第22話:パピヨンのフィニッシュブロー(前編)
「50!!」
スパァァァァァーーンッッ!!
任天道の道場に乾いた音が響く。打ち付けられた一撃が相当の鋭さを帯びていることを告げる、ミットの激励である。
「オッケーです。じゃあちょっと休憩して下さい」
左藤は顔面に構えたミットをおろすと、荒く息をする少女に微笑みかけた。
哀栖クライマーを練習し始めてかれこれ一ヶ月。
蹴りの練習はこればかりを行ってきた。元々大技なので一日に練習できる回数には限度があるが、毎日毎日、大人も驚く回数をこなした美衣奈の身体は、着実にそれを自分の物としていたのである。
何とか実戦配備に耐えうるか・・・実際、師範代の左藤をしてそこまで思わせるレベルに達していた。
「いいですか細川さん。哀栖クライマーは何度も繰り返した通り、蹴りまでのモーションが極端に長い蹴りです」
以前、関連のエピソードでも述べたように、踏みきった足(つまり軸足)で蹴る飛び後ろ横蹴りである。
通常は蹴り足に使う「軸足ではない方の足」の力を、すべて回転力につぎ込んで勢いを倍増させる技なので、単純に、攻撃が完了するまで普通の蹴りの倍の時間がかかる。
「だから、この蹴りの正体が分かればもちろん、分からなくても、その予備動作で危機感を感じられるだけで、当てるのは困難になります」
「どうすればいいの?」
簡単に聞き返す美衣奈に左藤は苦笑する。
「大技っていうのは元々そんなに当たらないんですよ。何度も組手を重ねて、その大技の出しどころみたいなものの勘を養っていくしかないんですけど・・・」
先に言ってしまえば・・・と、左藤が続ける。
「つまり、避けられない、もしくは避けるのに困難な状況を作ればいいんです」
そのキーになるのは相手の精神状態なのだと彼は言った。
集中力が分散している状態や、追い込まれて動揺している状態、逆に追い込んで気分が高揚している状態、極度の緊張状態など、平静ではない精神状態が判断力を狂わせるのである。
「それか、カウンターですね」
全速力で走り出そうと地面を蹴った瞬間に後ろにのけぞることはできないように、攻撃をするために前に重心が移っている時、できる回避は極端にかぎられる。
「プロレスはロープを使って戻ってくる動作がありますよね。ああいう時はねらい目だと思うんですけど」
あ、そうだ。・・・と、彼は思いついたように付け加えた。
「トップロープから飛んでくるその顔に合わせられたらKOは間違いないと思いますよ」
もっとも、そんな芸当は私でも無理ですけどね。彼の笑っている眼がそう語る。
「あははははは・・・・」
ついでにそれとは異質の乾いた笑いが美衣奈から漏れた。
「とにかく、この蹴りは下からかち上げる蹴りですから、まともに顔に当たれば、相当の大型選手でも耐えられないと思います」
顎を引いていなければ顎に当たるし、引いていても鼻に当たる。もともと人間は下から上への攻撃に弱いし、打点が高いので、どうしても手だけの防御に頼らざるを得ないから、カウンター気味に当たればガード越しでも相当のダメージとなる。おまけに投げや締めを行うために足を取ることも非常に困難である。
「まぁ背の低い選手にはかち上げにはなりませんが、その分、蹴りの届く距離は遠いし、威力自体は死なないから、あまり問題はないと思います」
あとはひたすら、技を当てるタイミングを体得するしかない。彼がそういう主旨の言葉を口にすれば、すっかり戦闘準備を済ませた琴がゆっくりと立ち上がった。
「おつかれ様」
琴がタオルを差し出した先には、プロテクター越しにボコボコに殴られた美衣奈が放った操り人形のように力なくその場にへたり込んでいた。
何度やっても思い通りに動かない自分の身体がもどかしくて頭に来る。
・・・くさっている彼女に対して琴はどこまでも優しかった。
「大丈夫だよ。一ヶ月でこんなに蹴れるようになった美衣奈だもん。絶対当てられるようになるって」
琴が無傷で微笑んでいると言う事は、美衣奈の蹴りは一度も当たらなかったと言う事だろう。もっとも内心、琴にはその表情ほどの余裕はない。
何度か耳先で蹴りの斬る風の音を聞いた。それを思い出せば背筋がすっと寒くなる。
あれがもし正確に自分の顔を捕らえていたら・・・あまり考えたくないが、少なくともタオルを差し出していたのは美衣奈の方だったに違いない。
「絶対大丈夫。あれがうまくなったら・・・私、もう美衣奈の相手はできないかも・・・」
左藤も「今日は終わりますか・・・」と、呟いてから2人の方へ歩いて来た。そして
「そう思いますよ。今日初めて使ったんですから、それだけできれば十分です」
皆に励まされ、美衣奈はようやく顔を上げるのだった。




