第12話:DEGEIKO IN YOKOHAMA(前編)
NANA:別団体のアイドルレスラー。間接技の天才
横浜市は人口が350万人を越える神奈川県一の大都市であり、県庁の所在地でもある。
一つの市でこれだけの巨大人口を抱えているため、東京のようにいくつかの区分けがされているのだが、何といっても中心部は横浜駅周辺だろう。
世界最大級の中華街を初め、みなとみらい、山下公園など、桜木町、関内、伊勢佐木町にかけて、数々のレジャースポットで埋め尽くされている。しかし、ただひたすら新しいお台場のようなところと違い、もともと、幕末明治に急伸長した都市であるため、ぐるりとあたりを散策すれば、新興のファッションストリートに混じって古い洋館などが立ち並んでいたりもする。新旧が入り交じった独特の情緒を放つ街である。
・・・もっとも美衣奈はそんな風景に浸る余裕は微塵もなかった。
「おいパピー。なんだそれ。酸拳か?」
試合以外では生まれて初めて訪れた横浜の地を、美衣奈はまともに踏む事ができなかった。よたよたと頼りなくよろけては、最後には声の主であるニタにしがみついてかろうじて二本足生物の体裁を保つ。
「あんたさあ、あたしの単車くらいでへばってたんじゃ、今から死ぬよ?」
絶対そんなことはない。美衣奈は言葉にこそしないが、強くそう思った。
この人のバイクの後ろが平気になれば、ほかに怖い事なんてきっと何もなくなるだろう。ジェットコースターも怖いと思った事のない美衣奈は、彼女に(半ば強制で)どこかに送ってもらうたびにその想いが確信に変わっていくのだった。
「ほら、しゃんとしな。そんな姿を奴に見せんなよ」
そう言われても美衣奈はまだニタにしがみついたまま、ぎこちなく上を向く。
海が・・・空が見える。その海に人口的な凹凸を形成しているコンクリートの岸壁と、整然と並んだ巨大な倉庫群が、美衣奈に懐かしい錯覚を覚えさせる。
「埠頭?」
故郷の青森にも同じような場所があった。もっとも規模はこことは遠く及ばないが・・・。
「そう、あんたのためにわざわざ厚木の田舎まで呼び出すのは悪いから、こっちに来てもらうことにしたんだ」
ここなら彼女の現在の所在地には程近い。
「でも、こんなところでできるんですか?」
「そう思うだろ?」
ニタによれば、この埠頭内には無類のプロレス好きがいて、プロレス団体が現在のように林立する前から、男女問わず、場所を解放してデビューや旗揚げ前の多くのレスラーの力になっていたと言う。倉庫の一つはそれこそジムのようになっており、設備は下手なところよりも充実しているそうだ。
一通り説明を終えた頃、ニタの目が、美衣奈から離れて埠頭の入り口へ移る。
「来た・・・」
美衣奈もそれに習うが、まだ何も見えなかった。気配を察したのは目ではなく耳だった。
抜けの良い排気音に混じって、ヒューンというモーターのような回転音が急速に近づいて来る。・・・これだけで車種が分かるようなら、相当のマツダファンと言えるだろうか。その独特なサウンドを奏でるエンジン「13B」は世界で唯一のロータリーターボであり、その乗り手と同じ、広島生まれである。
やがて姿を現わした赤いスポーツカーは、けたたましいエンブレの音をたてて、しかしとてもおとなしく2人の前に止った。
それは1ヶ月前に「魔女対決」と題されて美衣奈と戦い、それこそ魔法のような関節芸で一瞬にして勝利を納めたNANAとの再会を意味していた。
「またパワー、あげたのかよ」
ニタのそんな挨拶が、ターボタイマーのかかっているエンジンのうなりと同調する。NANAは(いつもだが)上機嫌だ。
「おかげで燃費は3キロなのだ♪」
そして、その瞳がとなりへ動けば、
「わぁ~ぉ、パピヨンちゃんなのだぁ~♪」
黄色ともピンクともつかないような色の大歓声が辺りに響いた。いきなり胴上げでもしてくれそうなテンションの高さに、美衣奈ははにかんで会釈をするのが精一杯だ。
隣ではニタも苦笑いである。女児塾にも個性的な面々が揃っているが、のっけからこれほどの強烈なインパクトをもつ人物はさすがにいない。うちの陣営に不満などは微塵もないが、この並外れた元気を、例えばこの美衣奈などが持ってくれたら・・・と、その苦笑にはそういう意味も若干含まれていた。
さて、NANAのことは、ニタが、ひいては美衣奈が昨夜、呼び出した。
「NANAさんに会いたい・・・」
そんな言葉を突如切り出して来た美衣奈のわがままを、ニタは以外にもあっさりと受け止め、その場で本人に連絡を施したのである。
「お前さんと前にやった美衣奈と会ってほしいんだけど・・・」
いうまでもなくNANAは女子プロレス界を代表する選手の一人であり、これは言ってみればアイドルスターに直接電話でアポをとりつけるようなものだ。
が、このぶしつけとも言える要請を、NANAはこれまたいともあっさりと承諾した。それも翌日。
・・・忙しいNANAのスケジュールがたまたま開いていた事、曲がりなりにも一度拳をあわせていた事・・・何より、そのおおらかなNANAの性格・・・そのすべてが幸運だった。
和やかな雑談を交わしながらその例の倉庫ジムに移動し、事情を説明すると、NANAは満面の笑みを浮かべて美衣奈の頭をなでた。
「そうじゃないかと思って、実はすでに「パピヨンちゃん特別メニュー!《アメとムチ編》」を考えておいたのだ~♪」
「と・・・とくべつ・・・?」
思わず息を呑んだのは美衣奈ではない。ニタのほうである。
彼女は普通の練習でも「特別」なのだ。その特別が「特別」と言うことは・・・。
「とにかく着替えてくるのだ。10分後、練習開始~♪なのだ~!」
隣では不安げな表情を隠しもしないニタの視線が、NANAと美衣奈とを行き来していた。
「だが」というか「案の定」というか、その特別な特別メニュー、アメとムチは、ほとんど始めて間もない段階で予定を大きく変更せざるをえない状況に陥る。
「むぅっ、パピヨンちゃん体力無いのだ」
NANAはちょっと困ったように言った。
NANAにとっては当然の事だが、関節技を教えるにしてもまずは基本練習から・・・という理念から、まずは美衣奈の入念な準備が・・・始まるはずだった。
柔軟、ロードワークくらいは何とかなった。もともと美衣奈は体が柔らかいし、走る事も13歳という年齢を差し引けば人並みだった。
が、筋力運動がいけない。
具体的には腹筋運動が12回、NANA式背筋運動が21回、腕立て伏せに至っては3回でへたばったのである。
もっとも年齢的な平均値を割り出せば、美衣奈の体力は決してそれに劣っているものではないのかもしれない。
でも、プロレスラーという職業にしてみれば、落第点というか、話にならない。
さっきの言葉だって、以前後輩のカーシャに言った事と同じ言葉ではあるが、それと
は趣を異にしている。ある種の落胆の色が顕れている。
「むぅっ、パピヨンちゃんは、一日どれくらい腕立てをするのだ?」
「え?・・・あの・・・。・・・やってません」
この言葉がNANAにとどめを刺した。
「むむむ・・・」
考え込む視線が美衣奈から落ちる。
・・・ため息一つ。そして、
「・・・パピヨンちゃん、それじゃぁプロレスラーをやっていくのは、ちょっと難しいのだ」
NANAにしてみれば、ついて出た言葉は当然の事であった。神業とも言える彼女の関節技は、人の2倍3倍はあたりまえのその基本練習に支えられている。いや、それ以前に、リングに上がるに耐えうるだけのスタミナとタフネスさえ養わない者がリングに上がる事は、自分が危険なだけでなく、相手に対しても、プロレスというそれ自体に対しても失礼な事であり・・・いや、もっといえば、それはもはや冒涜にさえ値しかねない。
「ごめんなさい・・・」
うつむいてしまう美衣奈。だがそこで合いの手を入れるものがいた。ニタだ。
「まぁそういうけどさ。じつは体力作りはあたいがとめてんだよ」
「むぅっ、ど~ゆ~ことなのだ?」
「・・・この子まだ13歳なんだ。そんな歳から無理な筋トレさせて、この子を壊したくない・・・」
・・・そんな子をプロのリングに上げているという事実を完全に棚に上げているが、まぁニタだから、それは仕方がないとして・・・。
「だから・・・なんて言うかなぁ・・・お前さんにゃ失礼かもしれないけど、関節の基本的なとこだけ教えてやってくれないかな」
「むぅ・・・けど、まともなスパーができないと・・・それは難しいのだ・・・」
彼女が言うには、関節技を教えるにはある程度手加減無しのボディーラングエージが一番なのだという。だが、いまNANAがそんなことをしたらきっと彼女を怪我させてしまう。
もっとも、美衣奈の体ができていない事などははじめてリングで見えた(まみえた)時から分かっている事ではあったわけだが、「特別メニュー、《アメとムチ》」を作成した時には、すっかりと忘れていた。
何とか代替案を考えねばなるまい。
「ごめんなさい・・・あたし・・・」
「むぅ・・・パピヨンちゃん。謝ることはないのだ」
・・・NANAだって彼女に期待する気持ちがなければ、そもそも彼女のために時間を割いたりはしない。何とかしてあげたい・・・。
「ちょっとまってて・・・」という主旨の言葉を手で合図すると、NANAはうつむいたまま動かなくなった。しかしNANAのその真意は、二人には伝わっていない。
しばらく、誰も動かなかった。
空白の時間が過ぎてゆく。
美衣奈もニタも、NANAがなにを考えているのか、分からなかった。
空気が重い・・・。そしてその沈黙が深くよどむほど、美衣奈の心は揺れた。
だめだ・・・いまのあたしに教えてくれるわけはない・・・NANAさんの優しさが「帰れ」と言う言葉を発さないだけで、これはもう、あたしがその言葉を言う時を待ってるんだ・・・。
相手と対面した時、格が違うと感じれば気持ちは恐縮する。この一連のやり取りで、美衣奈はその格の違いを思い知らされた気がしていた。
ここで言う「格の違い」は、美衣奈も明確に言葉にすることはできないだろうが、おそらくは「プロ意識の差」だと思われる。腕立てができるできないの問題ではなく、プロとしての自覚の差であり、それが自分の場違いを殊更に痛感させた。
~こんな自分にせっかく時間を割いて自分を見てくれようとしたNANAにも、それを応援してくれたニタにも申し訳なくて・・・こんな場にいる自分が恥ずかしい・・・~
ともかくそういうマイナスの気持ちが、美衣奈の心の中で加速度を増して膨らんでいく。
「ニタさん・・・」
そしてついに、はちきれた。
「あたし・・・かえ・・・」
しかしニタは美衣奈がなにか言おうとするのを制して一歩、前に進み出る。
「あたいは・・・美衣奈・・・いや、パピヨンにNANAの技を見せてやりたいと思ってる・・・」
NANAは少々困惑気味に、声のした方へ振り返った。
(わかってる。自分だってそれなりのことはしてやりたい。でもどうすれば・・・。)
その先には、思いつめた色彩を放つニタの鋭い瞳がある。
・・・奇麗な眼だ。NANAはまず、そう思った。
スラッシャーニタと言えばヒールで名が通った荒いファイトで、ダーティなイメージが先行するが、今のこの眼は自分の門下を本気で気遣う、純粋な光を帯びている。この眼がニタの本質なのか・・・
今度は美衣奈を見た。
それとも、この子にそこまでの眼をする価値があるのか・・・。
NANAの視線がニタに戻る。
彼女の眼が何かを訴えていることに気付いたのは、その時だった。
刹那、口の端に笑みがこぼれる。
意味するところはすぐに分かった。というのも、この眼・・・この気色を、NANAは良く知っている。
「なるほど・・・」
途端、NANAの顔に、いつものひまわりのような明るい表情が戻る。困惑から解放されたせいか、彼女の声はいつもよりさらに弾んでいた。
「それはいい考えなのだ♪」
・・・が、ニタはその笑顔を受けようとはしなかった。
何も言わずに視線を外すと、「着替えてくる」と、部屋を後にする。
「あ・・・」
一方の美衣奈には2人の心の動きがまったく分からないでいた。分からないまま、頼りなく背中を追いかけていた美衣奈の視線が、ニタが部屋から消えて宙に舞う。
しばらくの間中空を泳いだその瞳が、渡り渡って気になるもう一人のほうへ泳ぎ着く。と、彼女はなぜか柔軟運動を始めている。
「パピヨンちゃん。今回は見るお勉強なのだ♪」
その笑顔はまるで今日の空のように明るく、澄みわたっていた。




