水蛇と少女 2
アサの運命は蛇に委ねられていた。後はくわえ込んだ口にそっと力を入れるだけ。
その瞬間、アサの小さな頭ははじけ飛ぶ。きっと赤いざくろのように裂けるのだろう。
あれほど感じていた恐怖感が抜けるのをアサは感じた。あっけなく自分の人生が終わろうとしている。しかし特にほめられた思い出などひとつもない。惜しむようなことなど無いと感じたのだ。
『くっくっく。なんとも肝が座った人間だ』
蛇はアサを唐突に離した。目を細め、喉の奥で低く唸った。笑っているのだ。
『俺は人を食べないよ。からかってみただけだ。お前は奴隷なのか?』
アサは枷をさすった。痛みやかゆみを感じるとき、どうという効果は無いのだが無意識にさすってしまうのだ。
「ドレイじゃないよ」
『ならなぜ、鎖をつけている。外してしまえば良い』
アサの両手両足首には赤錆びた枷がはまっており、足の枷には重そうな鎖を引きずっていた。幼い頃に付けられたのだろう、それはアサの体には小さく肉に食い込みつつあることが見て取れた。
「これは、私が悪いことをしないように、逃げ出さないように、あるの」
お前は悪い子だ。とご主人様は口をすっぱくして言う。お前の居場所はここしかないのに、逃げ出したいと思っている悪い子だ。この世の中で最も私達が一番寛大で、お前のような者に食べ物と居場所を用意してやっている。
いうことを聞かないのは悪いことなのだ。嫌だと思うことは悪いことなのだ。
『愚かだな。お前は奴隷だよ。ヒトは時に道具としてヒトを使う。主人もくだらないが、使われているお前もくだらない』
「くだらない?」
『生き物としての本分を放棄しているからだ』
「いきものとしての本分」
アサは、いかにも覚えたての単語を確かめる赤ん坊のように、オウムのように口の中で反芻してみても、蛇の言うことは難しく、意味はよくわからなかった。いきものとしてのほんぶん。それはなんだろう。
意味はわからなかったが、草原をかける馬の姿が浮かんだ。彼らは何者にも縛られず広大な草を食むことが出来る。想像上の彼らは澄んだ目を向けてアサに問いかけた。足があるのに、なぜ駆けないのか?
『なぜ、逃げないのだ。お前は家畜ほど頑強な綱で繋がれている訳でない。逃げればいい』
「にげる、だめだよ」
長年言いつけられてきた部分に触れられ、アサは敏感に素っ頓狂な声で反応した。
「おくさまの食事は誰が作ればいいの。おにいちゃんの服が汚れたら誰が洗えばいい。食べ物は誰がとればいいの。私はあの家にいなきゃいけない。そんなことをしたらきっと、ムチ打ちじゃ、済まない。焼け石で、じゅうってされる」
蛇は低く笑った。ますます興味深い、といった様子でじっと見ている。
『それもお前の自由だ』
蛇は目を閉じると空の色と交じり合い、一瞬で姿を消してしまった。
「いきものとしてのほんぶん」
アサは山を降りていた。戻れば、何をされるか予想もつかない。仕事が遅いといっては鞭打たれ、顔が汚いと言ってはぶたれてきたのだ。
1分の遅刻も許しはしないあの主人が何をするだろうと考えると、震えた。
(逃げる)
アサは道を引き返そうとした。しかし心が締められるような苦痛を感じた。いったいどうやって逃げるというのだ。恐怖に囚われたまま戻ると、主人たちが勢揃いしていた。
「おい!この虫けらが!仕事をサボったな」
「命じられたこともできないのか」
主人の家族たちが口々に罵り、アサを蹴った。内蔵を守るため、アサは腹を抑えて丸まり血を吐いた。
主人の目を見た瞬間、アサは死を覚悟した。いつでも虫を見るような目でアサを見ている主人が明確な怒りを浮かべていたのだ。手には大ぶりの刃物が握られている。
近づいてきた主人が、無言でアサにそれを突きつける。
(嫌だ、死にたくない)
アサは弾かれたように逃げ出したが、振りきれるはずがなかった。あっという間に捕まって主人の家族たちに殴られ、押さえつけられた。まな板の上に手を置かれる。
「罰を与えないといけないな」
どの指を切り落とそうか吟味し、今に振り下ろそうとしたその瞬間焦った見張りの一人が転がり込んできた。
「おい!向かいの丘で王の兵が列を成してきてるぞ!」
「なんだと」
顔を歪めたあと、主人はアサを睨みつけた。そして刃物を向ける。
「お前が呼んだ……?」
主人の家族らは、軍隊が来たと聞いてから一分程度でまるで練習でもしたかのように手早く荷物をまとめていた。
「早く逃げるぞ!そいつなんか放っておけ」
「いや……駄目だ。下手に野放しにするのははまずい」
主人は、血も凍る残忍な笑みを浮かべた。
「こいつはここで殺す」
深くアサの胸に向かって銀に光るそれが突き立てられる、その瞬間。
水が、押し寄せた。青く透明で澄んだ水が、突然アサの目の前から、地面から、厩から、勢い良く吹き上がった。高いところから一気に水量を増加しながら降りてくる。
足の高さ程度だったものが、一気に肩まで水かさが増した。
不思議な水だった。なめらかに広がらず、見えない仕切りでもあるかのように一直線にこちらへ向かって突進してくる。雨の日の川は泥に染まるのに、地面を抉り家を破壊している水の色はごく澄んでいた。浮き上がった土や砂が水と混ざらず沈殿する。主人は叫びながら水に流されていく。その手下たちも、息子もだ。
テントが奔流に襲われ、入り口が裂け衣服、食料、これまで奪ってきた盗品、さまざまなものが浮かび、流れだしてゆく。馬が悲鳴を上げながら水の中をばたつき、柵が壊れ、この隠れ家を支えたあらゆるものが一瞬で消え去っていく。水は更に増える。
ついにアサの背丈に達し、すさまじい水が波となって向かってくる。アサは目を閉じた。
波がアサの体にぶつかり、ついに完全に体が水中へ潜った。
水の中は嘘のような静寂に包まれていた。これほどの濁流とは思えないほど水音はなく、こぽこぽとせせらぎが聞こえているのみだ。
ひんやりとした水が肌に心地よく、緩やかな流れは感じるものの、なぜか主人やその親類たちを押し流した力は感じない。彼らと同じ所に浸かっているはずなのに。
アサは水中で目を開いた。不思議な光景が広がっていた。澄み切った水が広がり、一面に水が広がっている。アジトや人の痕跡は綺麗に流されており、水が深く、見上げるほど満ちている。上を見ると水面から陽光が揺れ、カーテンのように地面に降り注ぐ。地面を見ると細い草が空気中にはありえない動きでゆっくりと動いている。
天国。この世ならざる神聖で不可思議の光景は、伝え聞く天国のように思えた。
アサはそんな中赤い宝石が浮かんでいるのに気づいた。ちらり、ちらりと動く2つの宝石。
いや、違う。その血よりも赤い輝きにアサは覚えがあった。
蛇だ。
水とほとんど同化して見えなかった体が、意識した途端はっきりと見えた。光を照り返す鱗が僅かに見える。目を凝らすとよく見える、先程の硝子のような美しい体が視界いっぱいに広がっていた。
アサは息がこぼれるのにも構わず蛇に問いかけた。
「あなたが助けてくれたの?」
ごぽぽ、と泡を吐き出しただけだったが、蛇はちろりと舌を出しアサを見下ろした。水の抵抗など毛ほども感じさせない動きでなめらかに尾を水中に滑らせる。
『お前は運が良かったのだ。奴隷売人の噂を聞きつけた騎士団がたまたま通りかかったのも、俺に出会えたことも。感謝をするならお前の幸運に……いや』
蛇は目を細めた。
『この幸運を引き寄せた、これから訪れるであろう数奇な運命に感謝するんだな』
突然水が一斉に震えた。キーンと耳につく音が鼓膜を震わせる。と同時に膨大な量の水蒸気に変わった。あまりにも大量で視界が曇り、湿度の高さに蒸せた。それは渦を巻いてい凝縮し、あっという間に消え去る。
蛇がするすると水面を滑り、登っていく。空へと飛び出しアサのことなど振り返りもせず。
「盗賊団め!大人しくしろ!」
近づいてくる馬の蹄の音と人の怒号、鎧の触れ合う金属音。王国騎士団の到着を告げるラッパが高らかに鳴り響いた。銀の鎧を纏い馬にまたがった男が列を成してやってくる。
気が遠くなっていく――。
「隊長!生存者を発見しました」
馬に乗って慌ただしく近づいて来た男が声を張り上げる。
「おお、こんな所に幼子がいるとは。奴隷にされていたのだろう」
「保護しましょう、ノキ隊長。私の知り合いの和尚なら引き取ってもらえるかと」
「いや、待て」
完全に意識を失う寸前にアサが見たものは、金髪で精悍な顔つきの男が馬から手を伸ばしてくる光景だった。
「私が育てよう」
今思い出しても、かつて私が見たことがないくらい優しい目をしていた。




