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第29話:星に願いを(後編)

さて・・・。

もちろんそんなことになっているとはつゆも知らない琴は、美衣奈の信じられない言葉に、思わず道衣や防具の入っているバッグを落として立ち止まった。

「な・・・は・・・。・・・え・・・?」

「それでね、早坂さんが琴スケ先輩に会いたい・・って・・・」

道場帰り・・・本厚木駅の改札を出た辺りで、驚愕に支配された琴の目と、その目を純粋に見つめる美衣奈の目がぶつかった。

この子・・・あの打ち上げの席で言った事を本気で掛け合ったんだろうか。

いや、疑問形にする必要もあるまい。そうなのだろう。この目を見れば一目瞭然である。

とはいえにわかには信じがたい事実だ。だって、女児塾がいくらローカル団体とはいっても、今回の話は言ってみれば、大相撲の土俵に柔道の試合を持ち込むようなものである。そんな話が・・・少なくともトップは了承しているという事実を誰が信じられる?

「でも・・・ホントなんだよね・・・?」

「うん。早坂さんが先輩を見てから決めたいって。あのね、実は・・・」

・・・琴は再び絶句した。

今日、すでに香澄は駅南口の喫茶店で自分を待っているというのだ。

この子の行動力は前々から恐ろしいと思ってはいたが、まさかこれほどとは・・・。うかうかと冗談も言えない・・・。

でも・・・。

ようやくその青天の霹靂に頭の回転がついてくる。

・・・早坂さんと試合をしたいということは考えて見れば、冗談でもなんでもなかった。

「・・・わかったよ。美衣奈。行こ」

きっと宝くじで一等が当たった瞬間って、こんな感じなんだろう。

今までとは打って変わった不思議な期待に、琴の胸は高鳴った。


喫茶店は駅ビルの中だから、次の瞬間には・・・といえるほどにすぐ、琴と美衣奈は香澄を見出した。

閉店間際の店は客も少なく、一人ポツリと座る香澄の姿が窓際に映える。

美衣奈はやや狼狽した。その雰囲気はおととい彼女の部屋を訪ねた時のあのやわらかい雰囲気ではない。申し合わせてここで待ってもらったのに、これ以上は近寄りがたいオーラのようなものを感じるのだ。

これは・・・

美衣奈は思い出していた。以前早坂さんと戦った時に、リングを越えて追いかけて来た彼女の、自分を恐怖に陥れたあの猛攻がもたらしたオーラに他ならない。

そのオーラを、琴も感じていた。しかしここまで来て後には引けない。

「こんばんは」

まるで絡まるツタのようなその重苦しい空気をかき分けてテーブルの前にたどり着いた琴の挨拶が、その場の第一声であった。

「どうぞ、お掛けになって」

「はい」

対面の席に座った琴に続いておずおずと両者の顔色をうかがった美衣奈が、その隣に座る。

「さて・・・」

香澄の持つコーヒーカップがテーブルに戻る。

・・・遠慮深げに鳴る陶器の合わさる音を最後に、まるですべての音が消えたように静かになった。

予想だにしなかった雰囲気に思わず息を呑む美衣奈。

そして次の瞬間、美衣奈は思わず我が耳を疑うことになる。

「うちのパピヨンをたぶらかして・・・何のおつもり?」

「え?」

「リングに上がって、なにがしたいの?目立ちたいの?シロウトさん」

「!!」

「あなた・・・プロレスを馬鹿にしているの?」

静かに、ゆっくりと、しかし限りなく力強くまくしたてた香澄。再びコーヒーカップに指を絡めると、ゆっくりと唇へ運ぶ。

・・・また、静寂が訪れた。

だが、実際あるのは平静ではない。店に流れる穏やかな音楽でさえ胸に突き刺さってくるような緊張である。

いてもたってもいられないのは美衣奈だ。

「早坂さん・・・!あ・・あたしそんなつもりじゃ・・・!!あ・・・あの・・・琴スケ先・・・」

「パピヨンさん、私は今、この人と話しているの」

しかしこれではまるで琴が自分のことをだまして、香澄がそれを咎めに来ているようではないか。しかもこの事は、別に正式に「お願いして」と頼まれたことでもない。こんな誹謗を浴びるいわれは琴にあるわけがないのに・・・。

悲痛な表情で琴を見れば、彼女は半ば息をするのも忘れて、そんな香澄から目を離さない。

怒りとか恐怖とか、そういう感情ではなかった。

強いて言うなら「驚愕」だろうか。初対面の相手に、自分の心とはかけ離れたところで、こんなに否定されることなど、自分の人生でこれまであっただろうか。

これが・・・プロレスの世界なんだろうか・・・。

「あ・・・あの・・・琴スケ先輩・・・」

「大丈夫だよ。美衣奈」

哀れなくらい取り乱している美衣奈をなだめてやりたいが、それ以上の言葉をかける余裕は今の琴にもない。一瞬だけ彼女を横目に挟むと、一度深呼吸をする。

そして、目の前の山に、挑みはじめた。

「プロレスがそんなに偉いんですか・・・?」

「・・・・・・」

「「強い」って、そんなに偉いんですか?」

香澄は動揺する風も見せず、その強い眼光を受け止める。その目は自分がまだ何かを言うのを待っているように見えた。

琴は言葉を続けることにした。だがその本心、

「私は任天道が好き。早坂さんとは戦いたいけど、そんなくだらないことで天狗になってる程度の人だったら別に頼んでまで戦いたいとは思わない」

とは、言わなかった。

それをいうことは相手の思うつぼである。手玉に取られるのは嫌だった。

数瞬のにらみ合いの末、琴はこの言葉に選ぶ事にする。

「その鼻っ柱・・・折ってやりたい・・・」


三度みたびの沈黙が訪れた・・・。

しかしその沈黙は今までと違うような気がする。

・・・ふわりと軽くなるような錯覚を覚えた美衣奈が顔を上げた時、香澄は静かに立ちあがっていた。

そして、

「試合の日は後日スタッフの方から連絡させますわ。さぁ・・・帰りますわよ。パピヨンさん」

裏になっている伝票を手にとって、行ってしまった。

「あ・・・あの・・・」

「いいよ、美衣奈。行きな」

「うん・・・ゴメンね。琴スケ先輩」

「ううん。ありがとう。美衣奈」

向うへぱたぱたと走っていく美衣奈を見送りながら、琴は自嘲気味に苦笑する。

「結局・・・ノセられちゃったよ・・・」

香澄が立ちあがった時に見せたほんの一瞬の笑みを、彼女は見逃してはいなかった。


帰り道・・・・・・。

二人は無言だった。

美衣奈は、喫茶店で行われた心理戦の意味など遠い理解の向うだったから、早坂の心の動きがまるでわからない。

先ほどピノに聞いてみて、「琴スケを試してる」みたいなことをいわれたが、美衣奈はそれ以前になぜ香澄が琴を試さねばならないのかすら、分からなかった。

ただ一つ言えることは、結局香澄は試合を受けた・・・ということであり、それは彼女が琴のことを受け入れた・・・ことになる・・・と、思う・・・。

対して、香澄はというとこちらも一つ気にしていることがあった。

「ねぇ、ぱっぴーさん」

「は・・・はい!?」

不意に自分の名前を呼ばれてかしこまる美衣奈。

「私・・・ぱっぴーさんの中で怖いイメージあります?」

あんなに怖がらせておいてなにをいまさら・・・と思うが、実は香澄本人はああいうオーラを出していることに気付いていないフシがある。

「あの・・・・・・ちょっとだけ・・・」

「・・・・・・」

「あ、でもでも!・・・ニタさんが脅かすほど怖くなくてよかったです」

「え?」

意外な人物の登場に珍しく素っ頓狂な声を上げる香澄。

「ニタさんって?」

「え?・・・あの・・・だって・・・、琴スケ先輩のことをニタさんに言いに行った時、「あたいはいいから、早坂に聞いてみな。でも・・・」」

一度美衣奈が息をのむ。そして香澄の顔を横目でうかがいながら、か細い声を上げた。

「「あいつ、気に入らない相談だとヒザが跳んでくるから気をつけろよ」・・・って・・・」

あまりの意外な言葉の響きに少々唖然とした香澄が立ち止まる。と、美衣奈はビクリと身を震わせた。

が、さらに蚊の鳴くような声になりながら、かろうじて言葉をつなぐ。

「「それでハナ折られた奴ぁ50や100じゃぁないからねぇ」・・・って・・・」

「そ・・・そんなことあるわけありませんことよ。ふ・・ふふふ」

引きつる顔は中空に向けられている。

やはり、ニタとは一度、「しっかり」と話をせねばなるまい。

「あの・・・早坂さん」

「はい?」

「ココア・・・おいしかったです」

「あら・・・」

美衣奈の言葉を聞いて、早坂の表情がいつもの穏やかさを取り戻す。

「また、いつでも飲みにいらっしゃいな」

うなずいた美衣奈を見届けたその目がそのまま空に向けられる。この夜が明ければもう夏だろう。今度彼女が来たらアイスクリームでも浮かべてやろうか。


・・・策士と呼ばれて、いくつもの側面を持つ彼女の本当のところを知る人は少ない。

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