水蛇と少女
あなたは誰。少女は問いを発した。目の前に横たわる巨大な存在に。
半透明な青の体躯。なめらかなで陽光を反射する真珠のような鱗。
呼吸をしているのか、ゆっくりと体が上下し、蛇には無いはずのまぶたを閉じている。
霧かかる早朝の森でアサが発見したもの。それは巨大な蛇だった。人など軽々と丸呑みにできそうで、水晶のように美しい体を持つ、この世のものとは思えない大蛇を目前にしても、アサは恐怖を感じなかった。
神様。圧倒的な存在感。氷の彫刻のように輝く蛇がアサには神様に見えたのだった。
この森に住む計り知れない自然の化身とも言える存在が、形をとって麗らかな日差しの中で丸まって休んでいる。幼いながらもそう確信していた。
頭の片隅で警鐘を鳴らす、未知のものに対する恐怖を無視して、取り憑かれたように蛇に近づいた。
近くで見ると、なお一層に大きい。とぐろを巻いた姿は見上げるほどで、アサほどの少女など軽く一飲みしてしまいそうだ。両手で抱えきれないほど太い。
陽光は透けている蛇の体を通りぬけ、向こうの木々も見ることができた。
アサは今まで見たことのあるどんな風景より、なによりも美しいと感じた。
あなたは、誰。
アサはもう一度頭の中で問いかけた。綺麗で大きいあなたは一体誰。
蛇はぴくりとも動かなかった。森の中に突如氷に穿たれた彫刻のように、身動ぎもしない。返事がもらえるとは期待していなかった。
アサは水菜やわらび、シソなどが詰まったバスケットを置いて、蛇の前に座り込んだ。食事のために親から山菜を取るように言いつけられていたのだが、そんなことはアサの頭の中から吹き飛んでいた。
足首に付けられた太い鎖がじゃらりと鳴る。手首にも重い手枷が食い込むようにはまっており、アサは無意識に手枷を触る。
空を薄めたようなあおい硝子のような鮮やかな体は、近く見るとオーロラのように様々な色味を帯びていることが分かった。
何時間でもこの蛇を眺めていたい。アサはそう思った。ここから立ち去った瞬間、蛇が消えてしまいそうな気がするからだ。
「あなたは、本当に神様?」
赤い蛇の目が突然開いた。こぶし大ほどの大きな目だ。アサは驚いて固まる。身じろぎして、眠そうにこちらを見返す。やがて起き上がり、鎌首をもたげてこちらを見下ろした。
首を伸ばすと恐ろしいほどの迫力だった。蛇から透ける影がアサを覆い隠し、首が痛くなるほど見上げた。ちろちろと舌が見え隠れする口から人の言葉が漏れる。
『小さい人間。俺が見えるのか』
アサはごくりと息を飲んだ。縦に頷く。
『ふん、ここは危険な動物どもの生息地だ。ちびの人間が入り込む場所ではない』
去れ、と低い声で宣言し、再び蛇は地面に首を下ろして丸くとぐろを巻いた。
血よりも鮮やかな赤い瞳は、アサを見据えたままだった。
「あなたは、神様なの?」
『俺は守るもの。この山から沸く水を統べるもの。なんとでも呼べばいい』
それきり蛇は沈黙した。どうやら蛇は再び眠くなってきたようで、まぶたが落ちかけている。日が高く登りはじめた。もう森に入ってから1時間は経っているだろう。
中々戻らないアサは主人が激怒し、アサを酷く叱りつけている様が頭に浮かんだ。
日々刻み付けるように植え付けられた恐怖で体がすくんでしまいそうだった、しかしアサにとってそんなことさえどうでもよいと思えた。こんなことは初めてだった。
『帰らないのか?』
いつの間にか赤い目が開いている。
「帰りたくない。だって、このまま帰っても怒られるから」
主人が振るい、耳元で唸るムチの音が鮮明に聞こえるようだった。目を吊り上げ、私の仕事の手抜きを怒るだろう。そして仕方がないと顔をほころばせながら罰を与える道具を選ぶのだ。竹か、木の棒か、鞭か、あるいは握りこぶしか――。
山の登り下りにも手間がかかる。走って、走って休む間も無くやっと間に合う仕事だ。
こんなに遅れてしまっては――指の一本をとってしまえと、ご主人様が口をそろえても不思議ではない。仕事もできない指なんて、きっとあってもしかたがないだろう。
そう言い出す様子が目に浮かんだ。
アサは吐き気を覚えて地面にへたりこんだ。
その様子を、興味深げにじっくりと蛇は観察していた。
『俺は、もう人などには忘れ去られたものだ。社は廃れ、祭りも本来の意味を失い、供物などここ100年は受けていない。久しぶりに人を見ていると――供物を得たいという気分になってくるものだ』
蛇は伸び上がってアサの目と鼻の先まで近づいた。尻もちをついて驚くアサの鼻先を舌でぺろりと舐める。
『人の身はまずい。大味だからな。肉自体に意味は無い。だが血は別だ。思念、願いや祈り、そして希望や恐怖といった感情が練り上げた力が混じったものだからな、美味いんだよ』
蛇はアサの虹彩でも覗きこむかのように零れそうなほどの瞳でじっと見つめた。
近い。ふいごのような蛇の息づかいを直に感じて、鳥肌が立った。
『人の世に帰りたくないのなら、すべての源に還ればいい。俺の血肉となるのも悪くはないだろう。共に千年の時を見るのだ』
蛇が口を開ける様子を、アサはじっと見ていた。きらきらとした牙が2つ付いている。
それが優しくアサの首筋に当たるまで、アサが正体を無くしたように蛇を見つめていた。




