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「帰ってきたら、結婚しよう」

作者: 葉山郁


「帰ってきたら、結婚しよう」



 夕闇が迫り来る牧場の柵越しに、日に焼けた荒れたほっぺを夕日と同じ色に染めて29年来の幼馴染のペータが言ったそれが、今年で29歳になるあたしが29年目にして初めて受けたプロポーズだった。

 女も29年やっていると、そのながーい年月に色々と口に出来ない妄想が降り積もっているのは仕方ない。理想のプロポーズなんてのも軽く数十種類は夢見たことがある。ペータが口に出したのはそのどれでもなかった。タキシードを着てもいなかったし、花束を持ってもいなかったし、指輪のかわりに脇には牛を連れていた。

 それでもあたしは胃がひとつひくりと震えて、それが続くと涙の発作になった。

 ひっくひっくとしゃくりをあげるあたしをペータは少し戸惑ったようだけれど、そこは優しく手を伸ばしてくれた。

 柵があたって身を寄せ合うには邪魔だったけれど、せめても背中を撫でてくれた。牛があたしたちのやりとりに飽きたように、柵の脇に生えた草をもぐもぐやりだした。

「戦争もすぐ終わるから、それが終わったら真っ先に帰ってくるよ」

 ひっくひっくと涙がとまらない。あたしは夢に夢見て待ちに待ち望んでそろそろ疲れ果てた初めてプロポーズの直後の、柵を挟んだ温かい胸の中で確信した。



 こいつ絶対死ぬ。




 視界の中で光がくらくらと妙な感じに反射している。もう字を見ると吐き気がしたけれど、あたしは目頭から目じりまでをあますところなく完開きし、目前にひろがるページ、そこにつづられた小さな字を猛スピードで脳に送り続ける。ちがう。あ、でもこの近く。そう、確かこのページ、のどこか、……あ。


 ――男達の会話は唐突に途絶えた。示し合わせたような沈黙がやってきて、薪がはぜる音だけが聞こえる。それまですぐ後ろに迫りながら、あえて見ないふりをしてきたもの、明日の決戦という事実が急に彼らの元に舞い降りたかのようだ。

 ジェラルドが細い枝を拾い、燃え尽きかかった薪をつついた。火の粉が闇夜に舞い上がり、生き物のように動く。ふと、フィンが呟いた。

「俺、この戦いから帰ったら故郷で幼馴染と結婚するんだ」

 そうか、とジェラルドが微笑んだ。

 そのときは、覚えていたフィンの言葉。

 それが最後の言葉になるとは、思いもよらぬことであったのだ。


「――っ!」

 表紙の皮と皮がぐっとひしゃげても耐えたのは一瞬。ぶわっと裂かれた紙が空中で散布する。それがこの本の最後になるとは思いもよらぬことであったのだ、ではないけれど、本を粗末にするなと父に幼少時に叩き込まれたことではある。だけど、29の結婚をあせる未婚娘の未来はそれ以上に切羽詰っている。

 残骸をほうり捨てて、あたしはまだ未開封の山に手を伸ばしかけ、そこでふと自分がいましていることがとても無駄なことだ、という気持ちがいっぱいになって動きをとめた。

 父が家の納屋を改造して作った本部屋の本(うちの村の私設図書館のようになっている)は、全部読破した。その中に、この手の言葉を言って無事帰還して結婚できたようなやたらおめでたい戦争話はひとつもなかった。

 だいたい迫り来る危険を前に、そういうのを言っちゃ駄目なのだ。ともかく駄目。結婚とか子どもが生まれるとか祝い事がある奴は、舌を抜いてもそれを口にしないよう厳守しなきゃならない。ぽろっとそれを話題にふってこられても即死に繋がるから、仲間達にもその事実を最後まで隠し通さなきゃならない。(もしばれたら殴って記憶喪失にでもさせなきゃ!)

 考えてみれば――考えてみなくても――やたらとんちんかんな法則である。あたしだって昔、疑問に思った。それで父に聞いた。父はそんなこと考えてもみなかった、という風な顔をしたけど、それから考えて、そして慎重に口にした。

「多分、物語には人がひそかに期待する方向というものがある」

「ひそかに?」

「多くの意味では、不謹慎に。裏の方向に、というか。めでたいことがあるとする。するとその喜びの逆の方向を考えてしまう。つまり、この戦争が終わって結婚する、と聞くと読み手も主人公もそれはめでたいことだ、と思う。主人公はそれで終わりだ。でも読み手は考えてしまう。もし、ここで彼が死んだら、それはやるせない悲劇だろうな、と。考えてしまうと、内心は見たくてたまらなくなる。その悲劇を味わってみたいと思ってしまう。現実なら不謹慎すぎるから、逆に物語でのみ望めるものに期待してしまう。人は物語において、幸せ以上に悲劇が好きな場合が多い。物語は人の期待にこたえるのだ」

 人の内心の期待にこたえる本が物語なら、人の内心の期待にこたえる人間はペータだ。ペータは昔から、どぶがあるから落ちるなと言われればどぶにはまった。蜂の巣がある刺されるなと言われると蜂に刺された。トンカチで手を打つなと言われてはトンカチで手を打った。判に押したように見事にはまるペータを前にあたしは六歳にして悟っていた。

 こいつは駄目だ。

 だからあたしは、ペータの脇から言い続けた。学校でナイフを使うときは「手を切っちゃうんじゃない」みんなの前で発表するなんて時は「舌を噛めばいい」学校で火をつかうときには「火傷すれば面白いのに」

 ティアちゃんは頭がいいのですが、ペータくんにとても意地悪を言います、と先生が父に深刻な顔で言ったときはあんまりびっくりしたのでにわかに言葉が出なかったくらいだ。父がわかってくれたから良かったようなものの。

 あたしの長きの献身を考えれば、ペータはもう五、六年早くプロポーズしてもお釣りがくると内心思うところだけれど、まあ自分から言ったのは良しとする。

 でも。

 問題は、他人に言われたことはあたしの期待潰しでなんとか覆せても、ペータが自分で言い出した言動は撤回できないということ。そんでペータというのは宣言野郎。闘志は胸にひめておけ、と口をすっぱく言っても未来への情熱とか明日への勇気とか大いなる飛翔とか希望とかいてゆめと読むとかを堂々と口に出す。

 その結果は、見事なほど一直線に同じラストを目指す。

 牛コンテストかならず勝ち抜いてみせるよ! と言った日にゃあこの後でこっちがどれだけ牛が駄目になるよと言い続けてもきちんと牛がぜんぶ腹を壊し牛舎はでろでろ、牛を売りに使いに出る際、しっかり稼いで帰ってくるよ! と宣言した日にはどれだけ一人じゃ有り金全部すられるかなくすかがオチよと嘲ってもその通りに有り金を全部なくして帰ってきた。

 奴はやる男だ。凄く嫌な方向に、必ず。戦争なんて大舞台でやらかさないはずがない。奴は生命をこめて、やる男だ。

 あたしは一瞬目を閉じた。一瞬だけ迷った。そして思った。二十九歳。ぶっちゃけた話、それもあと三ヶ月。

 見開いたあたしの視線の先には、廊下の端にうっすら埃をかぶった鎧兜の一式があった。昔父がつかっていたものだ。うなずいた。

 あたしは証明しなければならない。これまでことごとく破れてきたその法則を今度こそ。

 

 愛は、死亡フラグを超える。




 くすぶった煙が一条あがっている。戦場はどこも同じ。退廃と無気力の空気が満ちている。

 ここには希望も未来もない。ただただ気がめいる、職場。兵士にとってはそれだけだ。

 後ろから呼び声がした。振り向くと、すす汚れた包帯を頭に巻いた兵士――ロイが、硬いパンと得体の知れないスープを差し出してきた。

 百人の敵の真っ只中に取り残され、お互い血塗れどろだらけになりながらなんとか救い出して生還してから、新米の兵士だった彼は影のようにぴたりとこちらの後をついて離れない。兜の下からスプーンですすりながら、前方に何も言わずに腰掛けているサジを見つめる。灰色の前髪の向こうからのぞく物憂げな瞳は、こちらの一挙一動を見守っているようだ。ベテランの彼は、敵の補給庫を探る任務途中に、罠にはまった状況を見抜き救出作戦をたてた者が誰か知ってから、いつもこちらの挙動から目を離さない。停滞する戦場の空気の中を、おおい、と声がして中隊長殿がおよびだと伝えてくる伝令兵の姿が見えた。こちらにたどりつく前に隊の何人かが取り囲み、うちの鉄兜に用があるならそちらから出向けと低い声の脅しが聞こえる。伝令兵はむっとする様子もなく震え上がってきびすを返す……。

 戦場にやってきて早一ヶ月。互いの面々も覚えてそして組織というものが出来てきた証拠だろう……


 つーかどいつもこいつも死亡フラグもなしにばかばか死んでいくっつーの!


 もうかぶりっぱなしむれっぱなしの鎧兜の下からぐあああっとこれだけは自由にできる顔を歪ませてあたしは胸中で吼えた。あんまり吼えすぎてもう胸が破れそう!

 ペータの五歩後ろにくっついてそれはもうへばりついて色々な言い訳でだれそれの弟です生き別れの兄弟ですいや実は父です継父です偶然死に掛けたときに向こう側の通りを歩いていた男の従兄弟ですと、まくしたてて同じ軍に入り込んだ。

 のだけど、さすが奴! 疑いもせずにペータ! 燦然と輝きすぎてたまに後ろからどつきたくなるフラグ全力遂行者!

 ペータが配置されたのは、そりゃあもうあからさまにとっても見事にまったく迷いもせず捨て駒まっしぐらの中隊だった。

 だいたい戦場で戦闘真っ只中の、砂埃はたつは血煙は散らされるわ雄たけびはうるせーわの大混乱の中でペータだけを集中して守れるわけがない。

 ともかく自軍の格好をした奴でピンチになるのを片っ端から斬られるな突き飛ばされるな馬にふみつぶされるな崖から落ちるなっあっ間違えたぽいっと、手当たり次第に助けていくのにもだんだん限界を感じ、中隊長に進言しに行って作戦を直させて、死亡率0という数値の貢献にそりゃあもうこっちが死ぬわってくらいにがんばった。おかげでペータも死んでない。しかし。だからって。あれで。もう!

 ここに来る時からずーっとずーっとかぶりっぱなしの鎧兜の下で存分に百面相をしていたあたしの前に、ふらっと影が落ちた。先ほどの中隊長が自ら駆けつけてきたと思ったが違った。もう生半可なことでは驚けないあたしの胸がぎくりとする。

 ペータが立っていた。そしてここいいかな、と話しかけて勝手に座った。周囲の兵士の間にざわっとどよめきが走るが、まるで気にした様子はない。

 村にいたときから、少し痩せて倍も不潔になっていたけど、ペータはそうたいして変わったように見えない。腹減ったよ、と軽く笑って持っていた木の椀からスープをすくった。

「おちおち食べてもいられないよな。こんなに忙しいなんて」

 鎧兜に感謝してあたしは無言を貫いた。

 しかしペータってつくづく度胸があるんだか鈍いのだかわからない。ロイ君みたいなこしぎゃんちゃくは別にして、最近はもうこの隊の兵士はまともに一対一で話しかけてもこないのだけれど、ペータはまるで気にならないらしい。あいつただじゃすまないぜ……と後方で囁いている兵士達の声も聞こえる。いや、あたしにとって大事な身なのでただですます気は満々だけど、もし中身があたしじゃなかったらどうするのかと。

 でも昔からこうだったなー、とふとため息が漏れた。どんなひどい目にあっても、忠実に自分のまいたフラグを悲しく回収しても、ペータがめげたりびびったり臆したりするところは見たことがない。こいつの精神だけは常に無敵モードだ。どんな攻撃にもまるでダメージを受けない。

「鉄兜は、あんな戦いをして怖くないのか?」

 お前はそんな人生で怖くないのかよと逆に聞きたい。自分が言ったことごとくが失敗に直結している、理不尽で訳がわからない世界を生き抜くペータは、あたしの思考を読んだように微笑んだ。

「俺は怖いな、死ねないし」

「……」

「だって俺、この戦いから帰ったら故郷で幼馴染とけ――」

「どっせいいいいいいいいいいいっ!!!」

 甲冑につつまれた拳がペータの顎をとらえると同時に、三日月のようにのけぞってその姿が宙に浮き、やがて重力にとらえられて地面にぐしゃっと沈むまで、あたしははあはあと荒い息をついて凝視していた。

 あ、あぶなかった。何気にこの戦場で最大のピンチだった。さすがラスボスは一足違う…。

 やっぱりだ……ああ、まったくばかだな……とこちらを見ている兵士がたてる。

 周囲のざわめきにきれそうな自分をぎりぎりでおさえていたあたしは、ざわめきの中、不意に今まで聞こえてきた雑音とは種類の異なる音を聞きつけた。どっどっどと大地をいたわりなく削るような音が聞こえてくる。先に見えるのは土煙。の中に血走った瞳が光って見える。

「――っ、奇襲だ!」

「敵の騎馬隊だ!」

 一気に緊張がほとばしった。けれどあたしはそれどころではなかった。ぶっ飛ばしたペータの行く先を必死に見返り、そして声にならない悲鳴をあげる。あたしがぶっ飛ばしたペータは、それはもう、とても見事なまでに、大地を轟かして突進する騎馬隊の最前列から十数メートルと離れていない場所に転がっている。

 認識すると同時に慌てて地を蹴った――

 瞬間だった。

 黒い、何か眼にも留まらぬ黒いものが、ざあっと視界にひろがった。それがどこからやってきたのかわからない。黒い塊――としか言いようがないものが、視界の斜め上から突然降って来たような唐突さでわりこむと共に、転がったペータの身体をざわっと持ちあげて大きく横に移動する。

 とほぼ同時に、蹄音ではなく重いものが地面に次々に叩きつけられる音と、痛ましい動物の悲鳴があがる。何事か、と思うと敵の騎馬隊がすべて地面に転がっている。その背に乗っていた騎士達も当然大地に投げ出されて声も出せない状態だ。彼らが封じていた向こう側の風景が筒抜けになって、遠くの山までよく見えた。

 あたしはほとんど習性でペータを探し、左端に無事に転がっている姿を見つけて――黒い影はどこにもなくなっていた――ほっと息をついたほぼ直後に、我に返った。

「抗戦だ!」

 背後に呆然と立ち尽くす仲間にむかい、突撃の号令を怒鳴った。



 誰の息も荒く泥や血や汗でまみれていたけれど、深刻な怪我を負ったものはいない。出鼻をくじかれて敵は退散している。

 勝利した。ペータも無事だった。

 ――なのに、あたしの気分は全然晴れない。もちろん、その原因は突然、やってきたあの黒い影の存在だ。安定した状況を作り出すために、ここに来てからあたしはいつも不確定要素にはぴりぴりしていた。なのに不確定要素の塊のような存在。なにあれ?

 ようく注意深く思い返してみると、おそらくあれは黒い布をまとった人影だ。それがペータを間一髪のところで救った。なのにさっと姿を消してしまった。まるで自分の正体を悟られたくないとばかりに。

 これが示す事態をあたしは考えてみた。でも、考えれば考えるほどたった一つの可能性しか思い当たらない。正体を隠さなければならない。でもペータを救っている。そういう存在は、一人しか知らない。

 me。

 だけど、あたしはペータが黒い人影に救われるのを眼前で眺めていた。ここ数ヶ月で同じ隊の兵士に、それ化け物の別名でしょという二つ名を散々つけられたものの、親と自分自身がとっくり知っているようにあたしはいたって普通の人間だ。分裂などできるわけでもない。となると、もうひとりのあたしとよく似た境遇の第三者、と考えるのが妥当じゃあ…?

 ……二股。

 ちらっとその単語が頭をかすんだ瞬間、ご、ご、ごごごごと腹がやけるような思いがわきあがってきた。ペェェェタァァァァ、てめえどんな料簡でそんな真似ができたぁぁぁ! そりゃあたしは29だ。周囲が雪崩のようにゴールを決める婚期第二期シーズンの最中、他にプロポーズしてくるような相手もいやしない。だけど、だからって、軽んじられるような真似は許せない!

 鎧兜の下からぶちぶちぶちぶちと手甲の下につけた毛糸の手袋を全部噛み切り終わると、少しは落ち着いてきた。そして、でもそれは考えにくいな、という気がしてきた。

 第一に、(これを第一に考えなきゃならないが)ペータがあたしを裏切っているとは考えにくい。なにしろ生まれてこの方の近所づきあい、幼馴染。実の親の次にあたしがようく知っている。ペータは天然で空気読まないフラグたてまくりのうかつな奴だけど、誰かにたいして不誠実な真似をしたことは見たことがない。

 第二に、あたしのよーなことを考える奴がいて、あたしと同じことを実践する女が他にいるかということ。世界は広いと言うが、その広さの中での比率で言っても……まあ言うまでもない。

 となると。

 昔、色々読んだ本の中で、謎の助っ人というものの正体は、話の傾向にもよるけど、表面上敵対しているライバルとか、生き別れの兄弟とか生き別れの叔父とか親戚とか生き別れの通行人とか、なんかひょんなことから恩義を感じている人とか、大金かしていて死なれたら困る人とか、密かに恋心を抱かれている友達とか、思いつく限りではそれぐらいの、どっちかっていうとあれだけ引っ張ってなあんだ、という感じの正体が多かった。

 しかし、そのどれもぴんとはこない。(というか、そんなのがいたらあたしはこれまでの人生で、ここまでペータのことで骨を折る筋合いはなかったはずだ)

 とすると、他に考えられるのは――……通りすがりの正義の味方的な主人公だろうか。ああいう人たちがそばにいると逆に危険が増すから、さっさと次の活躍の場に行って欲しいものだけれど。

 結局、考えた末にそんな結論にしかならなかった。ま、世の中には不思議なことが多々ある。続かない一回限りのことなら、さっさと頭から追い出して忘れてしまうのも人生を乗り切る一つの手だ。

 鉄兜、無事だったかー、と直前のもろもろを全て忘れ去ってしまったらしいペータが声を張り上げているのに気づいて、あたしはそれを打ち切った。




 けれど、そうはとんやがおろさなかった。

 黒い人影はそれからたびたび現れて、陰ながらほんとにやばいときは堂々とペータを救っていくようになった。その頃にはぼちぼち隊の中で目撃証言も出始めて、一種の怪談じみた話として語られるようになりはじめた。

 いわく、あれは不遇の死を迎えた兵士の無数の怨念が固まった集合体であり、一縷の善意をもって自軍の兵士たちを救っているが死んでしまった人間の魂は油断なく吸収していくから気をつけなければならないのだとか、いいやあれはスパイとして敵軍である我が軍に入りこみ上層部にのぼり詰めて内部から我が軍を崩壊させるためにまず草の根の評判をとっている有能な敵であるため、彼が名乗りをあげてうちの軍に入ろうとしたときにすかさず取り押さえなければ我が軍全体の勝敗にかかわるとか、うにゃうにゃあれは落雷や暴風といった自然現象の一因でしかなくその動きに特に我が軍を助ける意味はなく通り魔的にたまたま我が軍が救われる結果になっているのだとか――

 付け加えて、集合体は丑三つ時に再集合して負の怨念を高めるため丑三つ時はみな死人のふりをするため眠っていなければ魂を抜かれてしまうとか、そのスパイの正体はかつては伝説の大将軍ウルフ閣下に見込まれ直々に指導を受けた男が裏切りに堕ちた姿であるとか、その自然現象の発生原因は最近の人間が自然界にたいする傲慢さの報いでありその現象が頻繁に起こる砂漠でそれはヒートアイランドだかチキュウオンダンカという名前がついているのだとか……

 どいつもこいつもバードにでもなれよ! なんだその放っておくと際限なくふくれあがる後付設定。有名人とかカタカナ使えばもっともらしくなると思いやがって!

 まあ、これだけ妄想が凝ってきた裏には、謎の人影のおかげである意味、うちの隊は暇で平和であるという理由があるかもしれない。

 だけど、妄想は妄想。事実以外をみだりに取りいれるもんではない。

 となると現在、わかっている事柄を整理すると、


 1、とりあえず息遣いの反応が見られるので生命であろうということ。

 2、次に相手は計画的にうちの軍人だけを救っているということ。

 3、そして最後に――相手の目的はやはりペータ救出ということ。


 3番に関しては、自軍の兵士をことごとく救っているのは、あたしの理由と一緒なんだろう。混戦の中で個人を特定して助けるのは容易ではないから、とりあえず手当たり次第に助けている、でもその真の狙いは間違いなくペータ。ここはぜったい確か。

 だって、別人を助けるとあからさまにあ、これ間違えた、という空気をただよわせたのだ。いくら手がいっぱいでも、乙女というのはこういうのにほんとに目ざとい生き物だ。これまでの29年間、少しでもペータに興味を持った女子の存在をあたしが見逃したことはない。

 でも、今のところあたし以外にペータを生命を賭けても救おうという存在はいくら頭をひねっても出てこない。お話の中なら出生の秘密とかがあって、赤ん坊の頃に取り違えられたこの国の王子様であったーとかがよくあるパターンなんだけど、うちの国の王子様もう四十越えるし、田舎の片隅で生まれた子どもを都会の赤ん坊と取り違えるにはいろいろと距離とか時間とかべたすぎの壁とかが大きい気がする。

 ペータに財産はないし、親御さんはわりと早いうちに亡くなっているし、目立った親戚もいない。そしてこれまで十何年とあたし以外のフォローを感じなかったのに、ここ最近――もっと限定して言うなら戦場にきてから、ペータを助ける必要性。

 戦場で助けられたのに恩義を感じて生命の恩人とフォローする人とか……。

 しかし並みのストーカーじゃ太刀打ちできない並にペータの動向に目を光らせているあたしをもってしても、ペータが助けられたことは多々あれど、誰かを助けた記憶はとんとない。

 じゃあ――やっぱり。あたしの動機か。恩とか金銭とか素性なんかと比べると、恋愛感情なんてものは想定外の確率がずば抜けて高いだろう。

 ここに来ると胃がむかむかしたけれど、だからといって一番可能性が高いものを放ってはおけないので、そりゃ考えた。そしていろいろ観察した末に、どうもあれは女ではないな、というのを見て取った。

 あたしのがちがちの全身鎧とは異なり、なんとか霞む全体像を捉えただけだけど、あの黒いのは布なんだかマントだかをかぶっただけの軽装のようで、そこからなんとか輪郭を見て取れた。男性と女性というのはよっぽど稀有な例を別にすれば骨格の作りが全然違うので、コツさえ知っていればわりと簡単に見分けられる。

 これを寝ないで考えた徹夜明けに、いや待て。女と限定するからおかしいんじゃないか、恋情はなにも男女間と決まったもんじゃない、という考えにはたと思い当たった。

 そこからが泥沼だった。ペータを馬鹿にする仲間達の誰かが内心は憎からぬ想いを抱えて胸焦がしている、サジのあの冷ややかな目の奥にもしかして押し殺された熱情が潜んでいるのでは、厳しい伍長の叱咤の裏に人知れず育った愛があるんじゃないか――「ペータ、お前は軍規違反だ」「え、どうしてだよサジ(伍長)。俺は何もしてないよ」「違反だよ、知らなかったのか。俺の心を奪うのは重大な違反だぜ――」

 ともかく、黒マントの正体を暴けばこんなに頭がはげるほど悩まなくてもいいんじゃーっ! とあたしが甲冑の下で爆発したのはつい最近。

 真剣に頭がおかしくなってしまいそうになる考えをふりきって、なにがなんでもあのマントをひっぺがしてやる、と固く固く誓った。

 ともかく黒マントの正体をつかめないのは、ひとえにそういう状況じゃないから、に尽きるのだ。あたしが真っ向から全力でかかれば正体は暴けると踏んでいる。でも乱戦の真っ最中で、ペータたちの命を優先する状況が、気や手を抜くことを許してくれない。

 するとあたしがかける罠は一つ。本当は危機的状況じゃないのに、危機的状況に見せること。それもどこからともなく現れる黒マントの目にうつるように。

 これは正直、しんどかった。明確な敵に対処する方法はいくらでも見つけられても、そんな状況をうまく作れる方法も、また作るために協力を仰ぐ相手への言い訳も到底見つけられそうにない。

 一人真夜中に敵の隊を半殺しにして協力させることも考えたけど、もし途中で心変わりして芝居の剣が真剣にかわってペータが危なくなったら、と思うととても実践する気になれない。

 詰めるに混戦の真っ只中は諦めた。どんな危険があるかわからない。ペータの死亡フラグを折り続けるのに、油断は禁物だ。

 とすると、状況自体もお芝居にしてしまうこと。誰か一人協力者を作るのがいい。あたしは慎重に吟味して相方を選んだ。

「黒マントの正体を暴く……っ!」

 思わず、と呟いて、声を押さえろ、というあたしの仕草に、ロイはハッとして周囲をきょろきょろ見回した。

 新人らしい頼りなさがまだ残っているけれど、とりあえず誰がどんな他意を持っていようと、こいつだけはそんなに深い動機とかはないだろう、と思ったし、納得させるのも一番簡単そうだったからだ。

「隊の中にも、動揺が広がっている。それに奴は危険だ。早めに正体を暴くにこしたことはない。――俺の勘が、そう告げている」

 自分で言っててまったく根拠あげてないなこれ、と思ったけれど、見た感じロイは一部の疑うところもなかった。まばたきもせずに息を詰めて見返してきた。

「わ、わかりました。で、どうすれば?」

「一芝居をうつ」

 協力してくれるか、とまで続ける必要はなかった。兜の向こうから、じっと見つめるとロイはごくりと唾を飲み込んで頷いた。大きく。



 おーい、とペータが手を振っている。幼い頃も今現在もまるでかわらない屈託、というものが生まれつきまったくよぎらないその笑顔。

 馬鹿だなあ、と万回くらい思った。本人もあわせて十万回くらいはそのことを人にこぼした。でもペータの顔はまったくかげりはしないのだ。

 気づいた六歳の頃から、戦いだった。ペータに対し誰かが親切であればあるほど、回避しないといけなくて、みんながわかっていないときは辛かった。

 八歳の時には崖に落ちるな、と言いかけた教師を後ろから蹴り飛ばして大目玉をくらった。教室で反省文を書かされていると、ペータが窓からひょっこり顔を出して、コップになみなみと注いだしぼりたてのミルクをくれた。意地悪だと教室のみんなから遠巻きにされたときもペータだけは気にせずに声をかけてきた。初めてペータが人を殴ったのは、十二歳の時だ。あたしの本を泥水の入ったバケツにつっこんだ相手だった。

 みんなが、ようやくわかってくれた頃には、学校を卒業して。

 それからはあらゆるフラグに対応するための特訓をしながら、そわそわして待っていたけど、来る日も来る日も奴は酪農ときどきフラグ立ての日々で、あたしはそれを追いかけて折り続けて。

 29年間、ペータと顔をあわせなかった日など、数えて十日もないだろう。息をするくらい自然にそこにあったから、あたしも深くは考えなかった。気づいたときには隣にあったその顔が、これから先もずっとそばにあることも。大自然の法則も、お約束も、ましてやフラグなんか知らない。あたしの感覚が、いつだって絶対だ。

 ふと気がつくと、眼前に小さな焚き火が揺れていた。

 燃えつきかけた薪が緋色の中で弱々しくはぜている。新しい薪を入れなければならないとわかっていたけれど、それはせずに火箸がわりの細い枝でつつく。かきまわされた焚き火は、やはり末期のあがきのように、ほんのかすかな火の粉を闇夜に吐き出す。

 わずかな間にうたた寝をしていたらしい。そして夢を見たのだ。

 周囲の様子を見ると、静かな休息の夜だ。火の大きさからして見ても、そうたいして時間が立っているわけではない。でもそのわずかな間にあたしはこれまでの人生を初めからここまで見終えたのだ。ダイジェストであっても。

 自分にとって死亡フラグとの戦いは積み重なり語るにも万の言葉を費やすと思っていたけれど、こうして少し離れた場所から眺めると悠久の時の中の一ページにも足りぬ些細なものなのかもしれない。

 しみじみそう思っていると、ふと焚き火が照らし出す地面に影が落ちた。そちらに顔を向けると、ペータが立っていた。八歳のとき、窓の向こうにそうしていたように。十二歳の時に泣きながらぼろぼろの本をつまみ上げた先にそうしていたように。二十九年間、そうしてきたように。

「ここ、いいかな」

 (ペータにとっては)理由もないのに突然殴られた過去もまるで介さずに、ペータは返事を待たずに腰掛けた。妙なめぐりあわせにぼうっとして断るタイミングを見失ってしまったけれど、あたしは内心で困った。顔の形が悪くなるかもしれないので、もうこれ以上殴ったりしたくはないのだけれど、二十年超の経験をもってしてもこいつの隙をついたフラグ立ては予期できない。

「鉄兜は眠くないの?」

 しばらく待ってあたしは小さく首を縦に動かした。少し寝た直後なだけに。

「一人で何を考えていたんだ?」

 あたしはまた黙った。だが、黙ったままではまずいな、と思っていた。前はほとんど喋らずにほっといたらペータが自分からべらべら喋ってフラグ立てしてきたのだ。

「……運命について、考えていた」

「運命?」

「そういうものが、あるのかと」

 ペータは興味深そうに目を向けてくる。しかしあたしは経験上知っている。運命はある。少なくとも、”あたしの世界”の中は確実に存在している。

 ペータは困っていたようだが、ふと思いついたように続けた。

「俺の村の女の子は、運命があると信じてたみたいだな。しょっちゅう言われたよ、あんたの運命はこうなんだからこう気をつけなさいとか、こうしなさいとか」

 ……。

「……馬鹿らしいと、思っていたのか?」

 あたしの問いかけに、ペータがきょとんとしてから笑った。

「そんなこと思ってないよ」

「だが、運命があるとは思えなかったのだろう」

「ないと思っていたわけじゃないよ。あるかないか、俺にはよくわからなかった。でも、その子が運命って使うときはさ、諦めるときじゃなくて戦うときだったから、それを見ると運命があってもなくてもどっちでもいいって思ってた。その子のそういうところがずっと好きだったから」

 それを聞いて、悟られない程度に、ふう、とため息を吐いた。さすがに初心に照れるのは、ちょっとすれすぎた。

 正直なところ、あたしはペータに不満が結構ある。デリカシーがないところとか、あたしの努力に気がついていないところとか、29までプロポーズしなくて散々やきもきさせたところとか。

 しかしそれでも、こいつしかいないなあ、とある意味年季が入りすぎた思いがどっしりとセメントで胸に固められている。まあこういうのは仕方ないんだ。

 そのとき、少し離れた場所で、かさりと枯葉の地面に重心を踏み込んだ足音が聞こえた。さり気なく視界を走らすと、ペータの斜め後ろにひとつ人影がある。ロイだ。戸惑った顔はこちらを見ていたが、薄暗い中の兜の表情を彼は読み違えたらしい。こくん、と唾を飲み込んで彼は懐に手を突っ込んで。

 今――か?

 思わぬ到来にあたしは内心混乱した。ロイには機会があったら行け、と言っていた。確かに今はあたしがあげた条件にあてはまるときだ。

 でも、今この瞬間でいいのか、わからない。ロイがぎらりと抜いたのは、おもちゃの小刀なのでペータに危険はないにしろ、一度試せば種がばれるペテンだからここで黒マントがちゃんと出ないと――。

「やあああああああああっ!」

 ロイが黒マントの意識をひこうと、打ち合わせどおりに叫び声をあげる。ペータは二拍くらい遅れて気づき振り向こうとする。――ほんと鈍いなこいつ。あたしが思わずそんなことを考える余裕の中で、二人の距離が縮まる。

 そのとき、思いも寄らぬことが起きた。振り向きざまの姿を見て驚いたペータが中途半端に腰をあげて背後に距離をとったのだ。

 あ。とあたしは胸中で声をあげた。がんばって強襲者を装ったロイ君も思わずあ、という顔をした。互いの焦点は一致していたと思う。反射的に足を引いたんだろう、もろに焚き火につっこんだペータのブーツ。

「あーっ!!」

 あたしとロイ君の声が重なった。思わず素の高さの声が出たけど、ロイ君も負けず劣らず高かったので問題はない。結構弱い火だったので衝撃で踏みつぶされると思いきや、なぜかペータのブーツから高らかな勢いの火が立った。

「えええええええっ」

 ロイが叫んでいる。「なんで!?」

「あ……。あの、油壷をさっき蹴倒しちゃって……」

「馬鹿っ!」

 普通はありえないポカだが、ペータが普通はありえない馬鹿なのだから仕方ない。そのときまで誰よりも落ち着いていた(んな場合じゃないのに落ち着くなっ!)ペータもさすがに熱を感じたのかあちっと短く叫んで――走り出した。

 ええええええっとその行動にロイ君がまた叫んでいる。あたしはとっさにつかんだ毛布を持ったままダッシュで追いかけた。行く先に見える、闇夜にぼんやり浮かび上がる白い天幕が、急にはっきりとした緋の色に彩られる。燃え移ったのだ。

 駄目だ、知りすぎているけどあいつほんと駄目だ。

 気づくと陣内はあちらこちらから火があがる混乱の只中にあった。なんだっ、奇襲か! と周囲から声があがる。やばいやばいこれなんかやばい! 一瞬で切り替わる、なだれをうつように世界の全てがそこに一本道を引いて導くような、この感じ。これは知りすぎている。自分の心臓が焦って飛び跳ねる音と共に、耳に無常にも聞こえてきたのは、聞きなれた誰かの悲鳴と押し寄せる蹄鉄の音。思っちゃいけない思っちゃいけないと言い聞かせたのにどうしても浮かんでしまった最悪の展開――

「敵の、敵の騎馬隊の奇襲だっ!」

「死亡フラグーっ!」

 人生最大の敵の名を、思わず高らかに叫んでいた。そして我が目を疑った。前方にあった後姿が、熱に溶ける雪のようにふっと消えていた。ことを信じられずに駆け出して天幕の裏や人影に目をこらしたけれど、ペータらしい人影はない。ようやく見つけたのは、まだ小さく火をあげるペータの片足のブーツだ。

 はぐれた。

 どくどくと高鳴る鼓動とは逆に、ほとんど無意識にすました耳に聞こえるのは絶望が形なした音。

「あ……」

 瞬間、あたしは立ち止まっていた。ブーツを見つめたまま、自分が発した小さな一音に迫り来る現実を知る。周囲を見回す。誰もいない。

「あ……」

 無人の世界にたった一人残された迷子みたいになる。襲ってくる恐怖が大きすぎて、怖さとも気づけないみたいに。

 ブーツだけがある。ペータがいない。ペータがいない。

 物心ついたときから、戦い続けてきた。不利なゲームだ。勝ち続けなければ即座にバッドエンド。それをやり続けてきた。でも知っている。たった一回の負けで、全部が終わる。そのとき、必死に目をそらし続けてきたものがやってくる。ずっとそれが怖かった。怖くて仕方なかったから、目をそらしてきた。帰ってきたら、結婚しよう。そう言うのは、そう言えるのは、


 ぜったいに、帰ってこないから。


 次の瞬間、あたしは鉄の手甲で容赦なく両頬をぶっ叩いた。がつんと鉄の手甲と兜がぶつかる音が響く。

「ペータ!」

 叫んで駆け出す。

「ペータ!」

 緋の色が踊る陣中を走ったとき、前方に複数の人の気配を感じた。仲間でも敵でもなんでもよかった。ペータ!

 声を出して飛び込んで薄闇の中に佇む複数の人影に目をこらしたとき、目にうつったものがあたしは初め信じられなかった。でも確かに。ペータが立っていた。一人で。ということは、生きているということだ。

「ペータ!」

 正直兜の下では半泣きの鼻水垂らし状態で駆け寄ったとき、だけどペータも周囲の人間も反応せずに前を向いていた。あたしも半歩遅れてそれに気づいた。そこには確かに他の全てを忘れて突っ立つ光景がひろがっていた。

 いななきをあげる馬の上で、けれど騎乗した兵士はそれに構っていられないようだ。なぜなら闇にまぎれた黒い影が四方八方問わずに襲来して彼らを馬上から叩き落しているからだ。一気に涙がひいた。

 間違いない。あれは、謎のペータ救出者。

 敵はそれに翻弄され、あたし達に意識を向けるどころではない。正体不明の敵を相手取る恐怖は蔓延して、彼らの狼狽は見ていて気の毒なくらいだ。故に居合わせたあたし達は呆気に取られて傍観者になっていられる。

 敵の騎馬隊は結構踏み込んできたらしく、燃える天幕が背後にあるので場の様相を把握するのに光量は十分なほどだ。期せずして千載一遇のチャンス!

 あたしはぐっと目をこらした。視界を限定する兜が邪魔だと短気を起こしてひっぺがす。

 兜を投げ捨てて、久しぶりに外気に触れた頭を振って、改めて見やる。よし見える。わずかな合間にほとんどの敵を追い払うか倒している相手、黒いマントが熱をはらんだ風にあおられている。その隙間。もう少し……。あの翻る黒マントさえなければ……! 

 見えそうで見えないそれに業をにやし、あたしは脇に転がっていた短弓をつかんだ。矢筒もついている。

 一本引き出し、一呼吸で番えて次の二呼吸で黒マントの動きを予測して尾羽を離した。

 夜気を裂く鏃が翻るマントの端を捉える。その勢いのまま、飛来した矢羽は黒マントを貫きべりっとその身体から剥ぎ取った。

 おおっ、と誰かが声をあげる。そして緋色の中で、最後の兵士をしとめた人影の姿が誰の目にも露になる――

 呼吸がとまった。一拍。

 ひぐ、と誰かが間抜けな音を出したのを聞いた。二拍。

 その音が自分の喉から出たのだと気づいたので、三拍。

 必死に息を吸い込んで、そして、あたしは叫んだ。

「おとーさま!?」

「将軍?」

 あたしの言葉とペータのそれはかぶった。周りの兵士達が不審そうな顔を向ける先に、その人は立っていた。ちょっと立っていて欲しくなかった。My father。

 見間違えたい気が満々だけど、実の娘でなくてもおとーさまを見間違えるのはなかなか難しい。白銀が混じった髪と髭。汗とマントのせいか、どちらもちょっとぺったりつぶれているが、ナイスミドルと言ってもいい彫りの深い顔立ちは正確にこちらから45度のキメ顔。に、年を感じさせない身体も均整さが強調される斜め前、肖像画のモデルになるときに必ずとる姿勢だ。ドヤ顔が実にうざい。

「――心得るが良い。人生のさ迷い人たちよ」

 キメ顔とキメポーズの、あたしのおとーさまは、呟いた。ご本人の娘さんが「あれさえなければ」と常々思うアレ全開っぷりで。

「人は誰もが中心に気を取られる。だが、考えるが良い。渦の真中こそが闇をはらむわけではない、その脇に咲く花にこそ真の焦りが秘められていることを。29の未婚の娘より、さらに切羽詰った存在。――それはその娘を持った、父親だということを!」

 熱い声をほとばしらせるおとーさまに、誰も反応しない。でもおとーさまは気にしない。気にしたためしがない。

「だが、誰の前にも障害物のない人生など敷かれてはない。その障害物をどれだけ取り払って進めたかが、その人間の真価だ! ――見るがよい婀娜花の最後の一片を!」

 そう言い放って、縫いとめられたマントを取り戻し、炎を背景にばさあっと翻す。鮮やかな炎の色と、対照的な闇と黒い翼のようなマント。その一瞬は、絵画のよう完全な構図だ。すっげーいらつく。そしておとーさまは颯爽と炎の向こうに消えた。

「……」

「……」

 みんなの記憶燃えてくんないかなあとあたしが暗い情念を募らせる沈黙が満たす場に、一人の兵士(多分サジだ)が、完全に訳がわからんという感じでペータに話しかけた。

「誰だ、あれ?」

「うちの近所のおじさんで、小さい頃から知ってるんだ」

 その説明に余計わけがわからん、という顔をしていたサジだけれど、ウルフ将軍って言うんだけど、とのペータの付け足しを聞くと、一瞬きょとんとしてそして急にみるみる青ざめていった。

「ニ、ニックネームだよな? それ」

「え? いや、本名だけど。将軍もほんとにやってたらしいし」

 知り合いのお父さんなんだけどね、とのペータの呟きにも反応せずに、サジその他のペータの話を耳にしていた面々の顔色がどんどんどんどん青くなっていっている。

「おじさん、なにしにきたんだろう?」

 兵士達の表情にも気づかない様子で、ペータは去った方角を見ながら、まるでわかっていない様子で呟いてから、ふと気づいたように振り返って兜を引っぺがしたままのあたしに目をとめて

「え、ティア?」

 なんでここにいるの、とびっくりしたように呟いた。




 戦争が訳がわからない唐突さで終結したのは、その五日後だった。それまでの徹底抗戦を捨て去って、双方、尻に火がついたように慌てて平和協定を結んだ。国のえらい人たちは引退したんじゃなかったのか……と青ざめて呟いたとか呟いてないとか。

 それはともかく、あたしとペータは故郷に戻って無事に結婚式をあげた。

 式でおとーさまはマジ泣きした。その全身からちょっと血臭かおる感じが増えたような気がするのは誰も全力で気にしないでおいた。それさえなければ、さすがにあたしも幸せ全開だったから。

 そうして、めでたしめでたし。これでおしまい。

 ――

 ……それで全てはすんだはずだった。あたしの読んだ本の大半もそれですべてがすんだ。けれど、今、小さな可愛い新居の中、暖炉のそばに置かれたロッキングチェアに腰掛けて、揺られるあたしの気持ちは全然晴れない。

 結婚式のときは正直、これでゴールだと思った。ようやくあたしは完走したのだと。ところがどっこい、それはスタートに過ぎないと、訳知り顔の友人達の言葉がいますごく実感できている。確かにいろいろな本のラストは証明している。終わりと思ったそこからが始まり。俺達の戦いはこれからだ。

 不意にドアにつけた鐘がカランカラン鳴った。あたしが椅子から立ち上がろうとする間に、ペータが部屋に入ってきて座っていて、と声をかけてきた。上着をはいでドア近くの外套かけに引っ掛けるペータをじーっと穴があくまで観察して、ようやく結論を出す。

「どうやら今日は、無事みたいね」

「おかげさまで」

 おじさんが今日もべったりだったからね、と上着をはいでペータが笑って、あたしのお腹に手をあててただいま、と呟く。微笑ましい光景ではあったけれど、それより懸念が強くてあたしの眉は寄ったままだ。

 あの出来事のあと色々口に出せないもやもやが胸に渦巻いてはいたけれど、背に腹はかえられない、立っている者は馬鹿親父でも使え。護衛としてのおとーさまの腕は信頼している。だけど、やっぱり自分で見張っていられないというのは、精神衛生上よろしくない。

「あと一ヶ月、用心してよ」

「そんな迷信大丈夫だと思うけどね」

 頭痛がしてきて額をおさえたあたしに、まるで同情するように、ばんとお腹がうちから跳ねた。あ、蹴っている、と嬉しそうに呟くペータを前に、あたしは深々とため息をついて、29年間、思い続けてきたことをまた思った。終わりと思ったそこが始まりだった。俺達の戦いはこれからだ。エンディングの前にはかならずネバーがつく。


 こいつの次のNGワードは「俺、来月、子どもが生まれるんだ…」に間違いない。




                <帰ってきたら、結婚しよう>完

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