちゃ・・・だめだよ?変わっちゃ・・・だめだからね」

「・・・・・・」

彼と、視線が合う。自分はもう二度とこの目の色を見ることはない。

・・・これが最後だと、彼女は思い、強く唇を噛み締める。だから・・・

「浅海君・・・」

今こそ言ってしまおう・・・。

もう迷う時間などない、込み上げる涙が、もうすぐ、しゃべる気力さえ奪うだろう。

好きだった、好きだった、好きだった!

・・・だが、結局それは声にはならなかった。


かわりに、おそらく伝わっていないだろう最後の言葉の・・・さようなら・・・。


彼女はその後、ただただ、泣き崩れるだけであった。

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